第三話 いざ行かん伏魔殿
夜会が行われるハミルトン伯爵家の別邸の広間は多くの貴族で賑わっている。
「ねえ、聞きました? 伯爵のご令息の話」
「ええ、聞きましたわ。急にお披露目なんて」
「本当に跡継ぎなんているのか? 急にお披露目なんて怪しい」
「そもそも奥方様は子どもが作れないお身体でしょう?」
「いやわからんぞ。親族から養子を迎えたということなら」
「なら、なぜ今まで養子を迎えられなかったのでしょう?」
ひそひそと好き勝手に噂する貴族たちだったが、不意に広間の扉が開いたので一斉に静まりかえる。
堂々とした佇まいで入ってきたのはハミルトン伯爵だ。
その後ろからゆっくりと入室してきたヒューデリカを見てざわめきが起こった。
「皆、よく集まってくれた。
既に聞いていると思うが改めて紹介しよう。
我が息子のヒューザリオンだ。長く病を患って表に出られなかったが、病を克服し健常に戦えるまでに回復したため、我が跡継ぎとして正式に指名した」
「ヒューザリオン・ハミルトンと申します。以後、お見知りおきを」
朗々とした声で告げた伯爵に続いて、ヒューデリカが一礼しながら名乗る。
それにまたざわめきが大きくなった。
「本当に伯爵のご子息?」
「伯爵にも奥方様にも似ていらっしゃらないわ」
「あら、でも黒い髪と灰色の瞳はハミルトン伯爵家の色だわ…」
聞こえてくる囁きにも眉一つ動かさず、伯爵は堂々たる振る舞いで「では、皆今宵は…」と夜会の始まりを告げる言葉を発そうとしたが、それを遮ったのはある貴族の男だった。
「失礼。その方が伯爵のご令息だと言うのはわかりました、が、ハミルトン辺境伯の跡継ぎとして相応しい武人であるのですか?」
五十代ほどの男は値踏みでもするような視線でヒューデリカを見つめながら尋ねる。
「あれはノイッシュ男爵です。マゼイラ公爵一派ではありませんが、長く伯爵に自分の娘を愛妾として宛がおうとしていた男です」
ヒューデリカの傍らに控えたヴァンデッシュが小声で教えてくれた。なるほど。確かに見下すような目でこちらを見てくる。伯爵の言葉を疑ってもいるのだろうが、養子という可能性を考えてこう言ったのだろう。ハミルトン辺境伯の跡継ぎとしてこのような細い優男は認められない、と。
「ハミルトン辺境伯の跡継ぎならば、いずれこの地を治める領主となられる。ならば隣国の脅威からこのアストリアを守れる武人でなければ」
「なるほど。もっともだ。して、どうやってそれを見極めると言う?」
「私の息子が騎士団の一員ということは伯爵もご存じのはず。
息子から一本取ったら、というのは?」
この辺境の地の貴族ならば、当主なり子息が辺境を守護する騎士団に入隊している場合が多い。この男爵の子息もその類いか。
「ヒューザリオン」
「わかりました」
伯爵の声にヒューデリカは一歩進み出て凜とした佇まいで答える。
「その申し出、お受けしましょう」
「では、お相手仕ります」
数メートル離れた位置に立ったのは男爵に似た二十代ほどの青年だ。彼がその息子だろう。彼は警備の騎士から剣を借り、手に携えた。
「皆様、少し離れていていただけますでしょうか」
ヒューデリカの言葉に周囲の貴族たちが空間を空ける。ヴァンデッシュが「では私が合図致します」と声を張り上げた。
「おや、ご令息は剣は持たないのですか? それとも持てないほど非力でいらっしゃる?」
ノイッシュ男爵令息がにやにや笑いながらヒューデリカを見て言う。それにヒューデリカは束ねた髪を手で払って不敵に笑んだ。
「そのようなものは、不要」
「…ほう?」
迷いない口調で告げたヒューデリカに男爵令息の口元がわずかに引きつる。
「では、始め!」
ヴァンデッシュが手を叩いて合図した瞬間、ヒューデリカの姿はその場から消えていた。その場の誰も──ハミルトン伯爵とヴァンデッシュ以外──目で追えずかすかに擦れた声を漏らした瞬間だ。
男爵令息の手にあった剣があらぬ方向に吹っ飛ばされた。反応する前に顔の横に長い足の靴先が当てられる。
「これが実戦ならばあなたの首の骨はもう折れていますが、…まだ続けられますか?」
いつの間にか目の前に立っていたヒューデリカが振り上げた長い足が、男爵令息の側頭部を蹴り飛ばす寸前で止まっていた。
一連の、一秒にも満たない攻撃が全く見えなかった男爵令息とノイッシュ男爵はひく、と口の端をひくつかせる。吹っ飛ばされた剣は誰もいなかった壁際に突き刺さっていた。
「失礼。ノイッシュ男爵令息」
「……じ、実力、よく、わかりました。…ヒューザリオン様」
相手が戦意を喪失したことを確認し、足を降ろしたヒューデリカにノイッシュ男爵令息も引きつった顔ながら降参の意思を表明した。
戦場に身を置く者として、ヒューデリカの武力は理解出来たらしい。
それを皮切りに、黄色い歓声を上げたのは若い娘たちだ。
「ヒューザリオン様!」
「素晴らしい戦いでしたわ! どうか私とダンスを!」
「いいえ私と!」
「私とよ!」
ヒューデリカの元に詰めかけた子女たちに、ヒューデリカはにこりと微笑むとその華やかな美貌に子女たちはますます夢中になる。
「では、一曲ずつお相手願いましょう。レディたち」
「は、はい!」
「是非!」
甘く囁いたヒューデリカに子女たちは頬を赤く染めている。
そのままヒューデリカは数人の子女たちとダンスを踊り、その軽やかなステップと手慣れたリードに周囲で見ていた貴族の婦人たちも魅了されていく。
ちなみに男側のダンスは正直、慣れている。学院で演劇部に入っていたヒューデリカは、その女性としては高い身長と麗しい見目から男役を演じることが多く、舞台でヒロイン役の女子とダンスを踊った経験が何度もあるからだ。
練習としてヒューデリカと昨夜ダンスを踊ったヴァンデッシュもそれには驚いていた。
「お嬢、そこまで完璧なご令息になられちゃうと元から男の俺の立つ瀬が」とかなんとか言っていたが無視した。正直どや顔したい気分でしたけど。
しばらくダンスを踊って、そろそろ疲れたな、と思った時だ。
少し離れた場所で「きゃっ!」という悲鳴に似た声が聞こえた気がして視線を巡らせる。ヒューデリカに夢中な女性たちは気づいていないが、ヒューデリカを囲む女性たちの人垣の向こう、佇む淡い色のドレスの可憐な貴族令嬢の髪をそばにいた四十代ほどの男が引っ張ったのだ。
「いいからヒューザリオン様とダンスを踊って来い。そして取り入るのだ。いいな?」
「で、でもお父様、私、昨日足をくじいてしまって立っているだけでも…」
「いいから踊れ。マリン。なんのために役立たずのお前を家においてやっていると思う」
どうやら親子らしいが、娘に対し日頃から暴力を振るっているかのような振る舞いにヒューデリカの眉が顰められる。
このまま自分と踊らなければあの娘はどんな目に遭うか、と考えたら放ってはおけなかった。
「レディ」
ヒューデリカは自らを囲む女性たちの群れから抜け、進み出るとそのマリンという娘に手を差し出した。
「一曲、よろしいでしょうか?」
「あ、でも」
「失礼。あなたの可憐さに目を奪われてしまって」
そう囁きながら不安をにじませるマリンの手を取って引きよせる。そして耳元で囁いた。
「大丈夫。私がリード致します。あなたの足に負担はかけません。私に身を任せて」
「あ、は、はい…!」
ヒューデリカのその言葉にマリンは驚きながらも頷いた。そのまま流れる曲に合わせて踊り始める。マリンの怪我は右足のようなので、右足に体重がかかる時はさりげなく腰を抱き寄せ足に負荷がかからないようにし、ターンの時は自分がうまくリードして彼女が足を動かさなくとも良いようにした。
一曲踊り終わった時には、マリンは頬を染めてヒューデリカを見つめている。
「レディ。そろそろ疲れたと思いませんか?
私と良ければひとときの思い出を」
「…は、はい」
そう囁いてその手を引き、バルコニーへと向かう。
貴族たちの興味は既にハミルトン伯爵に移っており、皆が取り入るために口々にヒューデリカを賛美している。
それもあってバルコニーでマリンと二人きりになれたヒューデリカは、「足の痛みは?」と尋ねた。
「はい。ヒューザリオン様がご配慮くださったおかげでだいぶ楽になりました」
「失礼ですが、いつもあなたのお父上はあのような仕打ちをあなたに?」
「…そ、それは」
「安心して。決して悪いようには致しません」
ヒューデリカに聞かれ、父親になにかされるのではという不安から言いよどんだマリンだったが続いたヒューデリカの言葉と肩を抱いた腕の感触に、安堵したようにその胸に頬を寄せる。
「は、はい。いつも、あのように、私を役立たずだと…。
私は前妻の娘で、家には後妻と後妻の娘、…私の妹がおります。
お父様もお義母様も妹ばかりを溺愛して、私には領地の管理などを押しつけ、虐げられて…」
「そう、お辛かったでしょう」
そっとその肩を抱き寄せながら、ヒューデリカはすっと目を細めた。
『あのヒューザリオンという男の身元を洗え。
ハミルトン伯爵の実子であるはずがない。なにかわかったらすぐマゼイラ公爵に連絡を』
風の精霊が耳に運んでくれたのは、離れた位置にいるマリンの父親の声だ。どうやら彼はマゼイラ公爵一派らしい。ならば、加減は要らない。
「あなたの憂いを取り除きましょう。さあ、目を閉じて」
肩を抱いていた腕を離し、マリンの目をそっと手で覆って囁く。
マリンは素直に頷いた。手を離すと目を伏せてヒューデリカの言葉を待っている。
「そのまま、あなたの憂いが去ることを祈って、五秒数えてください」
そう告げると、風の精霊からマリンの父親の居場所を教わる。あの男は別邸の庭に出ているようだ。ならば容易い。
ヒューデリカは風の力で宙に浮かぶと、一瞬でその場から消え、庭へと移動する。
あの男は従者とまだなにか話している。瞬間、首が突然絞まったので男は首を押さえ、呻いた。従者が焦って何事かと尋ねる。
「く、首が、息が、…か、身体が…!」
男の足が宙に浮かんでいく。見えない縄に釣られたようになって、男は苦悶の表情でもがいた。
その場にこの世のものとは思えない不気味な声が響く。
『愚かなる者よ。我はこの地に眠る亡霊。
お前が行いを改めない限り、我はお前を呪い続けよう』
「ひっ」
従者が短い悲鳴を上げる。途端、首の見えない拘束が解けて男は地面に倒れ込み、咳き込んだ。
「な、なにを、して」
「さ、さっき、後ろに足のない男の霊のようなものが見えて…!」
「ほ、本当に亡霊…」
蒼白な顔で荒い呼吸を吐く男と腰を抜かした従者を置いて、ヒューデリカはバルコニーへと戻る。このように風の力で一瞬で離れた場所に移動することもヒューデリカにとっては造作もない。もっともこんな力の使い方はどんな魔法の達人であっても不可能。
風の精霊の加護を持つヒューデリカだからこそ可能な御業である。
従者はあの広間にいなかったのでヒューデリカの姿を知らないから、風の幻影でぼやけ歪んだヒューデリカの姿を「男の悪霊」と思ったことだろう。
「さあ、もう大丈夫ですよ」
バルコニーに立ったヒューデリカは目を閉じたままのマリンに優しく声をかける。マリンはそっと目を開き、ヒューデリカの言葉に頷いた。
「さて、これでお披露目は終わりましたわね」
夜会の後、本邸に戻る馬車の中で一息吐いたヒューデリカ(姿はヒューザリオンのまま)に向かいに座っていたヴァンデッシュは「まあ夜会は終わりましたけどぉ」となにか言いたげだ。
「なに? ヴァンデッシュ」
「お嬢、護法の風の力こっそり使ったでしょ~?
クラレンス男爵が体調を崩したって真っ青な顔で帰って行ったんですよぉ。あの男、マゼイラ公爵一派だし、お嬢がダンス踊ったご令嬢の父親なんでなんかしたのかなあって」
「あら、よくわかったこと」
「これくらいの観察眼ないと伯爵の腹心は務まらないんで~」
相変わらずへらへらと笑って答えたヴァンデッシュは頬杖を突いて残念そうに、
「あ~あ、でも惜しいなあ~」
と零す。
「なにが?」
「お嬢のダンス。男の姿じゃなく、本来のお嬢の姿でダンスを踊れたらすっごく綺麗だろうになあ~」
「な、」
さらっと告げられた賛美の言葉に息を呑んだのは、遅れてそんなことをアーノルドに言われたことがなかったと気づいたからだ。
そう、あの人は一度だって私を褒めたことがなかった。可愛いという他愛ない言葉すら、一言も。凜々しい、とは学院の令嬢たちによく言われた。綺麗だとも。
でも、可愛いなんて、誰も。
「私、綺麗かしら…」
「なに馬鹿言ってんですかぁ。そんなの決まってますよぉ」
ぽつりと呟いたヒューデリカの横顔を見つめて、ヴァンデッシュは柔らかく微笑む。
「お嬢は綺麗ですよ。ああ、でも可愛い、のほうが合っているかなあ」
そう、なんのてらいもなく。
「か、かわいい、って」
「そう、そういう反応するところ、すごーく可愛いですよぉ。
ね、お嬢」
思わず頬を赤らめて狼狽えたヒューデリカに、ヴァンデッシュはにっこり笑って囁く。
「いつか、本来のお嬢の姿でダンス踊ってくださいねぇ」
それに自分はなんと返しただろうか。妙に身体が熱くて、覚えていなかった。