▼第五十二話「神獣アメミットと生命の樹」ウプウアウト過去編④
ウプウアウトは現実を受け入れられなかった。
人は、誰しも、いずれ、死ぬ。
だれひとりの例外なく、生命は朽ちる、という自然の原則を、ウプウアウトは知り抜いていたはずだった。
父同然だったメンネフェルの近衛兵長ゲルトや、乳母のシャディ、そして母ネフティス、いずれも幼少期に死に別れていた。
しかし、物心ついたウプウアウトが、最も多く歳月をともにしたのは、ハラサであった。
その九年にも及ぶ月日は、二歳から四歳までの記憶ある数年間より、はるかに濃かったのだ。
また失うのか、とウプウアウトは吐き気を催し、廊下で吐いた。
医者は背中をさすりながら、「力になれなくてすまないね。きっといいお父さんだったんでしょうね」と慰めの言葉を言った。ウプウアウトはその言葉にさらに胸を打たれ、どこまでも落ちていくような絶望に涙をこらえきれなかった。深い深い懊悩がそこに待ち受けていて、何もかも捨てて死んでしまいたい、とすらウプウアウトは願った。
そして悲しい衝動のままに、医者に礼も言わず、帰ってくれ、と怒鳴った。医者はこんな仕打ちは慣れている、といったふうに聞き分け、往診料を貰うとすぐに帰った。
ウプウアウトは涙をぬぐいながら、やつれたハラサをじっと見た。幸い、呼吸は落ち着いてきていて、顔色もやや良く見える。
(このままみすみす父を死なせるものか、何かないか、何か……)
そのとき、最近知った霊薬の存在が、不意に思い出されてきた。
まだハラサの意識がある頃にその霊薬を採りに行くと言ったとき、ハラサは激怒した。ウプウアウトに、自分のために危険を冒させることなど、容認できるはずもなかった。それに、セトの密偵があちこちに潜んでいることは、自明である。
しかし、いま行かねば、俺は一生自分のことを許せぬだろう、とウプウアウトは腹の底から確信した。
「父さん、行って来るよ。心配しないで。きっとすぐに帰ってくるから。……危険を恐れて後悔することだけは、絶対に嫌なんだ」
ウプウアウトが、自分が男なのだと、初めて自覚した瞬間であった。
石切り場の同僚に、薬草を採る副業をしている男がいた。名をメフチュという。三十歳ほどの髪がくりくりとしたパーマの男で、気のいい男だった。熱病の後遺症で片耳が聞こえなくなっていたが、当人は一向に気にしていない。
この男から、以前に霊薬の話を聞いたことがあったウプウアウトは、メフチュを探し回ってシェデトを駆け回った。そして、盛り場にいた男からメフチュが愛人の家にいるとようやく聞きつけると、仔細は構わず、その女の家に飛び込んでいった。
「メフチュ! 助けが要る!!」
開口一番、いきなりの宣告である。このあたりの感性は、実父セトや叔父オシリスに近い。庶民の暮らしが長かったくせに、王族の残り香がある。
慌てたのはメフチュである。肌着をつけず、女と楽しく語らっていた最中に、突然の闖入であるから、驚きはひとしおだった。女は衝撃のあまり近所一帯に響き渡るほどの金切り声をあげた。
「ば、馬鹿野郎!! 誰だ!!」
「俺だ、ウプウアウトだ」
「お前は石切り場の!!」
「俺の親父が死にそうなんだ。霊薬の在処を教えてくれ」
メフチュは頭をかいた。石切り場で霊薬の話に矢鱈と食いついてきたのは、親父が病気だったのか、と合点がいった。
「いくら病気だからって、女の家にいきなり踏み込んでくるかね、ふつうよ」
「すまない、火急の事態ゆえ、斟酌できなかった」
ウプウアウトは何度か押し問答した末、霊薬の在処をメフチュから聞き出した。
「しかしな、あれはセトやオシリスだって手を出さないヤバい場所だ。お前ごときでは手も足も出んだろう。おい、考え直せよ。お前が死んだら、親父さんも浮かばれんぞ」
「お前が同じ立場ならどうする」ウプウアウトは食って掛かった。
「寿命だと思ってあきらめるさ。人はいつか死ぬんだ」
軽薄な男め、とウプウアウトは怒りを感じたが、理解してもらう必要はないのだ、と気を取り直した。
「俺は行く。危険だとしても、そうすることが、俺の中では絶対なんだ。とにかく、霊薬の場所を教えてくれてありがとう。突然邪魔してすまなかった」そして女の方に向き直り、謝罪のために頭を下げた。「ご婦人も、お騒がせしてすみませんでした」
女は布をたぐりよせて肌を隠しながら、ウプウアウトが矢のように駆け出して行くのを呆然と見ていた。あわただしい男だ、とメフチュは煙草を吸いながら言った。
「ねえ、私が死にかけたら、あなたも霊薬を採りに行ってくれる?」と女が言った。
「そういうのは別の男に言うんだな」
女はメフチュを張り倒し、家から追い出した。
その湿原は、シェデトの北東、カルーン湖とナイル河の間に位置していた。そこに棲む神獣アメミットの名を冠し、アメミット湿原と呼ばれている。ウプウアウトの聞きつけた霊薬とは、湿原の中央に生えている生命の樹の存在である。
金色に輝くナツメヤシが生命の樹と呼ばれており、その樹が数十年に一度つける実こそが生命の実として高名であった。薬効は霊験あらたかで、死者をも生き返らせる力があるという。
ただし、そこは神域に指定されていて、立ち入りを禁じられている。それは神聖なものを侵すのを禁じるためではない。無用な死を避けるためである。
禁じられずとも、わざわざ踏み入る馬鹿はいなかった。なにせ、霊気をたっぷりと吸って育ったナイルワニがうようよといる場所だからだ。ナイルワニはクロコダイル属の巨大な鰐であり、全長は四メートルから五メートルにも達する。
ただでさえ、ライオンすら食い殺す獰猛極まりない爬虫類が、その生命の樹の霊気によって妖獣の群れと化していた。並みの武人では、生命の樹にすらたどり着けないだろう。
しかし、真の障害は、神獣アメミットである。アメミットは頭部がナイルワニ、上半身がライオン、下半身がカバという神獣で、<真実の秤>と呼ばれる能力を持つ。彼女は(アメミットは牝である)、相手が誰であれ、心臓を食らうことができた。
第九位階のオシリスやセトですら忌避する危険な神獣が、そこにいた。
ウプウアウトは、夜通し駆けて、明け方にようやくその場所にたどり着いた。見渡す限りの水と葦の湿原である。陽はいまにも湿原から昇り出しそうであり、地平線は赤く燃え、空には東雲、紫、藍のグラデーションが描かれていた。そして、肌が粟立つほどの濃厚な霊気が周囲に漂っていた。それは、ここに生命の樹があるということをウプウアウトに実感させた。そして、この先にある障害の実在をも同時に信じさせた。
——本当に、行くのか。
ウプウアウトは一瞬、逃げ出したくなるような葛藤を覚えたが、義父ハラサの顔を思い出して自身を鼓舞し、その生い茂る葦のなかに踏み入っていった。
葦の草丈は四メートルにも達し、それを分け入っていくのは、武功を習得していても、相当に困難であった。水位は脛が浸るほどで、さほど高くはないが、場所によっては深い部分もあり、気感を駆使して進路を探さねばならなかった。
さらには、鰐の気配も同様に感じ取る必要があった。遠い水面に、突き出された鰐の鼻先が、いくつも浮かんでおり、水面に波紋を無数に作り出していた。うようよと群れている鰐どもは、この一帯は我ら鰐の領域なのだ、と主張しているかのように、あちこちを泳ぎ回っている。
十三歳にして第三位階になったウプウアウトは、不世出の天才と称されるべき逸材であったが、それでも第二位階~第四位階の妖鰐の群れを相手するには、力不足にもほどがあった。それに、派手に戦えば、アメミットに勘付かれてしまうのは目に見えている。ウプウアウトは鰐を避けるため、常時、集中し続けなければならないばかりか、水が体温とともに体力も奪っていくため、内功の消費は激しい。
しかし、泣き言を言っている暇はなかった。ハラサのために、ウプウアウトは困難な事業をやり遂げねばならないのである。
ウプウアウトは注意深く鰐を避けながら、湿原を進んでいった。陽が徐々に昇りはじめ、朝の最初の光が、水面を燃え上がるような曙色に染めた。
二時間ほど湿原を踏破したところ、ついにウプウアウトは黄金色に光る生命の樹の光を見た。すでに陽は天高い場所にあったが、それは地上の太陽とでも形容したくなるような眩さであった。金色に輝く幹と葉は、約束された至福のようであり、周囲の景色を圧倒していた。
極度の緊張状態の持続により、疲労困憊の極みにあったウプウアウトは、泣き出したくなるような感動に襲われた。ついに、見つけた——あれがあれば、すべてが報われる。
しかし、その自然の作り出した最上の美術品とも呼ぶべき生命の樹を、ただ感嘆して尊ぶには、あまりにも空気が異質だった。
アメミットの濃密な気配が、その美しき景色を、死が匂い立つような領域へと塗り替えているのである。
そして、饐えたような独特の腐敗臭が漂ってきた。
これはアメミットの獣臭であろう。
ウプウアウトは生唾を飲み込み、全神経を張り詰めた。
そのとき、ウプウアウトの背後から、突然巨大な引力を秘めた気が現れ出でた。
獣臭が、鼻を衝く。
と、同時に、金縛りにあったかのように身体の自由が奪われた。
ウプウアウトの心臓は早鐘の如く猛烈に鼓動を速め、極限の恐怖がその心を支配した。
「——おやおや、招かれざる客は久しぶりだ……。お前の心臓は、どんな味がするだろうか」
(つづく)




