5回目
叶玲子演じるイリュージョンショウ初の東京公演は、大盛況のうちに幕を閉じた。
八重垣は都内のホテルに松谷と尊と一緒に泊まることになった。家が近いからと言ったのだが、尊にねだられてはどうも断れない。結局、尊と同じ部屋に泊まり、ショウを毎日見に行く羽目になったのだ。それは、極上のシートで見る、すばらしく幻想世界だった。どれもこれも大掛かりでありながら緻密で繊細な、めくるめくイリュージョンのオンパレードに魅了され幻惑されての一週間はあっという間に過ぎ去った。
そうして、関係者各位と各界からの招待客が集っての打ち上げパーティーが彼らの泊まるホテルのレセプションホールを借り切っておこなわれた。
きらめくシャンデリア、生花のかおりに混じる、アルコール、香水。きらきらと透明なクリスタルの水槽の中を泳ぐ熱帯魚のように、フォーマルに身を包んだ男女が笑いさんざめいている。その中には有名なアーティストや、八重垣でも知っているようなお偉いさんの姿もある。そんな会場に、借り物のフォーマルに着られているような八重垣がいる。
(場違いだっつーか、なんか、ついてけない世界だ)
ワインレッドのソファに腰を浅く下ろして、みごとなまでの壁の花である。
尊は叶と一緒に人の輪の中にいる。
にっこりと笑って握手している尊は申し分のない美青年だ。美男に慣れているだろう女優たちまでもが頬を赤らめて微笑みかけている。その尊が叶に呼ばれた際八重垣に、
『ここにいてね。絶対に先に部屋に戻ったりしないでね』
などと、可愛らしく念を押したのを知るものなどいないだろう。
立食方式だったので気兼ねなく旨そうな食べ物をあらかた味見した八重垣は、おかげで腹いっぱいだった。
「退屈だよなぁ………」
食べてしまえばすることもない。
頭の後ろに腕を組んで天井を見上げていた。と、通りがかったウェイターのトレイから白濁した液体の入っているグラスを失敬して、傾けた。
グレープフルーツのかおりのする液体がするりと喉に滑り込む。
胃の中で燃えるアルコールに視界がうっすらとぼやけた。思うより強いカクテルだったらしい。
(やば………)
寒いくらいに効いている空調の中にいるにもかかわらず、汗がにじむくらいにほてってしまった。
(オレって、酒に弱いのか? もしかして)
新たな事実に、
(顔洗ってこよ)
立ち上がった視界の隅に、それは映った。
小刻みに揺れるシャンデリア、ティアドロップ型にカットされたの反射板兼飾り。
八重垣が見たのは、カクンと、直径二メートルくらいのシャンデリアが数センチ下がった瞬間だった。
クリスタルの飾りが揺れる。その、ちりちりという音が聞こえてきそうだ。
シャンデリアの真下は、ちょうど、叶と尊と、彼らを取り巻いている人の輪である。
誰ひとりとして、頭上の異変に気づいている気配はない。
「あ……………」
たった一杯のカクテルで喉が焼けでもしたかのように、声が出ない。
喉が、ひりりと、軋り、痛い。
(くそっ)
もう一度と、八重垣は、
「あぶないっ」
喉も避けよと叫んで、走り出した。
さんざめくひとを押しのけ、悲鳴と舌打、罵声を浴びながら、八重垣は、かなうかぎりの速さで、彼らに駆け寄ろうとしていた。
耳を聾する破壊音に、きらめくクリスタルの無数の欠片。耳をつんざく悲鳴が、ホールに響いたのは、一呼吸遅れてのことだった。
「八重垣っ」
「八重垣くん」
間一髪、八重垣に力まかせに突き飛ばされた尊と叶とは、飛び散ったガラスの破片で、あちこちに細かな切り傷を負っていた。もっとも、それは、彼らの周囲に集っていたひとたちすべてに言えることではある。が、それ以上の怪我はなかったのが、不幸中の幸いであったろう。
ただひとりを除いては――――ではあるのだが。
尊がくったりと力なく倒れ伏している八重垣を膝に抱きかかえた。
青ざめ瞼を閉じた表情は、いつもの明るい八重垣を見慣れた尊には不安以外のなにものをも与えなかった。
八重垣の額からは、決して少なくはない血がながれ幾筋ものねっとりと赤いラインを描いていた。
「八重垣………」
名を呼ぶ声が、少しずつ、小さく、途切れがちになる。
くらくらと、周囲が、揺れる。からだが揺れる。動悸が、激しくなり、背筋が一瞬だけカッと灼熱を感じたと思った次の瞬間には、信じられない速さで、熱を無くした。
(あ………)
目の前が、虹彩をかたどったのだろう、ヤグルマギクめいた閃光を残して青黒く視野を狭めてゆく。
喉が、詰まる。
きりきりと、耳と顎の付け根のあたりが、痛みを覚えていた。それは、次第に全身へと広がり、やがて尊は八重垣の上に折り重なるように意識を手放したのだ。
意識を失う寸前に尊が覚えたのは、自身頭に受けた、信じられないほどの衝撃と灼熱の痛みだった。尊の深く閉ざされ忘れ去られていた記憶の扉を、八重垣の流す血潮がこじ開けてゆこうとしていた。
守ろうとした母の青白く血の気を失った顔が、どろりとした質感の血の色の奥に消えていった。




