102.結婚すると変わる
王都にあるルーンガルド邸は、静かな昼下がりの陽光に包まれていた。
ひと騒動終わった今、空気はどこか穏やかで──少しだけ緩んだ。
サロンの窓から差し込む光が、暖かく床を照らしている。
そんな中、部屋の一角ではエンデクラウスがクラウディスと床に座って遊んでいた。
木製の動物パズルをカチャカチャと指先で動かす息子に、彼は付きっきりだ。
「うまいぞ、クラウ。ほら、これは“おうまさん”だ」
「おま!」
「惜しいな、“う”をつけよう。“う・ま”」
「うま!」
──やけに真剣な声色である。
それをソファに座って眺めていた私は、思わずふっと笑ってしまった。
まったく……本当にこの父親は、いつまでたっても息子に甘いのだから。
と、そんなタイミングで、机の上の小さな通信魔道具が淡く光り始めた。
ぴ、とボタンを押して耳にあてると、聞き慣れた低く穏やかな声が届いた。
《奥様、魔王城近郊の畑でタマネギ、ニンニク、ブロッコリー、カボチャが収穫できました。オルトが喜んでおります》
「わぁ……!」
私は思わず声をあげた。どれも料理に重宝する食材ばかりだ。
「嬉しいわね……ふふ、領地に帰るのが楽しみになってきたわ」
窓の外に目を向ける。けれど現実は、まだ少し先になりそうだった。
「……まぁ、まだしばらくは帰れそうにないけれど」
思わずこぼれる溜息。
ベインダルお兄様とリセちゃんの婚約パーティーに出なければならないし……さらに面倒なことに、スフィーラ王女とダックルス辺境伯の婚約式にも顔を出さなくてはならない。
「はぁ……」
どちらも出席しないわけにはいかない行事だ。気は重い。
それに加えて、商人たちとも面会して、うちで作った塩を売る契約を進めないと。
……やることが山積み。
「うーん……」
思わず声が漏れると──
「うーん!」
ピコン!とクラウディスが反応した。
真似っこするように眉をひそめて、難しい顔をつくってみせる。
「……ふふっ、クラウ。可愛すぎるぞ」
隣でエンデクラウスが笑いながら、そっとクラウディスの頬をつつく。
その言葉に、クラウディスは首をかしげて、
「かーいー?」
と聞き返してきた。
「……あぁ、可愛い。世界一だ」
即答する父親。もはや溺愛を隠す気すらない。
「かぁーいー!」
とびきりの笑顔でそう叫んだクラウディスに、私は思わず胸を押さえたエンデクラウスの姿を見た。
「うっ……っ……し、死んでしまう……」
悶絶している。
完全にとどめを刺されたらしい。
「ちょっとぉ! 人が真剣に悩んでるのにぃ!」
私が膨れた声で抗議すると、クラウディスが間髪入れず、
「にぃ!」
と被せてくる。
「……え?」
言い終わるか終わらないかのうちに、クラウディスが立ち上がった。
それだけでも驚きだったのに──
ちょこちょこ、と小さな足で歩き出したのだ。
「えっ!?」
ソファから身を乗り出して見つめる。
ついこの前まで、つかまり立ちが精一杯だったのに。立ってもすぐ尻もちをついていたのに。
今では、足元をしっかりと踏みしめて、小さく走っている……!
「えーーーーーっ……!? いつの間に!?」
あまりの成長ぶりに目を見張っていると、クラウディスは笑顔のままエンデクラウスに向かって駆け寄った。
「おいで」
エンデクラウスが膝を開いて腕を広げると──
「ぱぱっ!」
弾む声でそう呼びながら、クラウディスはその胸にダイブして、ぎゅっと抱きついた。
「…………」
しばらく言葉を失っていた私だったが、ぽつりとつぶやいた。
「ねえ……クラウディスって、言葉通じてるわよね?」
「そうですね。……時々、そう思います」
苦笑しながらクラウディスを抱き上げるエンデクラウスの顔は、いつになくやさしく緩んでいた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
クラウディスが小さなベッドで、すやすやと寝息を立てている。
ほんの少し前まで元気いっぱいに動き回っていたのが嘘のように、今はおとなしく、毛布にくるまっているその姿は、まるで天使のようだった。
私はそっと音を立てないように近づき、めくれた毛布の端を整える。
銀髪のふわふわした毛先が、陽の光に照らされてきらめいていた。
クラウディスの寝顔にそっと微笑みを向けると、ふと隣から落ち着いた声が聞こえてくる。
「ディズィ。商人の件ですが、俺に任せてもらえたら、うまくやっておきますよ」
その声に振り返ると、エンデクラウスが片肘をソファの背に乗せ、こちらを見つめていた。
優しい表情に、私は思わず瞬きをする。
「え? いいの?」
思わず問い返す。
てっきり、いつものように私が対応するものだとばかり思っていた。
「はい。なんなら、ディズィが“面倒だ”と思うことは、俺が全部代わりに引き受けますよ」
彼は肩を軽くすくめて、さらっとした口調で続けた。
「建国記念パーティーのあと……あの、スフィーラに麻痺毒を刺されて以来ですよ。俺に無理をさせないようにって、何でもひとりで抱え込もうとしてるでしょう?」
「……そう?」
私は思わず首をかしげた。けれど、その言葉に心当たりがないわけではなかった。
確かに、あの事件以降、エンデクラウスにはなるべく負担をかけたくないと思っていた。心のどこかで、“怖さ”が残っていたのかもしれない。
もう、彼が突然倒れるような姿を見たくなかったから──。
知らず知らずのうちに、自分で動き、自分で決め、全部処理してしまおうとしていた。
「……ありがとう。気付いてくれて……」
ぽつりと漏らした私の言葉に、エンデクラウスはふっと口角を上げ、胸を張って言い放った。
「いえ。本当に……俺が天才で良かったです」
「……ん???」
思わず変な声が出た。
え、今なんて言った?
いや、まぁ。確かに。彼は剣も魔法も政略も、そしてこの容姿も、すべてにおいてトップレベルの超人だと思う。……思うけど!
自分で言うか、それ!?
「…………」
私はじーっと彼を見つめてしまう。
ジト目、というやつだった。
エンデクラウスは、そんな視線にもまったく気づかず、きょとんと首を傾げる。
「ん? どうしました?」
……もう、ほんとこの人、天然なのか確信犯なのか。
「ううん……。結婚すると、人って変わるわね」
思わずため息混じりに呟くと、彼はやわらかく微笑んで、少しだけ首を傾けた。
「はい。ディズィは……随分変わってくれましたね」
その表情は、やさしくて、誇らしげで、何より──あたたかかった。
見つめ返された私は、胸の奥がきゅっと締めつけられるような気持ちになる。
……うっ。
人のこと言えないのは、私の方だった。
あの頃の私は──
エンデクラウスに対して、まるで分厚い絶壁のような心の壁を築いていた。
誰にも踏み込ませず、特に彼には、冷たくて高い壁を意識的に、慎重に積み上げていた。
そうでもしないと、自分が彼に惹かれてしまうのが怖かったのだ。
あの頃の私は、頼ることを知らなかった。
そんな私が今は──こうして、彼のとなりにいて、寄りかかっている。
(いつも側にいてくれてありがとう。)




