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1回目




「あり? まよったっけ?」

 蝉時雨の降りしきる山の中の一本道で、八重垣は立ち止まって後頭部を掻いた。

 車二台がすれ違うのがようようの細い道は、だらだらとした上り坂で、

「どっか、脇道を見落としたっけかなぁ………」

 振り返り八重垣は、うんざりと肩を落とした。

 暑い。

 夏だから仕方がないが、とにかく、午前中だというのに暑いのだ。

 これからまたこの道を引き返して、それからバイトの面接がある会場まで歩かなければならないのだと思えば、肩が落ちるのも仕方がない。

(せっかく条件のいいバイトだったのにな)

 星の見える丘とかいう、女性に人気のペンションが、人手を募集していたのだ。時給もかなりよかったし、住み込みだし、山のペンションということで、気候も涼しいらしい。それになにより、女性に人気というのが八重垣の気を惹いた。とりあえず履歴書を送ってみると、応募が多かったので面接をして決めたい。何日の九時三十分までにペンションに来てほしい――と、返信が来た。交通費を考えるとばかばかしいが、やっぱり都会よりも涼しい土地で、きれいな女性がたくさん来るだろうペンションでのバイトというのは、捨てがたかったのだ。が、腕時計を見れば、九時半をいくらか過ぎたくらいである。

「あ~あ、こりゃかんっぺき遅刻だ……………面接、アウトだよな」

 かっくりとうなだれた八重垣が、とりあえず、携帯で断りを入れんとなぁと空を仰いで道を引き返そうとした時だった。左側の竹薮が音をたてて揺れはじめたのである。

 八重垣の頭の中を、さまざまな可能性が光速で駆け抜けた。

 逃げよう――と思ったのは、ほとんどの可能性が出尽くした後のことである。

 が、結局、八重垣は逃げなかったのだ。


 それがよかったのかどうか、勿論、この時の八重垣にはわからないことだった。


「おい、大丈夫かっ?」

 繁みから現われたのは、あちこちに木の葉などをひっつけて薄汚れた、ひとりの青年だった。

 一息吐く間もなく道に倒れ伏した青年の上半身を、しゃがんだ膝の上に抱え起こす。首からぶらさげていたペットボトルの水を、少しだけ顔にかけてやる。シャツの胸元をくつろげようと伸ばした手が、意外としっかりとした力のこもった手でつかまれた。

「ほら」

と、口元にボトルを近づけると、喉を鳴らして飲み干した。

「あ~あ」

 戻されたボトルを逆さにふっても、数滴の水がこぼれただけだった。

「送ってこうか?」

 どうせ、今日はもうダメだしなぁ――――と、青年に手を差し伸べた。

 青年が、八重垣の手を取る気配を見せたとき、

「こっちだ」

と、低い切羽詰っているような声が聞こえ、八重垣と青年とは、十人の黒服に囲まれたのだった。

 黒服たちに囲まれた瞬間、脊髄反射だったのか、青年は素早く八重垣の手を掴み、以降何が起きても頑として離さなかった。

 おかげで、今、八重垣は、青年の部屋の立派なソファに腰掛けて、よく冷えたフレッシュジュースを啜っている。

 なめらかな本皮のソファは、少々腰の据わりがもぞもぞと落ち着かない。壁一面ガラス窓のロケーションは、崖の上らしく開けていてすばらしいが、夏の凶悪な陽射しが差し込んできてまぶしい。

 ブラインドを下ろしてもいいよなぁと立ちあがりかけたとき、

「八重垣っ!」

 弾んだ声がして、この部屋の主が、奥のバスルームから走ってきた。

「わわっ」

 青年が抱きついてくる衝撃に、テーブルに戻していたグラスに手が当たり倒れかけた。グラスの中の氷が、騒がしい音をたてる。

みことさま」

 落ち着いた初老の男性が八重垣に目礼しながら、

「お着替えください」

と、シャツとズボンを差し出した。

 尊は、タオル地のバスローブ一枚という格好で、八重垣に抱きついている。

 男がどんなに引っ張っても離れようとしない尊に、内心肩を竦めながら、

「いるから、着替えてこいって」

と、口にする。

「さあさ。八重垣さまもああ仰ってくださっているのですから、あちらでお着替えになられてください」

 男――松谷が八重垣に感謝の目交めまぜを送ってよこした。それにひらひらと手を振って、

「ほら」

と、首の下に回されていた尊の手を叩いた。

「うん!」

と、学童年齢前くらいの少年のような返事をして足取りも軽く松谷についてゆく尊を見送りながら、八重垣はジュースの残りを勢いよく飲み干したのだった。





「うん。ああ、そう。夏休み中のバイトが決まったんだ。住み込み。今日からすぐって言うからさ。うん。そう。――――わーってるって。じゃな!」

 家にかけた携帯を切って、八重垣はベッドに背中からダイブした。

 スプリングの効いたベッドマットが、全身をしっかりと支えてくれる。きしりとも軋まない。

(マホだったらめちゃくちゃ喜びそーなへやだよな)

 バイトといいながら与えられたゲストルームは、ヨーロッパとかのアンティーク調の家具が配置された、バストイレまでついている部屋だった。壁と同じ淡いグリーンの小枝や小鳥が描かれている天井を眺めながら、今日一日を八重垣は思い返していた。

「災い転じて〜ってやつかなぁ?」

 バイトの面接先にはしっかり断りの連絡をしてある。

 新たなバイトの内容はあの尊の遊び相手というものである。

 バイト探さないとなと独り語ちていた八重垣のことばを、松谷が聡く聞きとがめ、でしたら――と、紹介してくれたのが、尊の相手というものだったのだ。

 曰く、

『今日のように勝手に抜け出されて、もしも怪我などなさったら、奥さまに申訳がたちません』

ということである。

 八重垣にとっては、渡りに船のバイトだった。

 まぁ、どこを見ても男しかいない職場だが、バイト代が破格だったので、断るのももったいなかった。ふたつ返事で、引き受けた八重垣である。



 まさか、尊の母親が、あの叶玲子だとは。

 世界でもトップクラスの、有名なイリュージョニストである。ただし、残念なことに、彼女の公演が、日本でおこなわれたことは、まだない。衛星放送などで、たまに、ラスベガスのステージなどが放映されることがあるくらいだ。一度偶然見てから、八重垣はその腕前に幻惑された。正直、素直にすげーと感動できるマジシャンは、彼女が初めてだったのだ。

 それはともかく、バイトを引き受けるにあたって聞かされた話に、すっかり感心と同情してしまった八重垣である。

 叶というのは、彼女の結婚前の苗字だそうだ。離婚した今では、本名といっていいだろう。つい突っ込んでしまったのは、息子の名前が寒河江さがえ尊だったからだ。

 叶のイリュージョンのネタを、悪魔に魂を売ってでも欲しがっているものは、掃除機で吸い込んでも吸い込んでも追いつかないほどらしい。

 たくさんの弟子とスタッフ、それに、ファンや信奉者、求婚者に、自称パトロン、自他共に認める、ライバル達。それに、叶側が把握していない敵が、相当数存在するだろう。

 だからこそ、彼女が何よりも大切にしている息子もまた、常に狙われている。幼いころに、尊は幾度も誘拐されかけた経験を持っていた。彼に十人もの黒服、すなわち、シークレットサービスがくっついているのは、伊達などではないのだ。

 二年前のこと、叶本人の命が狙われた時、尊はその身を挺して彼女を守ったのである。

 犯人はすぐに捕らえられたものの、尊は意識が戻らないほどの事態に陥っていた。若さが幸いしたのか、怪我は二ヶ月ほどで完治した。ただし、被弾箇所が頭部であったことが、今度は災いした。

 意識を取り戻した尊は、記憶をすべてなくしていたのである。

 日常生活の常識も、ことばさえも忘れて、尊は赤ん坊に還ってしまっていたというのである。


 そうして、今。尊は、比較的治安がよいという日本の別荘で、倍に増やされたガードたちと使用人たちに守られて暮らしていたのだった。

「八重垣っ」

 外見は二十代前半の、黙って立っていれば女性の十人中七、八人までは文句なく掴み取れるだろう、白皙、黒髪、琥珀の瞳の青年が満面の笑顔で飛びついてきた。

「ぐえっ」

 腹にダイブされて、蛙が潰れたようなうめきをあげる。

「ノックぐらいしろよ」

 しばらく腹を押さえて丸まっていた八重垣だが、これだけは言っておこうと、隣にちょこんと正座している相手を涙目でねめつけた。

「ご、ごめんなさい。でも……八重垣が夏中ここにいてくれるって聞いて、嬉しかったんだ」

「だからって、ダイブはないだろ」

 しゅんとなった尊に、

「ま、いっか。次からすんなよ」

と、手を伸ばして、頭を軽く叩いたのだった。

「うん!」

 二十代前半の男が響きの良いテノールで答えるそのギャップに、ベッドに懐きたいのを八重垣は堪えた。そうして、

(バイト、早まったかーーー?)

 ちょっとだけ、そう思わずにはいられなかったのである。



 尊の遊び相手というのは、案外、性にあっているらしい。

 八重垣としては、妹しかいない長男によくあるように、弟や兄に憧れてしまう。

 兄のような外見の、弟のような存在というのも、慣れてしまえばなんと言うこともない。

 テレビゲームや昆虫採集、乗馬、プールでの水遊びなど、尊が遊びたいというもので遊んで日々を過ごすのだ。

 さすがに、庭にある厩舎に連れて行かれて、乗馬をねだられた時はさすがに驚きもした。やったことないというと、尊がしっかりと教えてくれた。おかげで、まぁ、馬の背中から落ちないくらいにはなった。そのせいで、朝は馬で散歩などという、はなはだ健康的な日課が加わったりしたのだが。ラジオ体操をやらされるよりは、ましだろうと、八重垣は諦めた。

 また、五十メートルのプールに入ったとき、尊のスタイルのよさに、コンプレックスを刺激されなかったといえば、嘘になる。

 すらりとした長身に、痩せぎすではあるものの、見苦しくない程度にバランスのよい肉付き。肩から背中、腰にかけての、理想的なライン。オー脚でもエックス脚でもない、まっすぐで長い、足。

 ま、まだオレは成長期なんだから……と、自分で自分を慰めるのは、少々寂しい経験だった。が、これもまた、毎日のように、尊に誘われてプールに入るようになると、慣れてしまった。きれいなおねーさんがいたりして、尊ばっかりがちやほやされたりしたら、ふてくされるのも虚しいだろうが、そういうことは、幸か不幸かない。だから、八重垣は、尊に渡されたアヒルのゴムボート−−ちなみに尊は、イルカだ−−を膨らせて、その上で昼寝をしたりするのだった。

「ほら、大和っ」

 呼び捨てにされるのは、尊が外国生まれの外国育ちだということで、注意することは諦めた。まぁ、最初は、日本語喋ってんだから、

さんくらいつけろよなと口を酸っぱくしたのだが、ほかは素直な尊が、このことに関してだけは頑として己を曲げなかったのだ。それに、見てくれだけなら、たしかに、尊が年上である。

(なんか、オレって、つくづく順応性が高くないか?)

 そんなことを考えながら、尊を振り返る。

 差し出されている掌には、なにもない。と、きれいな軌跡を描いて翻った白い手が再び開かれると、そこには、赤い大振りのビー玉がひとつちょこんと乗っかっていた。

「おっ、尊。すごいじゃん。よし、なら、これは知ってるか?」

 むかし父に教えてもらった初歩の初歩な手品を数個披露する。それだけで「お母さんみたいだ」と、尊の眼差しに最上級の尊敬が宿ったのがこそばゆかったが。

 そうして、一週間がなにごともなく過ぎた。

 夕食を終えた八重垣と尊とは、一階の食堂にほど近い遊戯室でカーペットに座り込んでチェスをしていた。

 出入りがいちいち面倒だという理由でもあるのか、遊戯室にはドアがない。廊下に面した入り口は来るものは拒まないという感じに、開けっぴろげである。十五畳位はあるだろう広い室内には、ビリヤードテーブル、カードテーブル、酒の並んでいないバーコーナーや、アプライトピアノにオーディオセット、ダーツの的、ソファセットまでもがある。収納棚の中には、ボードゲームが各種揃っている。なんかもう、設備の立派さや部屋数の多さや部屋の広さなどに、いちいち驚くこともなくなっている八重垣である。

 なんでまたチェスかというと、ボードゲームをふたりでするとなると、オセロとかチェスとか囲碁将棋くらいしか思いつかなかったのだ。で、八重垣は、将棋とか囲碁はなんとなく知っているが、チェスになるとまったく知らない。が、逆に、尊は、チェスは知っているが、囲碁も将棋もわからない。チェスとそれらとは似ているとはよく耳にするが、もとよりなんとなくていどの知識で、尊に手ほどきをすることはできない。オセロにするか――と提案する八重垣に、しかし、尊は、チェスをどうしてもしたかったらしく、手取り足取り八重垣にルールからコマの進み方まで懇切丁寧に教えたのだった。

 チェス盤を睨みながら、八重垣は、うなっていた。

 なんだか、どう逃げても、次の手で、チェックな気がするのだ。

 ああいってもダメ、こう進めてもダメ。三回対戦して、これで、連戦連敗である。八重垣は、肩を竦めて、両手を挙げた。見れば、すでにわかっているのだろう、楽しそうな表情の尊が八重垣を見ていた。

「おまえの勝ち」

「八重垣って、チェス弱いね」

「オレは初心者なの」

 得意そうな口調に、ついムキになる八重垣だった。

「じゃ、練習しよう」

 にっこりと笑う尊に、八重垣が辟易した時、

「失礼します」

と、松谷が、電話を持って入ってきた。

「あれ? もうそんな時間なんだ」

 尊が、松谷が近づいてくるのを、待つ。

(母親からのナイトコール―おやすみ―なんだから、ふつう自分から取りにいかねぇか?)

 おっとりと、育ちがいいというのだろうか。

(オレだたら、走ってってるよな)

 腰の横に両手をついて、八重垣は座ったままで仰け反り背筋を伸ばした。

「え? ほんとっ。わ。うれしいな」

 はしゃいだ声に目を向ければ、受話器の通話口を両手でつつみこんだ尊が、嬉しそうにこくこくと何度も頷いているのが目に飛び込んできた。

「じゃ、待ってるからね」

と、受話器を松谷に手渡せば、松谷が一礼して下がってゆく。

 ぼんやりとふたりを眺めていると、八重垣の隣に尊が座って、

「お母さんが来るんです」

と、報告をした。

「よかったじゃねーの」

「うんっ!」

 そう首を大きく振ると、尊はビリヤードのキューを取り上げて、ひとつ玉を突いた。

 固いものどうしが勢いよくぶつかり合う、小気味の良い音がして、十のボールが台の上に散らばった。

 コンコンコンと、慣れたしぐさで白い手玉をキューで操り、九つのボールをポケットに落としてゆく。

 八重垣は、ほけらと尊の流れるような動作を眺めていた。

 時々、尊は幼げないつもからは信じられないような優雅な動きを見せるときがある。男に関心のない八重垣でさえもが見惚れてしまうほどなのだ。からだで覚えているものは、そうそう簡単に忘れることはないというが、おそらく記憶をなくしてしまう前の彼は何事につけ優雅優美と人目を惹きつけずにはいなかったのに違いない。

 そんなこんなを考えながら、八重垣は、チェスを片付けたのである。

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