▼第四十八話「レンシュドラの葛藤」メンネフェル大神殿編⑦
▼第四十八話「レンシュドラの葛藤」メンネフェル大神殿編⑦
アヌビスが丁々発止の大立ち回りを演じた結果、ムスクウルウンは通行を許した。厄病神と呼ばれたアヌビスは、しょっちゅうこんなことが起きるからこそ、そのリカバリーも手慣れたもので、堂に入っている。ムスクウルウンは深々と頭を垂れて葦船を見送った。
葦船は、ふたたび水の流れに身を任せ、メンネフェルに向かって進んでゆく。
それからメンネフェルまでの各ノモス(行政区)でもこれまでと同様に検問を受けた。アヌビスの身には、さまざまな不運が降りかかった。猫アレルギーのアヌビスに、港の猫たちがやってきて膝にその腰や尻尾を擦り付けて甘えた。アヌビスは動物が好きだったし、よく好かれる。しかし猫に関してはアレルギーを持っていて、かゆみやくしゃみが止まらなかった。アヌビスはそこで「男」そのもののくしゃみをしてしまった。ディラは額に手を当てて嘆息した。また、雨が降り出して、レンシュドラの全身の刺青を隠していた化粧が流れ落ちた日もあった。港への到着が遅くなった日には、ウプウアウトが松明で顔を照らされてパニックを起こした。しかし、これらの不運を以てしても、アヌビスらのメンネフェル潜入を止めることは出来なかった。彼らは全員頭が切れて、機転も効く。ちょっとやそっとのトラブルは、見事に解決された。
数日のうちに、葦船はメンネフェルの港に着いた。メンネフェルでは一層厳しい検問体制であったが、これも問題なく通過した。ヌビアの公女として、アヌビスはほぼ完璧な水準にあったし、書類にも問題は見当たらない。兵士たちはアヌビスを賓客として応対し、恭しい態度を保って礼を尽くした。
そして一同はメンネフェル兵に案内され、メンネフェル大神殿の迎賓館に遇された。ヌビアの公女一行がここで寝泊まりできるように、ディラが手配していたのだ。
アヌビスは、迎賓館を見て度肝を抜かれた。壁に彫刻が施され、門の前には二体の超巨大な石像が建てられていた。わきには天を衝く巨大なオベリスクまである。これはある種の示威行為である。迎賓館に訪れる者に、メンネフェルの国威を痛感せしめる狙いがある。アヌビスはまんまとその術中に嵌った。これが迎賓館だって? まるで王宮だ。
中に入っても、その感動は尽きなかった。壁面の彫刻や壁のオイルランプの形、廊下に敷いてある絨毯の質の見事さ、緻密かつ極彩の天井画など、どれをとっても美を意識されたもので、その細部までこだわりぬいた意匠、そしてそれらが調和してもたらず圧倒的な世界観に、アヌビスは呆然とした。また、飾られている壺は、古代ギリシャの黒絵式の陶器の原型とも呼べるような絵付けがしてあり、大層な美術品であった。ほかにも絵付けされた皿などの焼き物が飾られていて、豪奢そのものである。
迎賓館は広く、部屋数も十分にあった。それぞれの部屋にはパピルスを編んだマットレスがあり、その上には綿を詰めたマットレストッパ―まで敷かれていた。さらに、上から亜麻のシーツが掛けられており、完璧にベッドメイクがなされていた。
「うわああああ!!!! こんなマットレスで寝てみたかった!!」とアヌビスは走ってマットレスに飛び込んだ。心地よい弾力があり、ふだん硬い地べたに藁を積んで寝ていたアヌビスは、雲の上にいるのかと錯覚した。
ディラは透明なままで、アヌビスの頭をはたいた。
「お前はアホか!! 誰に見られているかもわからんのだぞ!! レディとして気を抜くな!!」
「ちぇっ、うるっさいわね。わかってるわよ」とアヌビスはしっかり女役を演じながら言った。「それより、ここ大丈夫なの? よりによって、敵地のド真ん中じゃない」
「だからこそ面白いのだろう? はっはっは、奴らが権力を誇示する館に、至れり尽くせりで泊まれるのだぞ」
「イカレてるわね」
「せいぜい寛がせてもらおうではないか」
翌日は「旅の疲れが出たので部屋で休む」とメンネフェル側に伝えたのち、アヌビスらは穏身術を使って迎賓館を抜け出した。これしきの詐術はディラにとっては赤子の手をひねるようなものだ。メンネフェル側の尾行もなく、彼らを出し抜いて、すんなりとメンネフェルの市街区にゆくことができた。街の広場にはたくさんの人々がいて、にぎわっている。広場には屋台やござの上に商品を並べた露店も数多くあって、アヌビスは好奇心に抗うのが大変だった。
ディラはそこで姿を現した。いつもの黒曜石の仮面ではなく、顔の上半分に包帯を巻いている。彼らは全員変装していた。アヌビスは女装を辞め、帽子に髪を入れて隠している。変装の変装だから、男の方が都合がいい。メジェドも同様の姿をしていた。インプトはロングの髪を短くまとめ上げていて、首筋がよく見える。また、髪を除くことで顔の華やかさがより一層際立った。あまりにも衆目を引くので、インプトは帽子を目深にかぶらされた。レンシュドラは特に目立つため、化粧で体中の刺青を隠した。ウプウアウトも巨大なおさげを解き、頭の上に結い上げている。
彼らは事前に打ち合わせした内容を確認すると、それぞれの組ごとに散開した。
インプトとディラは肉屋で干し肉を買い、それから裏通りでさまざまな毒物を買い求めた。三週間前、アヌビスは、ラーと計画の細部を相談していたときに、いくつかの毒を教えてもらった。そして、教えてくれた種々の製法を、またしてもインプトに軽々と教えた。驚いたのはインプトである。あの子は一体何者なの、毒功の秘伝をいくつ持っているのだろう、と愕然とする思いがした。大量の毒物を買い込み、ディラは百宝奇嚢の内にすべてを収めた。数日のうちにこれらの毒をあまさず調合せねばならず、ここからがインプトの真の闘いである。もちろん三週間のあいだにも、修練の合間を縫って調合を進めてはいたが、まだまだ足りない。ディラも毒の扱いに長けているので、この二人で分担して作業し、決行日までに間に合わせることになった。
レンシュドラとウプウアウトは、汚れ仕事を引き受けた。
レンシュドラは神殿高官ドゥスウルトゥの大きな屋敷に、大きな鋏を持って、庭師として訪問した。家宰ウフトゥはそんな話は聞いていない、と言ったが、レンシュドラは「今朝になって気が変わったんやないですか? いやあ、ボクも当日に来いと言われて慌てまして——」と言い繕った。「ほら、あの方って一度言い出したらもう聞かへんやないですか。逆らいでもしたら、殺されてまいますからね、ほんまに」
ドゥスウルトゥは神殿の長老格・十狼頭のひとりで、王セト、神殿長ジャルエルドに次ぐ権力者であり、権勢を極めた顕官である。が、神官だからといって、みながみんな清らかかといえば、そうではない。彼はむしろ、煩悩と強欲と功名心と利己心と残虐性とを混ぜ合わせ、攪拌し、精製したのち、固め、磨き尽くしたような男であった。反社会的組織と濃密な繋がりがあり、彼らが手足となって働いた。彼には、「政治的に対抗する者の息子を殺したうえ、その肉を食わせた」という、嘘か真かわからない噂まであった。だが、彼ならばやるだろう、というのがその話を聞いたメンネフェル市民の標準的感想である。逆らう者には容赦がなく、徹底的にやり抜く男だった。また、ドゥスウルトゥは神官の顔のほかに、あこぎな高利貸しという顔もあり、庶民から搾り取った金で飽食を繰り返していた。
レンシュドラが彼を狙ったのは、要するに感情論である。いちばん気に食わない奴を標的に定めただけだ。
「そういう訳だったか。すぐに済ませてくれたまえ」と家宰の四十絡みの白い肌の男が、レンシュドラを蔑むような目つきで言った。卑しい下民と言葉数多く絡むと、品が下がるとでも思っているかのようだった。
「はい、ちゃっちゃと取り掛かります」
古代エジプトの庭園は素晴らしい。まず、砂漠地帯にも関わらず、二十五メートル四方ほどの大きさの池があり、そのなかには魚が泳いでいた。その周りに左右対称に柱や彫像が並んでいて、じつに美しい。あちこちに樹が生えていて、その葉が陰を優しく落としていた。西洋式庭園の原型が、ここにある。庭の周囲には日干しレンガで厚い壁が造られていて、万一の時には城壁にもなった。どれだけ金をかけたのか、レンシュドラには見当もつかなかった。
レンシュドラは仕事をする振りをしながら、不意に姿を消した。苦労して身に付けた穏身術は、いまや一流の域に達している。レンシュドラは三階建ての大きな家屋をくまなく探し回った。やがて、書斎で目当ての陶板を見つけた。そこには、なんらかの表が書かれている。これは単品では意味のわからない表だが、じつは暗号を復号するための鍵であり、暗号に対応する復号が記されている。
その陶板を持参の袋に入れようとしたとき、レンシュドラは一瞬躊躇した。いくら相手がいけ好かない野郎だからといって、盗みを働くのだ。
しかしそのとき、アヌビスの顔がレンシュドラの心に不意に浮かんできた。
(アヌビスは、ボクのために命を賭けて秘庫に入ってくれたし、ディラに交渉もしてくれた。だから、アヌビスのためやったら、ボクは、悪いことでもする。それに、ボクには生きてやらなければならないことがある。せやろ、母上。だから堪忍な)
レンシュドラは母親に心の中で言い訳をすると、その陶板と、その辺にあった暗号書類をあらかた袋に入れた。そして、用は済んだ、とばかりに部屋を出ようとした。
そのとき、誰かが部屋に入ってくる足音がした。
「誰かいるのか!?」
(つづく)




