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▼第五十三話「真実の秤」ウプウアウト過去編⑤




 広大なる湿原を彷徨い歩き、小島の上に黄金色に光り輝く生命の樹を見つけたと安堵した瞬間であったため、ウプウアウトの絶望はより深まった。あと一歩であったのに——。


「ああ、まだ子供じゃないか。子供!! 子供はいいぞ!! 子供はじつに肉がうまい!! とくにこの子!! 内功もほどよく蓄えられていて、ほんとうに味がよさそう!! ああ、いけない!! よだれが溢れてくる!! ほんと、いい匂いがする!! 私の鼻孔を芳醇な香りが支配する!! お前!! お前の肉が、私を興奮させる!!!! お前の身体から、私の牙を招く声が聞こえるぞ!!!! お前!! お前お前お前!!!!」


 外界から隔絶された神域において、獲物の到来は久方ぶりのことである。アメミットは沸き立つ歓喜に我を忘れ、踊り狂った。全高十八メートル、鰐の頭部、獅子の上半身、河馬の下半身を持つ、異形の怪物である。湿原の水面には大きな波が立ち、鰐たちですらも流されていく勢いである。ただでさえ人肉は久しく口にしていないのに、目の前にいるご馳走は、なんと子供であり、内功までたっぷりのっているのだ。狂喜乱舞するのも無理はない。

 アメミットは、牙の無数に生えた鰐の口を開閉させ、どろりとしたよだれを溢れさせた。大量のよだれが、上空十八メートルからウプウアウトの頭に降り注いだ。そのよだれはまるでメープルシロップのような気味の悪い粘り気があり、ウプウアウトの頭部からどろりと垂れていき、全身がそれに浸された。身体の自由を奪われているウプウアウトは、急いで顔を下に向けた。そうせねば、窒息死していただろう。よだれからは腐った犬の死体のような臭いがして、ウプウアウトは膝をがくがくと震わせた。心臓には握りつぶされるような痛みが走り、顔をしかめた。


 アメミットは獅子の前腕を胸の高さにあげて、爪で宙を引っ搔くような仕草をした。すると、ウプウアウトがふわりと宙に浮かび、巨体のアメミットの顔の高さにまで持ち上げられた。ウプウアウトは初めてアメミットのおぞましい異形の姿を見て、恐ろしさのあまり絶叫した。そして、自分が今からこの怪物に食われるのだと、理解した。神獣の領域に足を踏み入れたのだ、代価を支払わなければならない。


「さあ、時間が惜しい!! 手早く手続きを済ませよう!! 一刻も早くお前の肉を食いたい!! 味わいたい!! 舌の上でお前の肉を転がしたい!! お前の骨を咀嚼する食感はいかほどであろう、お前ののど越しはいかほどであろう!!!! ぬうううううううんんんんん!!!!!!!!」


 アメミットの食欲はもはや最大限にまで高まっており、期待は最高潮に膨らんでいる。


「まずは宣誓せよ!! お前はたったいまから、真実のみを述べると!! これに十秒以内に同意しない場合、無条件で死罪となるッッ!!!!」


 ウプウアウトは一瞬頭が真っ白になった。突然の絶対の死の訪れに、思考が追い付いていないのだ。だが、彼には最初から嘘をつく気など毛頭なかった。


「……同意する」


 ウプウアウトの返答とともに、天に巨大な秤が現れた。そしてその上に光の羽がひらひらと舞い降りて、片方に載った。嘘をつくと、この秤が傾き、死罪が確定となる。


「よろしいッッ!!!! ではこれより、罪人は虚偽を述べた場合、即刻死刑となる!!!! グハハハハ、手間が省けるし、私は嘘をついてもらっても一向に構わん」


 鰐の笑い声は、非常に気味が悪く、ウプウアウトは総毛立った。


「お前の名は何だ」

「……ウプウアウト」

「ウプウアウト、貴様の罪状を読み上げる!! 罪状は、私の領域に無断で立ち入ったこと、生命の実を犯そうとしたこと、以上の二点である!!!! 認めるか!?」

「認めます——」

「では、死刑に処するッッ!!!!」


 ウプウアウトが言い終わらぬうちにアメミットは口を大きく開き、嚙み砕こうとした。


 そのとき突然、アメミットの上顎と下顎とに、激しい衝撃が走った。アメミットはウプウアウトの肉の味の代わりに、思いがけぬ痛みを感じて狼狽えた。


「アメミット様、ご容赦ください!!!! この子は、悪くありません!! 悪いのは私です!!」


 ウプウアウトを脇に抱えて、空に浮かんでいるのは、百虎拳ハラサであった。


「と、父さん!! どうしてここに!!」

「それはこっちのセリフだ、この馬鹿息子ッッ!!!!」ハラサはウプウアウトを叱りつけた。肩で息をしていて、飛ぶのもやっとだということが、ウプウアウトにも伝わってくる。「アメミット様!!!! 私が息子の代わりに罰を受けます!! なにとぞ、なにとぞ!!!!」


 アメミットは食事を邪魔されたことに加え、顎を殴打されたことに腹を立てていて、それどころではない。ハラサを獅子の前腕で思いっきりはたいた。ハラサとウプウアウトは水面に思いっきり叩きつけられ、アメミットの胸に届くほどの大きな水柱を立てた。

 それから超常の力を用いて水底から二人を空中に浮かべた。


「お前は何者だ、なにゆえ私の邪魔をする」

「私は、この子の父親です」


 そのとき、真実の秤が少し傾いた。


「おい、嘘をついたな!!!!」グハハハハと鰐が笑った。

「嘘ではありません!!!!」

「ふむ、ある程度は真実か。よろしい、貴様も審判してやろう!! お前の名と、お前がウプウアウトの父となった経緯を話せ!! 嘘をつけば、即刻死罪となる!!!!」


 ハラサは躊躇った。死の間際に、息子に軽蔑されることを恐れたのだ。卑劣な男としてウプウアウトの記憶に残りたくはなかった。

 だが、それをせねば愛する息子の命は救えない。


 ハラサはウプウアウトの顔を見た。ウプウアウトは父を失う不安に、泣きそうな顔をしている。ハラサは顔を横に振った。


「息子よ、私を許すな」

「父さん? どういう意味!?」


 そしてハラサは語り出した。自分がウプウアウトの父になった経緯を。


「アミメット様。少々長くなりますが、お許しください。まず第一に、私がウプウアウトの父となったのは、私が、この子を殺せなかったからです」


 ウプウアウトは、我が耳を疑った。それがどういう意味なのか、まるでわからなかった。


「私は、メンネフェルで政変を起こそうとするグループ、<月影盟(げつえいめい)>の幹部でした。きっかけは、息子がセト王に誅殺されたことです。しかし、四歳の息子には、なんの罪もありませんでした。私は必ずこの恨みを晴らそうと決意し、反セト派に接近したのです」


 ハラサの息子メフムトは、無邪気な子だった。王宮の庭で球を蹴って遊んでいたところ、その球がセトにぶつかってしまった。すぐに謝ればよかったのだが、メフムトは混乱していて、謝らなかった。そしてセトがメフムトの目をじっと見て、この子の中にはオシリスがいる、と言って殺してしまった。セトは球をぶつけられて腹を立てたのではなく、彼の瞳の奥にある、無条件の活気、溌剌さを疎んだのだった。ハラサはそのとき軍議で席を外していて、息子が死んだことを後になって知らされた。ハラサは三日三晩泣き、それから復讐を誓った。必ずかの邪知暴虐のセト王を(しい)し、息子の魂を慰める、と。


「そして私は、メフティス様の意向でテーベのオシリス様に接触しました。そのときに、密約を交わしたのです。オシリス様がセト王を殺す代わりに、私がネフティス様を欺いてセト王の後裔たるウプウアウトを殺すと。しかし、実際には、セト王には計画が漏れていたようです。裏切ったネフティス様はセト王に殺され、オシリス様も罠に嵌められ、返り討ちに遭いました」


 ウプウアウトは感情が千々に乱れた。ハラサの実子を殺したのが父セトであること。セトが、計画を知っていたうえで泳がせ、母ネフティスを殺したこと。ハラサは、内通者で裏切り者であったこと。

 数多の感情が錯綜し、極度の混乱がウプウアウトを襲った。涙が、勝手にあふれてくる。


「私はせめてセト王に復讐を、と思い、ウプウアウトを殺そうとしましたが……できませんでした。幼いウプウアウトを見て、死んだ息子を思い出したのです。殺せるわけがありません。……私はオシリス様からも逃げようと決めました。私が父になったのは、この子を守るためです」

「真実か?」とアメミットが問うた。

「……テーベ勢に渡せぬのは勿論のこと、私には、セト王の行動が予測できません。王は、二年前の事件から、人が変わってしまわれたからです。たとえ我が子ウプウアウトと言えども、殺してしまうのではないか、という憂いは真実です」

「それだけか」とアメミットはわずかな曇りすら見逃さない。

「いえ、さらに正確に言えば……」ハラサはウプウアウトを見た。「セト王から息子を奪うことで、復讐心をも満たしました」

「セトが、すべての元凶だ!! 父さんは、なにも悪くない!!」ウプウアウトは思わず叫んだ。

「いや、ウプウアウトよ。私は幼いお前を殺すという取引に応じた、卑劣な男だ。お前の父を名乗れる男ではない」

「違う!! 父さんはそれでも父さんだ!!」

「語るに落ちたな、ハラサッッ!! 貴様は父ではないと言うのだな!!!!」アメミットが叫んだ。


(つづく)

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