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好き勝手に書いた短編置き場

#011『瑠璃色の脈動』

掲載日:2026/05/20

『瑠璃色の脈動』


 九月半ば。日本海に浮かぶ名もなき無人島の断崖は、重く湿った夜の闇と、狂乱する波の暴力に支配されていた。

「足場を確かめろ! 海草のへばりついた黒岩は、氷より滑るぞ!」

 鼓膜を直接殴りつける波の轟音を切り裂くように、私は頭上の女に向かって怒鳴った。

 口を開くたび、強烈な潮風が飛沫を喉の奥まで叩き込んでくる。舌の上にざらつく塩辛さと、微かなプランクトンの腐敗臭。

 私の仕事は、この危険な海域で高級な貝や海藻を岩肌から剥ぎ取る密猟者、いわゆる裏のガイドだ。そして今夜、私の命綱の先に繋がっているのは、東京の巨大製薬会社からやってきた朝陽瑠維あさひるいという二十代の植物学者だった。

「わかって……ます!」

 下から突き上げる風に乗って、悲鳴に近い声が降ってくる。

 彼女の最新のゴアテックスは、無残にも玄武岩の鋭い角に削られ、右の脇腹に痛々しい裂け目を作っていた。体重の三分の一はあるジュラルミンケースの角が、一歩踏み出すごとに彼女の鎖骨を執拗に打ち据えている。内部を絶対零度に近い温度で維持できる、特殊な極低温保存用のケースだ。

 私たちはロープ一本を頼りに、垂直に近い壁をじりじりと下っていた。長年塩水に晒され角質化した私の指先でさえ、岩のエッジが皮膚を削る鈍い痛みが走る。

 気温は二十五度を超え、湿度は九十パーセント近い。流れ落ちる汗が目に染みる。まとわりつく熱気と、海の底から立ち昇る冷気。二つの温度が肌の上で不快に混ざり合っていた。

「あと十メートルでオーバーハングだ! 宙吊りになるぞ、その箱を支えきれるか!」

「……やります!」

 朝陽の視線は、もはや私を見ていなかった。剥がれかけた爪が岩に食い込み、滲んだ血が灰色の石を黒く汚していることにも気づいていない。

 彼女の目は、ただ下方の闇だけを血走ったように見据えていた。膝を岩に打ち付け、喉の奥から血の混じった唾を吐き捨てながらも、決してあの金属のケースを手放そうとはしない。

 この崖の最下層に、十年に一度、数時間だけ発生するという未知の抗がん成分を含んだ地衣類ちいるい。それだけが、彼女を突き動かしていた。

 ズン、と私の足の裏が、ようやく平らな岩盤を捉えた。

 そこは、怒り狂う波が打ち寄せるギリギリのラインにある、幅わずか二メートルほどの三日月型の岸だった。黒く濡れた巨大な岩の塊が、獣の牙のように無数に突き出している。

「降りろ! ロープを引くぞ!」

 私が合図を送ると、数分後、朝陽が荒い息を吐きながら岩盤に崩れ落ちた。

 ザッパーン。

 目の前で巨大な波が砕け散り、私たちを頭から容赦なく濡らした。

「着いた……ここが……」

 朝陽は肩で息をしながら、ヘルメットの強力なハロゲンライトで周囲の黒い岩肌を照らし出した。強烈な白い光の筋が、濡れた岩の表面を舐めるように動く。しかし、そこには不気味な海藻がへばりついているだけだった。

「ない……。嘘でしょ? 気象条件も、満潮のタイミングも、全部計算通りのはずなのに……!」

 朝陽の声が裏返った。彼女は重いジュラルミンケースを岩の上にドンと置き、這いつくばるようにして岩肌をまさぐり始めた。

 私は自分のライトを消し、暗闇の中でふうと息を吐いた。そして、狂乱する朝陽の肩を強い力で掴んだ。

「あんたの計算は間違ってない。ただ、一つだけ忘れてる」

「え……?」

「その頭の灯を消せ」

 朝陽は一瞬躊躇したが、やがてカチリという小さな音を立ててスイッチを切った。

 視界が、完全な漆黒に塗り潰された。

 足元の岩盤を震わせる波の重低音が、直接胃袋を揺らす。視覚を奪われたことで、潮の匂いの中に混じる、熟れた果実のような奇妙な甘い香りが鼻腔びくうをくすぐった。

 そして、暗闇に目が慣れてきた数秒後、頭上の岩肌が、内側から沸き上がるような瑠璃色るりいろに染まった。

「……ああっ」

 朝陽の口から、声にならない吐息が漏れた。

辰巳たつみさん、……これは」

 私たちの頭上を覆い尽くすオーバーハングの岩肌一面が、唐突に、青く脈打ち始めた。

 それは、腐りかけた夜の底で、誰にも見つからぬよう密かにんでいる傷口のような、毒々しくも妖艶ようえんな瑠璃色だった。 綺麗な星空などではない。安物のLEDを引きちぎって海にぶちまけたような、どこか暴力的なまでの発光だ。 無数の微小な地衣類が、波の振動に呼応して、冷たい青い灯を一斉に点滅させている。

 フワァ、フワァと。

 波のリズムに合わせて岩肌全体が呼吸するように輝き、そしてふっと暗くなる。その明滅のたびに、朝陽の濡れた顔が青白く照らし出された。強すぎる人工の光の下では、この繊細な生物は身を固く閉じ、その発光を隠してしまうのだ。

「触るな」

 素手を伸ばそうとした彼女を、私は低く制止した。

「人間の体温は三十六度だ。あいつらにとっちゃ火傷する熱さだ」

 朝陽はハッと手を引っ込め、弾かれたように足元のジュラルミンケースに向き直った。

 ガチャガチャと四つの重厚な金属ラッチを外す。プシューッという窒素ちっそガスの抜ける冷たい音が鳴り、箱が開かれた。絶対零度を保つための冷却装置が、殺菌された真っ白な冷気を吐き出している。

「これで……」

 朝陽はチタン製の医療用メスを握りしめた。

「少しでも持ち帰れば、特効薬ができる。会社での私の地位も……もう、誰にも見下されない……!」

 自分自身に言い聞かせるような早口の呟きとともに、彼女は瑠璃色に輝く岩肌へメスを向けた。

 チリ。

 冷たい刃先が、青く光る苔の一部に触れた。

 その瞬間。

 刃が触れた部分を中心にして、岩肌の青い灯が、サァッ……と周囲へ向かって波紋のように引いていった。

 輝きを失った地衣類は、ただの黒く醜い粘液へと変貌し、岩からドロリと剥がれ落ちていく。

 朝陽の動きが、凍りついた。

「……」

 潮騒しおさいだけが響く中、彼女はメスを持ったまま立ち尽くしていた。波のリズムに合わせて、彼女が傷つけていない周囲の岩肌だけが、依然として静かに青い脈動を繰り返している。

「どうした。時間がねえぞ。さっさと削り取って、その箱に詰めちまえ」

 私がわざと冷たく言い放つと、朝陽はゆっくりと振り返った。暗闇の中でも、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ落ちるのがわかった。

「……死んじゃう」

 朝陽の声は震えていた。

「触ったら、消える。ただのゴミになる……。これ、生きてるのに。生きて光ってるのに、私、殺すためにここに来たの?」

 彼女は足元の冷たい金属ケースと、頭上の青い星空を何度も見比べた。

「……できない」

 カラン、とメスが手からこぼれ落ち、硬い岩盤の上で鋭い音を立てた。

 朝陽はその場に崩れ落ち、両手で顔を覆った。波の音に混じって、絞り出すような嗚咽が漏れる。

 馬鹿な女だと私は思った。

 都会の生存競争を勝ち抜いてきたはずのインテリが、たかが光る苔の美しさに当てられて、自分の手柄をすべてドブに捨てようとしている。

 だが、私の手は、岩に落ちていたメスを拾い上げていた。

 私はそれをジュラルミンの箱の中へ放り込むと、分厚いフタを力任せにバタンと閉め、四つのラッチを叩きつけるようにロックした。

「立て」

 私はしゃがみ込む朝陽の腕を掴み、強引に引き上げた。

「タイムアップだ。空っぽの箱を背負え。潮が満ちるぞ」

 直後、今までで一番大きな波が打ち寄せ、私たちの膝下まで冷たい海水が激しく流れ込んできた。引き波の強い力が、足元の岩を削り取りながら海へ引きずり込もうとする。

 朝陽は乱暴に涙を拭い、自分の身長の半分ほどもある重いジュラルミンケースを再び背負い直した。中身は空のままだ。しかし、その顔にもう迷いはなかった。野心に取り憑かれていた狂気は消え、代わりに、何か絶対的なものを守り抜いた人間の、静かで澄み切った強さが宿っていた。

 私たちは再びロープに命を預け、真っ暗な絶壁を登り始めた。

 登る途中、私は一度だけ下を振り返った。

 波に沈みゆく牙のような黒い岸で、瑠璃色の無数の灯が、誰に見られることもなく、ただ永遠のリズムに合わせて静かに脈動を続けていた。

 頭上の闇の中を、朝陽が荒い息を吐きながら必死に登っていく。彼女が背負い直したケースは、今はただの空っぽで重い、呪いのような金属の塊でしかない。それでも彼女は、黙々と上へ手を伸ばし続ける。

 ロープが岩に擦れる鈍い音と、名もなき海がすべてを飲み込むような重低音だけが、漆黒の絶壁に響き渡っていた。



 絶壁を登り切り、冷たい草むらに転がり込んだとき、東の空がわずかに白み始めていた。

 朝陽は仰向けに倒れ込み、獣のように荒い息を繰り返した。彼女の横に転がる重いジュラルミンケースには、もう何の価値もない。

「中身が空でも、ガイド料は予定通り全額もらうぞ」

 私が乱暴に息を整えながら言い放つと、朝陽はゆっくりと上体を起こした。泥と血にまみれた顔で、自分の傷だらけの手のひらをじっと見つめている。

「……はい。でも……」

「でも、なんだ?」

「会社をクビになるかもしれないです……」

 私は珍しく、深い溜息を吐いた。

「分割払いにしてやるよ」

「ありがとうございます、辰巳さん」

 彼女の声は掠れていた。しかし、その泥だらけの口元には、微かな笑みが浮かんでいた。

 彼女のキャリアは一旦ここで途絶えるだろう。これまで血を吐くような思いで積み上げてきた地位も、未来の栄光も、あの深い暗闇の中に置いてきてしまったのだから。

 だが、海を見下ろす朝陽の瞳は、昇り始めた夜明けの光を反射して、強く、澄み切っていた。

 あの海が何万年もかけて作った星空を、彼女は確かに守り抜いた。その残酷で美しい事実だけが、これから先の彼女の人生を照らす、消えない灯になるはずだ。

 私はあえて何も答えず、ただ海風に向かって短く鼻で笑い、ポケットから潰れたタバコを取り出した。

 眼下の深い闇の底では、今も瑠璃色の脈動が、静かに波を打っているはずだった。


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