101.寛大な妻
──見覚えのある天井が、ぼやけた視界に映る。
乾いた喉が小さく鳴った。
「………ここ…は……」
声に出すと、自分でも驚くほど掠れていた。だが、そのかすかな言葉にすぐ反応した人物がいた。
「エンディ!! 気がついたのね!?」
驚きと安堵が混じった声。見下ろすのは、銀色の髪をふわりと揺らすディーズベルダだった。青い瞳には明らかに心配の色がにじんでいる。
枕元に身をかがめ、シーツの端をぎゅっと握りしめるその手が、彼女の動揺を物語っていた。
「ディ…ズィ…………」
その名を呟くのが、こんなにも遠く感じるとは。まるで夢の続きを引きずっているようだ。
「大丈夫? どこか痛むところは?」
焦るような声でそう尋ねながら、彼女の指先がそっと自分の額に触れる。その手は少し冷たくて、だけど心地よかった。
……どうやら、いつの間にか王都のルーンガルド邸へ運ばれていたらしい。
シーツの柔らかさと、香りのある寝具。自分の部屋ではないが、ここが“家”であることは直感的にわかった。
「俺は……どうなったのですか?」
そう尋ねると、ディーズベルダは少し眉を下げながら、語り始めた。
「あなた、王城の個室で倒れてたの。……ダックルス辺境伯に呼ばれて……何事かと思ったわ。お兄様も急いで駆けつけてくれたのよ。で、お兄様があなたを抱えて、この家まで運んでくださったの」
「そう……ですか……」
彼女の言葉を受け止めながら、エンデクラウスはゆっくりと体を起こす。筋肉が重く感じたが、寝ていた間のブランクだろう。
まだ頭が少しぼんやりしているが、意識ははっきりしている。
──あの時。
スフィーラに近づかれ、毒のような薬を……。
「……俺としたことが……」
ベッドの上で膝を抱えるようにして、額に手を当てる。悔しさと嫌悪感が入り混じる。
「この身は……ディズィ、君だけのものだというのに……穢れてしまった」
その呟きに、ディーズベルダは一瞬きょとんとした顔を見せたあと、少し呆れたように言った。
「……何もされてないって、聞いてるけど?」
「いいえ」
目を伏せたまま、静かに否定する。
「……指が、ふれられました。スフィーラに……」
ディーズベルダは思わずため息をついた。半分笑っているような、あきれたような声色でぽつりとつぶやく。
「……元気そうで、なによりだわ」
その言葉に、エンデクラウスは思わず口元を緩めた。
(全く……相変わらずだな、ディズィは)
あの冷静さと辛辣さ、けれど自分の身を案じて駆けつけてくれた優しさ──。
だが、次の瞬間、彼女が少し視線を逸らしながら、ぽつりと呟いた言葉に、心の奥がじんわりと温まった。
「でも……無事でよかったわ。本当に。心配、したのよ……」
そうだ。
彼女は、変わった。
いや──変わったというよりも、自分にだけ見せてくれる“素”が増えただけなのかもしれない。
エンデクラウスは彼女の横顔を見つめながら、心の中でそっと言葉を訂正した。
(……いや、前言撤回だ。ディズィは……やっぱり、変わった)
彼女の横顔を見つめながら、そんな思いが胸の奥から滲み出る。
そしてふと、ぽつりと疑問のようなものが口をついて出た。
「ディズィ……もしも、俺が……王女毒殺未遂を仕組んだ“裏の犯人”だったら、どうしますか?」
一瞬、部屋の空気が張りつめる。
ディーズベルダは、唐突なその言葉にきょとんと目を見開いた。
「……何? 突然」
ベッドのそばでこちらを見つめる青い瞳が、少し困ったように揺れる。だが、彼女の表情に怒りや疑いはなかった。
それでもエンデクラウスは黙ったまま、視線をそらした。
返事が返ってくるまでの数秒が、妙に長く感じる。
やがて、ディーズベルダはふっと微笑んだ。どこかあきらめ半分、でも優しさが滲むような笑顔だった。
「前にも言ったけど……もう、過ぎたことよ。今が幸せなら、それでいいの」
そう言いながら、彼女は椅子の背にもたれ、小さく肩をすくめて続ける。
「もし“犯人”だったとしても──結果オーライなら良しとする、寛大な私に感謝しておいてね?」
その口調は少しおどけていて、冗談めかしてはいたが──きっと、彼女なりの本音だった。
「……ははっ」
思わずエンデクラウスは笑い声を漏らした。
「冗談ですよ。俺がディズィにそんな酷いことするわけないじゃないですか」
そう、笑いながらも──心のどこかが、ひやりと冷える。
(……したけど、な)
口には出さなかったが、心の奥で呟く。
(でも、うん。こうでもしないと、あなたは俺に振り向いてくれなかったんです)
あの頃の彼女は、あまりにも完璧で、遠すぎた。
ただの火属性の公爵家嫡男では、氷のように美しいあの少女の心を動かすことなど──到底できなかった。
「お医者様を呼んでくるわね。しっかり診てもらったほうがいいわ」
ディーズベルダはそう言って立ち上がり、ドレスの裾を払って扉のほうへと歩き出す。その背中に、エンデクラウスは静かに返す。
「……はい。お願いします」
──この秘密は、墓場まで持っていこう。
彼女には絶対に知られたくない。たとえ許してくれるとしても……そんなことで、彼女の愛情を試したくはない。
(スフィーラの件は……無事に終わった)
頭の中で、静かに整理を始める。
ベインダルには負担をかけたが、結果としてダックルス辺境伯との協力関係を得られたのは大きい。
ディーズベルダを守るためにも──これは、必要な一手だった。
「さて……これからは」
小さく息をついて、天井を見上げる。
(ある程度の社交をこなして、それが済んだら──)
(領地に引きこもって、ディズィとクラウディスと、まったり開拓生活……だな)




