第一章 GATE : 第六話 百花(ひゃっか)の大妖精(だいようせい)(後編)
神殿の者たちも、そのまま少女についてくることになった。ただ、マリエナだけは、古い石のことを調べたいと言って、ひとり先に戻っていった。クラウゼは黙ってうなずいた。若い管理者のリトは、シャルネのまわりを飛び回る小さな妖精たちに髪を引っぱられて、情けない声を上げていた。
◇
百花の庭は、街の西の外れ、小川が大きく曲がりくねるあたりにあった。
守護院の高台を下り、西へ向かう根の道をしばらく行くと、家々の丸い屋根は少しずつまばらになり、代わりに、細い小川が道に沿って流れはじめた。
庭には、門も柵もなかった。気がつけば、足元の根の道がやわらかな草に変わり、両側に咲く花が、少女の肩より高くなっていた。そうして花のあいだを抜けた先に、それは広がっていた。
色が、溢れていた。
赤、だいだい、黄、白、薄紅、青、紫。数えきれないほどの花が、どれひとつ同じ高さで咲いておらず、風が吹くたびに、色の波が庭の端から端へと渡っていく。香りも、ひとつではなかった。甘い香り、すっと鼻に抜けるさわやかな香り、蜜のように濃い香り、ほとんど匂わないのに、すぐそばにあるとわかる香り。それらが風に乗って、次々と入れかわっていく。
「……すごい」
少女は、それしか言えなかった。
「でしょう?」
シャルネは、得意げに胸を張った。
庭の奥では、小さな妖精たちが待ちかまえていた。シャルネの姿を見つけるなり、わっと歓声を上げて飛んでくる。その先頭で、小さな花びらの盾を掲げた妖精の騎士が、少女の目の前でぴたりと宙に止まり、まじめな顔でおじぎをした。
「百花の庭へようこそ、お客さま。……シャルネ様、また誰かを拾ってこられたのですか」
「拾ったんじゃないわ。借りてきたの」
その横から、紫の花びらをまとった小さな妖精がふわりと現れ、少女の鼻先で指を鳴らした。すると、少女のまわりに、花びらでできた蝶がいくつも生まれ、ひらひらと舞いはじめた。少女が思わず手を伸ばすと、蝶はすっと指をすり抜け、ただの花びらに戻って散っていく。
「幻よ」
紫の妖精が、くすくす笑った。
「スミレの幻花。本物じゃないけど、きれいでしょ?」
そのあいだに、傷を治す術が得意な精霊が呼ばれてきて、試しのときに槍の柄がかすめた少女のわき腹に、そっと手をかざした。青みがかった光がしみ込むと、ずっと残っていたにぶい痛みが、うそのように消えていく。少女が驚いてお礼を言うと、精霊はおだやかに首を振っただけだった。
やがて、庭の真ん中の開けた場所で、小さな妖精たちの輪ができた。輪の中心では、菊の花をまとった妖精が、指先で小さく拍子をとりはじめる。それに合わせて、妖精たちがくるくると踊り出した。羽ばたきの音が拍子に重なり、花びらが舞い上がり、輪は大きくなったり小さくなったりしながら、庭じゅうを巡っていく。
妖精たちの何名かが、少女の袖を引っぱった。
「え、あの、わたし……」
断る暇もなかった。小さな手に引かれるまま、少女は輪の中へ連れていかれた。どうすればいいのかわからないまま、足を動かす。拍子がずれる。花の根につまずきそうになる。すると、いつのまにか輪に加わっていたルクシエルが、すっと少女の手を取った。背中の白い翼が、少女の体を支えるように、ふわりと広がる。
「大丈夫。花に合わせればいいの」
ルクシエルに手を引かれ、くるりと回る。目の前いっぱいに、色が流れた。風が頬をなで、花びらが髪に降りかかり、どこかで誰かが笑っている。
そのとき、少女の喉の奥から、何かがこぼれた。
「……ふ、ふふっ」
少女は、びっくりして足を止めた。
今の音は、なんだろう。喉がくすぐったくて、胸の奥から勝手に溢れ出して、止めようとしても止まらない。頬がゆるみ、目が細くなる。体がふわふわと軽い。
「(わたし、笑ってる)」
気づいたとたん、また笑いがこぼれた。今度は、もう止めようとは思わなかった。
目覚めてから、泣きそうになったことは何度もあった。怖いと思ったことも、さびしいと思ったことも。けれど、声を上げて笑ったのは、これが初めてだった。笑うことが、こんなふうに、体の内側で光がはじけるようなものだとは知らなかった。
ルクシエルが、目を丸くして少女を見ていた。それから、つられたように笑い出した。輪の外で見守っていたシャルネも、手をたたいて笑っている。リトまでもが、小さな妖精に髪を編まれながら、困ったように笑っていた。クラウゼの口元だけは動かなかった。けれど、その目がほんの少しだけ細くなったのを、少女は見た気がした。
◇
踊りの輪がほどけたあとも、紫の妖精は、少女のそばを離れなかった。
「ねえ、もう一回見せてあげる。今度は、あなたの好きな形にしてあげるわ」
妖精が指を鳴らすと、花びらがまた宙に集まり、少女の目の前で、くるくると形を変えはじめた。蝶、鳥、小さな星。少女が息をつめて見つめていると、花びらはふいに、妖精の指の動きとは関係なく、ひとりでに集まり直した。
うねる、波の形だった。
ほんの一瞬だった。けれど少女には、はっきりとわかった。夢の中で、十二の影のひとつとして回っていた、あの形だ。息が、ひとつ止まる。
――もう一度。
遠い声が、耳の奥をかすめて消えた。
花びらは、すぐにばらばらになって地面に落ちた。紫の妖精は、自分の指先をふしぎそうに見つめていた。
「……今の、わたしが作った形じゃないわ」
少女は何も言えず、ただ腕の中の白い花に、頬を寄せた。
◇
日がかたむきはじめたころ、少女はシャルネと並んで、小川のほとりに座っていた。水面が夕日を受けて、薄紅と金色に揺れている。ルクシエルは少し離れたところで、妖精の騎士たちに花びらの盾の持ち方を教わっていた。
庭の奥の花かげに、ふと、ひとつの姿が見えた。踊りの輪には一度も加わらなかった騎士だった。紫の妖精のものとは違う、夜明け前の空のような青紫の、ふちが何重にも波打つ花を胸に挿している。少女と目が合うと、その者はすっと目をそらし、花の奥へ去っていった。少女は、その背中が見えなくなったあたりを、しばらく見つめていた。
「楽しかった?」
シャルネが、足先で水面を軽く蹴りながら聞いた。
「……うん」
少女は、こくりとうなずいた。それから、少し考えて、言い足した。
「シャルネは、わたしのこと、何も聞かなかった。どこから来たのかも、どの系統なのかも」
「聞いてほしかった?」
「……ううん」
「でしょう」
シャルネは、笑った。
「わたしはね、この庭に来る子に、どこの誰かなんて聞かないの。聞くのは、どの花が好きか、だけ。……そういえば、まだ聞いてなかったわね。あなたは、どの花が好き?」
少女は、腕の中の白い花を見下ろした。
答えは、考えるまでもなかった。けれど、それを口にしようとしたとき、胸の奥に、別の問いが浮かんできた。
「……シャルネ」
「なあに」
「名前って、自分で選んでもいいの?」
シャルネの足が、水面の上で止まった。
彼女は、夕日に目を向けたまま、しばらく何も言わなかった。それから、少女の方を向いた。その顔には、さっきまでのからかうような笑みはなかった。
「わたしの場合はね、名前は生まれたときから決まっていたの。でも、自分の名前を好きになれたのは、ずいぶんあとになってからよ。好きになれたのは、呼んでくれる誰かがいたから」
シャルネは、少女の腕の中の花に、そっと指先で触れた。
「だから、あなたが自分で選んだ名前なら、きっと最初から好きになれるわ。そして、わたしがいちばん先に、その名前で呼んであげる」
少女は、何も言えなかった。胸の奥が熱くなって、喉がつまって、うまく息ができなかった。さっき笑ったときとはまるで違うのに、どこか似ている気持ちだった。
遠くで、夕方を知らせる鐘が鳴った。守護院へ戻る時間だった。
立ち上がりながら、少女は、腕の中の白い花を見つめた。西日に透けた花びらは、ほんのりと金色を帯びていた。
「(わたしの名前は、わたしが選ぶ)」
声には出さなかった。けれどその言葉は、目覚めてから少女が決めたどんなことよりも、はっきりと胸の中に根を下ろしていた。
白い花が、それに応えるように、かすかに揺れた。
(第六話 了)
次回 第七話「名を選ぶ花」




