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▼第五十一話「百虎拳ハラサ」ウプウアウト過去編③




 勝利を確信したウォルギルヴルのその通告に、ハラサは問答を仕掛けた。


「ウプウアウトさまを連れて、どうなさる」

「我々が責任を持って保護するに決まっているだろう。その方はセト様の嫡男にあらせられるのだぞ」

(ファラオ)が裏切者を許すとでも? ネフティス様は、セト王の雷によって消し炭にされたというのに」

「年端のゆかぬ子供を裏切者と見做すものか」

「確証は持てまい」


 ウォルギルヴルは言葉に詰まった。確かに、二年前の事件から、セト王は見境がなくなったことはウォルギルヴルにもよくわかっていた。彼の元上官も、つまらぬ疑いでセトに処刑されていた。職務に忠実な人で、裏切ることなど、あろうはずもなかった。


「だからと言って、父と息子とを引き離す権利が、あなたにあるのか?」

「俺はな、このお方を守って差し上げたい一心なのだ。この方は、まだ、いたいけな子供ではないか」


 ウォルギルヴルは自身の心に芽生えた、理解の気持ちをかき消すべく、朗々と吠えた。


「ぐだぐだと弁舌を弄すな、ご老体よ!! かくなるうえは、剣で決するのみ!!」

「老体かどうかは、お前の身体で判断するがいい」ハラサは不敵に笑った。


 舌戦で十分に時間を稼いだハラサは、襲い掛かるウォルギルヴルの一撃を、拳でいとも簡単に打ち払った。歴戦の将軍、百虎拳の名は伊達ではない。ウォルギルヴルは一瞬たじろいだが、意気を取り戻し、ふたたび襲い掛かった。とはいえ、ウプウアウトを抱えている相手に絶技は繰り出せず、ハラサが防戦に徹すれば、すべての攻撃を見切るのに訳はなかった。


 人質を前に有効打を決められず、次第にウォルギルヴルの心に鬱憤が募っていく。


「諦めろハラサ!! 子供を渡せば命は助けてやる!!」

「セトがそんなタマかッッ!!」ハラサはウォルギルヴルの剣を弾き飛ばしながら怒鳴った。

「この私が責任を持つというのだ、ハラサ!!」

「ガキの戯言がよッッ!! 百虎砕環拳(ひゃっこさいかんけん)・<断龍滅鬼拳(だんりゅうめっきけん)>ッッ!!!!」


 ハラサはウォルギルヴルのみぞおちに、内功の込められた強烈な一撃を叩きこんだ。インパクトの瞬間、光と熱とがウォルギルヴルの身体の中から炸裂し、彼は銀仮面から光を漏らしながら悶絶した。それは内臓を焼き尽くす、業火の拳である。ウォルギルヴルも数々の強敵と死闘を重ねてきたが、これほどの一撃は、ついぞ味わったことがなかった。高位階のウォルギルヴルでさえも、継戦不可能になるほどの一撃であり、気の流れが千々に乱された。


 しかし、ウォルギルヴルは倒れず、手を伸ばしてウプウアウトの手を取ろうとした。だがそれは明らかに力を失っており、いかにも弱々しい。意志だけで手を伸ばしていた。

 ハラサはこの未来ある若者を殺す気になれず、後頭部に一撃を加えて気絶させるに留めた。どちらにせよ、この内傷ならば、しばらくは追って来られないだろう、という計算もあった。


 ウォルギルヴルは古豪ハラサの前にあえなく敗れ、気を失った。


 だが、まだメンネフェルの精兵、一個大隊の五百人が控えている。ハラサも、先の一撃でかなりの消耗をしていた。生半可な攻撃では、あの才物を沈めることは不可能だったのだ。


 そのとき、咆哮が東側から聞こえてきた。


 メンネフェルの兵たちが何事か、とそちらを見やると、それはモントゥの率いるテーベの軍勢であった。

 兵の数こそ地の利のあるメンネフェル軍には劣るが、オシリスさえも凌ぐと言われたモントゥの武名の威光は凄まじい。メンネフェルほ兵たちは恐懼(きょうく)に支配された。


「ようやく到着か。もっと早いと思っていたがなあ」とハラサは汗をぬぐいながら言った。ハラサは両軍の進路を巧みに誘導して、メンネフェル軍とテーベ軍とを鉢合わせにさせたのである。「さて、この混乱のうちに逃げてしまおうか」とハラサはウプウアウトに笑いかけた。この戦禍のなかで、なんたる肝の太さか、とウプウアウトはまたしても威に打たれた。



 こうしてハラサは、敵の敵を利用して窮地を脱した。途中で馬を駱駝に乗り換え、ハラサは砂漠を走った。何度も方角を変えながら逃げ、やがて、追手が消えた。



 そして二人はファイユームに落ち延びた。ファイユームは北部に巨大な塩湖カルーン湖を持ち、大規模な治水事業のすえに、農業都市として発展してきた歴史がある。いまでは人口も多く、灌漑農業によって種々の作物を|蒼流<ナイル>中に行き渡らせる、一大農業都市であった。ファイユームはメンネフェルの傘下にあるとはいえ、自治政府を持つ都市国家である。いくらセトといえども、おいそれと踏み込んではこれないだろう、と踏んでいたのだ。


 このファイユームの都市部・シェデトの街の繁華な場所に、二人は親子として転がり込んだ。すでにこの時代には三階建てや四階建ての賃貸物件があり、ハラサは審査の緩い大家を見つけて金を握らせ、その一室を借りたのだった。

 ハラサは四十絡みで白髪もあったので、四歳のウプウアウトの父としてはやや老け込んでいたが、周りからはとくに違和感もなく受け入れられた。都市の生活は田舎と違って、詮索はされない。二人は変名を使っていたこともあり、シェデトの生活に溶け込んでいった。



 ウプウアウトは最初の頃、ハラサを父と呼ぶことに激しい抵抗があった。なんとなれば、彼こそが父のように慕っていたゲルトを殺した張本人であるからだ。それに、得体も、知れない。


「ハラサ、あなたはなにものなんだ」とあるときウプウアウトが聞いた。

「いずれ、時が来たら話しましょう」


 ハラサはいつも話をはぐらかした。その都度、さみしげな顔を見せるので、ウプウアウトはそれ以上に詮索することを諦めた。


 ハラサはよき父親たらんと、汗水を流して働いた。家賃と食費とを稼ぐ生活は、上級貴族出身のハラサには堪える生活であった。無論、出自を明かせばそれなりの職は得られただろう。しかし、庇護する者がいるなかで、そのようなリスクはとても冒せぬ。自分が選び取った運命である、とハラサは腹を括っており、見上げた真面目さで懸命に仕事をこなし、ウプウアウトを養った。

 さらに、昼間働いた後、夜はウプウアウトの武功を見てやった。この子の運命を思えば、自分がどれだけ疲れていたとしても、修練を欠かすわけにはいかない。それは無私であった。彼は責任を果たすために、いつも全力を尽くした。


 ウプウアウトはいつしか、その姿に、真の愛情を見るようになった。打算を感じられぬ献身、厳しくも優しい指導が、ウプウアウトの疑念を融かしていった。そして、次第に、ハラサに心を開くようになっていった。


 時々ハラサは、夜中に深酒をして、ひとりで考え込んでいた。なにかに悩んでいるのか、眉間にしわを寄せて、苦渋の表情を浮かべたまま、まずそうに古代のビールを飲んだ。ウプウアウトが夜中に目を覚まして、その表情をこっそりと盗み見たとき、ハラサの抱えているものの大きさが、少しはわかったような気がした。


 ウプウアウトの六歳の誕生日に、ハラサは奮発して牛の肉を用意した。裕福とはいえない所帯だっただけに、それは古代の秘宝のように珍しいものであった。珪藻土で出来た七輪のような調理器具に炭を入れ、十分に熱したのちに、ハラサは牛の腰肉を二切れ置いて焼いた。肉の焼ける匂いは集合住宅中に立ち込め、よだれを垂らしながら隣人たちがその匂いの元を確かめに集まってきた。「やあ、これはみなさん、すみませんな。じつはこの子の誕生日なもので、今日のために節約していたんです」とハラサは弁解せねばならなかった。

 そのとき、腹を空かせた隣人の子供のひとりが、指をくわえてじっと見ていた。ハラサは、その子を見て涙ぐみそうになった。かつて死んだ自分の息子に、どこか似ていたのだ。ハラサは自分のぶんを半分切ってやり、ほかの者に内緒で、この子に肉を食わせてやった。ウプウアウトも分けてやろうとしたが、ハラサは笑って「優しい子だ。しかし、それはお前が食べなさい」とたしなめた。すでに、父の言葉であった。


 その日から、ウプウアウトは家でもハラサを父上、と呼ぶようになった。



 ウプウアウトが十三歳になるころ、ハラサはめっきりと弱っていった。頑健で岩のようだった肉体が、みるみるうちに痩せていき、肉が削げていってしまった。病を得たのである。もはや働きになど出られず、藁やパピルスを積んだ貧しい寝所で、横になっていることしかできなかった。


 古代エジプトは十二歳で成人と見做されていたため、ウプウアウトはすでに外で働いていた。メンネフェルの王子が、ナイルの汚泥に藁を混ぜて日干し煉瓦を作ったり、畑を耕したり、石切り場で建築用の石を切り出したりして、日銭を稼いでいたのである。ウプウアウトは、そうして稼いだ少ない実入りのなかから薬を買い求め、滋養のあるものを買ってきて料理を作るなど、出来得る限り最大限の介抱をした。ここまで身を粉にして育ててくれた恩人である。その絆は、すでに血よりも濃い。


 ハラサはそのような姿を見るにつけ、内心、おいたわしい、と憐れんだ。ウプウアウトは、見るだに立派な若者である。ラーの血筋だけあって、輝かんばかりの才気にあふれていた。武功を教えるそばから吸収し、またこの複雑怪奇な情勢を生き抜くための知恵を仕込んでも、すぐにものにした。セトやオシリスでさえも、この子に比べれば凡物に見える、とハラサは親の欲目で信じていた。あるいは、時機さえ噛み合えば、強大な王として君臨するに相応しい人品であった。


 その王子が、市井の者に混じって、日々をパンのために空費している。そしてそれは自分の看病のためである……。


 ひとり、狭い一室で伏しているハラサは、自分の選択が正しかったのか、迷うのであった。

 その精神的な負債も、彼の命を削り取るのに十分以上の働きを担った。



 そして十三歳のある日、ハラサはいよいよ危篤の状態に陥った。仕事に出かける前、義父の様子を見に行ったウプウアウトが、意識が混濁し、呼吸が荒く、そして浅くなったハラサを発見したのである。

 唯一信じているハラサの病状に、ウプウアウトは手が震え、その場をうろうろと歩き回った。予期していたこととはいえ、子供の身に受け止められることではなかった。が、やがて正気を取り戻し、街の医者を呼んで義父の容態を見させた。


 しかし、医者も匙を投げた。


「こうなっては、もう助かりません。もしも意識を取り戻すことがあれば、そのときに今生のお別れをなさるのがよいでしょう。もちろん、目を覚まさない可能性もありますが」

「あなたは嘘を言っている! 嘘を言っているんだ!!」ウプウアウトは泣きながらその言葉を否定した。否定したかった。


(つづく)

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