46 One touch of nature
泣き疲れたリセラが眠ったのは、夜も深くなってからだった。
涙の跡を頬に残したまま、リセラはブレインの胸に顔を押し当て、何度も何度も小さくしゃくり上げた。ブレインはその背を撫で続けた。やがて、震える身体から力が抜け、リセラの呼吸が小さな寝息へと変わる。ブレインは彼女を抱き上げ、ベッドへ寝かせようとした。だが、リセラの指が彼のシャツを掴んで離さなかった。眠ってなお、離すまいとしている。
ブレインは微笑み、リセラの隣へ横たわった。手袋は、外したままだった。リセラの指が素の手に絡む。ブレインはそれを拒まなかった。
ブレインは目を閉じた。眠れるはずがないと思っていた。だが、リセラの手が自分の手を握っている。その温もりを感じているうちに、意識はいつの間にか深い闇へ沈んでいった。
翌朝、ブレインは鳥の声で目を覚ました。隣に目を向ける。そこにリセラの姿はなかった。ベッドの上には、彼女が眠っていた跡だけが残っている。
「リセラ……?」
胸の奥が一瞬だけ冷えた。だが直後、階下からかすかな音が聞こえた。食器が触れ合う音。火の燃える音。そして、香ばしい匂い。焼いたパンと、卵と、温かいスープの匂い。ブレインはゆっくりと身体を起こした。手袋を手に取る。そこで動きが止まる。
黒革の手袋。いつもなら、何の迷いもなくはめていたそれ。だが昨夜、リセラはそれを外した。自分の手を頬に当てた。あの子はすべてを知った上で、それでも触れた。ブレインは手袋をしばらく見つめ、静かに机の上へ置いた。
階段を下りると、台所にはリセラがいた。いつものエプロンをつけ、小さな手で鍋をかき混ぜている。リセラは振り返り、笑った。いつもの笑顔だった。
「おはよう。朝ご飯、もうすぐできるよ」
そう言って、リセラは鍋に視線を戻す。
「……手伝おうか」
「だめ。お兄ちゃんが手伝うと味が変になる」
「鍋をかき混ぜるだけなら、味は変わらないと思うが」
「お兄ちゃんは油断すると、そこで余計な香辛料を入れるでしょ」
ブレインは反論しようとして、やめた。過去に前科があった。
リセラは皿を並べ、スープを注ぎ、焼いたパンを籠に入れた。食卓には二人分の朝食が並んでいく。いつも通りの朝だった。しかし、ブレインには分かった。リセラが無理をしていることが。目元は泣き腫らしたせいで赤く、声は明るいのに息が浅い。けれど、彼女は必死に何事もなかったように振る舞っていた。リセラは椅子に座り、ブレインを見上げる。
「ねぇ、お兄ちゃん。今日は、ずっとそばにいてくれる? お仕事も、用事も、難しいこともなし。朝ご飯を食べて、お片付けして、お話して……いつもみたいに。だめ?」
「……だめなわけがない」
ブレインは椅子に座り、微笑んだ。
「今日はずっとそばにいる。約束する」
リセラはそこで初めて、少しだけ本当に笑った。
「じゃあ、朝ご飯食べよう。冷めちゃう」
二人は朝食を食べた。リセラはいつもより多く喋った。ラヴーのこと、劇団員のこと。ブレインは一つ一つに相槌を打った。時には笑い、時には質問をした。リセラは嬉しそうに答えた。
朝食が終わり、皿を片付け終えると、リセラは応接間へ向かった。
「今日は何をする?」
「君の好きなことを」
「じゃあ……明日の劇の練習。練習は休みだけど、家で練習するのはいいでしょ? お兄ちゃん、相手して」
リセラは応接間の隅に置いてあった台本を手に取った。表紙には『ありふれた兄妹』と記されている。
「どこを読む?」
「……兄妹が朝ご飯を食べるところ」
そう言ってリセラは台本を開いた。奇妙な選択だった。悲劇の戯曲にある、数少ない穏やかな場面。徴兵前、兄と妹が何でもない朝を過ごす場面だ。リセラは椅子に座り、台本を膝に置いて読み始めた。ブレインは隣に座り、台本を覗く。
『お兄ちゃん、パンを焦がしたでしょう』
『焦がしていない。少し火に愛されすぎただけだ』
『そういうのを焦げたって言うの』
ブレインは思わず小さく笑った。リセラも笑った。台詞と現実が少し重なり、応接間に柔らかな空気が満ちる。読み終えたリセラは台本を閉じ、少し得意げに尋ねた。
「どう?」
「……上手になった。本当に」
リセラは嬉しそうに笑った。
昼が近づくと、リセラは庭へ出たいと言った。雪はまだ残っていたが、空は薄く晴れている。二人は厚手の上着を羽織り、庭へ出た。
庭の石畳には薄く雪が積もっていた。リセラは子供らしく雪を踏み、足跡を残していく。ブレインはその後ろを歩いた。二人は庭の端にある小さな東屋まで歩く。昔、リセラが雨の日に遊び場にしていた場所だ。
「お兄ちゃん、座ろう」
二人は東屋のベンチに並んで座った。冷たい風が庭を通る。リセラはブレインの左手を取った。手袋のない手だった。ブレインは一瞬だけ指を強張らせたが、すぐに力を抜いた。
「冷たい」
「冬だからな」
「違うよ。お兄ちゃんの手」
リセラはその手を両手で包む。
「ずっと、手袋越しだったから。こうして触ると変な感じ……嬉しいな」
まっすぐな声だった。ブレインは東屋の柱を見つめた。返す言葉を探したが、見つからなかった。
昼食は簡単なものだった。朝のスープの残りと、焼いたパンと、少しのチーズ。
午後は静かに過ぎた。応接間で本を読んだ。リセラは兄の膝に頭を乗せ、童話の本を読んでほしいと頼んだ。ブレインはそれを読んだ。昔、彼女がもっと幼かった頃に何度も読んだ物語だった。王子が怪物を倒す話。迷子の少女が森から帰る話。優しい嘘つきが最後に本当のことを言う話。
リセラは途中で何度か目を閉じた。眠るのかと思えば、すぐにまた開く。眠ってしまえば時間が過ぎる。そう考えているのが分かった。ブレインは平坦な声に抑揚をつけることを心がけた。
夕暮れが近づくと、リセラは夕食の支度を始めた。今度はブレインも台所に立った。ただし、味付けには一切触れないという条件付きで。
「お兄ちゃん、その野菜切って。薄くね。前みたいに大きくしないで」
「前とはいつのことだ」
「全部」
ブレインは黙って野菜を切った。リセラは鍋を見ながら、時折兄の手元を確認する。まるで熟練の監督官だった。
「料理の先生になれるな」
「お兄ちゃん相手ならね。生徒がひどいから」
夕食は温かかった。味もよかった。ブレインは素直に褒めた。リセラは当然だよと胸を張ったが、その耳が少し赤くなっていた。
食後、二人はまた庭へ出た。今度は長くは歩かなかった。ただ、玄関前の石段に並んで座り、空を見上げた。冬の夜空には雲が少なく、星が見えた。
「明日は、見にこれないんだよね」
リセラは空を見たまま、ぽつりと言った。
「行くさ。必ず。入場料は、払わないかもしれんが」
「……下手な冗談」
リセラはそう言って、少し笑った。
夜が更けた。屋敷の中へ戻ると、リセラは素直に寝間着へ着替えた。昨日のように泣きはしなかった。むしろ、静かすぎるほどだった。
ブレインはベッドの脇に座った。リセラは布団に入り、兄を見上げる。
「今日も一緒に寝てくれる?」
ブレインはもちろんと頷く。リセラは安心したように目を細めた。ブレインが隣へ横たわると、リセラはすぐにその手を握る。リセラは目を閉じた。だが、眠りには落ちなかった。握る手に力がこもる。
「お兄ちゃん。私、明日も行ってらっしゃいって言うね」
それきり、リセラは何も言わなかった。ブレインは彼女の胸元に手を置き、一定の間隔で軽く叩く。昔からそうしてきたように。幼い頃、夜泣きが止まらなかった彼女を眠らせた時と同じように。しばらくすると、リセラの呼吸が少しずつ穏やかになった。けれど、彼女の手は眠ってもなお、ブレインの手を離さなかった。ブレインはその手を握り返した。
「お休み、リセラ」
窓の外では、夜のシェルヴが静かに灯っている。明日、その灯りの一つが消えることなど知らぬ顔で。
部屋の中では、兄と妹が手をつないで眠っていた。いつも通りの、そして二度と戻らない一日が、静かに終わった。




