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▼第四十七話「葦船の怪演」メンネフェル大神殿編⑥




 三週間の短くも長い、厳しい修練の時間を過ごしたのち、アヌビスらはテーベの船着き場から水行でメンネフェルへと向かった。船はパピルスを編み込んだ葦船であり、亜麻の帆が付いている。この船の船頭や漕ぎ手も、もちろん反社会的ギルドの者たちである。ナイルの流れは、テーベからメンネフェルに向かって南から北に流れているので、基本的には水の動きに任せていれば、一週間程度でメンネフェルに着く。

 アヌビスの故郷・ジャウティから北はメンネフェルの領域であり、このあたりからメンネフェル側の検問が各所に敷かれる。ディラは検問の前後では姿を透明にして、ギルドの者どもや、アヌビスらにその進退をゆだねた。アヌビスとメジェドは公女として扮しており、ディラの指示に従って、検問の兵士たちに愛想を振りまいた。


「お仕事、ご苦労様ですわ」とアヌビスが言った。「毎日、大変でしょう」

「いえ、これもメンネフェルの平穏を保つためですから。お気遣いいただきありがとうございます」


 この集団は、まさにその”メンネフェルの平穏”を乱さんがために、その王都に向かっているわけだが、彼がそのことを知る由もない。書類も確からしいし、不審な点はとくにない。何より、兵士は、アヌビスの変装するヌビアの公女・アヌビアの美しさに感服した。こんな美しい美少女が刺客であるはずがない、と無意識に決め込んでしまったのだ。それが人間の心理である。兵士を責めることは出来まい。


 ディラの目論見通り、兵士たちはアヌビスらをメンネフェルの領域に招き入れた。船はカイスを超え、さらに、この調子でウヌウ(ヘルモポリス)・ヘベヌウ(ヒビス)などを難なく通過した。


「こんなにあっさりと潜り込めるもんなんだな」とアヌビスは言った。強烈な尋問などを覚悟していたため、肩透かしを食らったように感じている。

「まあ、こんなもんだろう。だが、ヘラクレオポリスの検問を超えるまでは気を抜くな。ここまでは前座に過ぎん」


 ヘラクレオポリスの検問はさすがにここまでの検問とは訳が違った。なにせこれより先には一大農業都市ファイユームがあり、国都メンネフェルがある。川に綱が渡されていて、各船がその検問のあたりで堰き止められ、たむろしている。その異様な雰囲気を見て、さすがにアヌビスも肝が冷えた。アヌビスらの葦船ももちろんそこで一旦止められ、尋問を受けることになる。


「これより先には何の御用ですか?」検問の兵士が(たず)ねた。三十五歳で、よく日に焼けた短髪の男である。

「用向きは、メンネフェルへの留学です」と付き人に扮したウプウアウトが答えた。ファンデーションで肌の色を濃く変えている。「こちらにおわす方は、公女アヌビア様です。ヌビアでは大変高貴な方なのですが、ヌビアの未来のため、知見を広げるために参りました」

「ほう、ヌビアの方ですか。……いやはや、これは美しい」と兵士は言った。最後の一言は、あまりの動揺に思わず漏れ出てしまった、余計な感想である。彼は三十五年の人生、二十年の検問生活のなかで、あらゆる貴人を見てきたが、これほどの美しい人は、見たことがなかった。

「これが公的な身分証明書です。こちらはメンネフェルの行政官さまから発行していただいた、留学の許可証です」ウプウアウトは丸めたパピルスを二通差し出した。

「しょ、少々お待ちを」


 兵士は伴の同僚に見張りを任せて、上官を呼びに行った。彼らは字が読めなかったのである。

 やがて日焼けした色黒の兵士は、四十歳前後の引き締まった身体の男を連れてきた。髪はごく短く、刈り込んでいる。


「お待たせいたしました。責任者のムスクウルウンです。私が書類を拝見しましょう。ほう、ヌビアの方ですか」

「はじめまして。私はアヌビアと申します。以後、お見知り置きを」アヌビスはヌビアの作法で礼を取った。そのさまはえもいわれず嫋やかで、真夜中にナイルの水面に浮かぶ美しい三日月のようだった。

「これはこれは」とムスクウルウンは驚いて目を丸くした。いや、彼だけではない。メンネフェルの誰もが、心臓を掴まれるような衝撃を受けていた。ヌビアの奇跡、という言葉さえ胸に湧き出てくる。


 だが、美しい、とは思いつつも、疑いの念は離さずに持ち続けている。それが、彼のただならぬ能力の証明になろう。彼には重責を負うに足るだけの能力と経験があり、職務に常に忠実であった。妻が長男を出産しているとき、彼は職場にいて、変装した盗賊団を見破って縛り上げていた。それほど仕事を最上とする男だった。


「<私はじつはヌビア文化にはほとほと敬服しておりまして。少々ヌビア語には覚えがあるのですよ>」とムスクウルウンはヌビア語で言った。


 これにはさしものウプウアウトも内心大いに焦った。ウプウアウトにはヌビア語はわからない。しかし外面はポーカーフェイスである。

 どうするのだ、と何気ない素振りでアヌビスを見た。


 すると、なんとアヌビスは、薄く笑みを浮かべ、愛くるしい顔をしてその話を頷きながら聞いているではないか。


「<あら、ヌビア語がとってもお上手ですわ。ヌビアにはいついらしていたの?>」とアヌビスが言った。小首を傾げて微笑を浮かべるさまは、この世のものとも思われぬほどの美しさであった。ムスクウルウンは、なにか神々しいものを見たような、畏敬の念まで覚えた。

「<行ったことはありませんが、言葉だけ学びました。仕事を引退したら、ぜひ訪れてみたい国です>」

「<そんな! 引退まで先送りにするなんて、もったいないですわ! 明日にも行ってみてはいかがでしょう? きっと素晴らしい体験になるはずですわ>」


 アヌビスのヌビア語は、すでに日常会話ならばネイティブの域に達していた。すらすらと話し、しかも可愛げまで満点である。ディラとメジェドの厳しい訓練が、身を結んだ瞬間であった。ウプウアウトは、アヌビスのそのふてぶてしいまでの怪演を目の当たりにし、こいつは本当に大した奴だ、と改めて見直しつつ、半ばは呆れ、自らの頬を指で掻いた。


 そのとき、急に波が立って、葦船が揺れた。インプトは武功を使えば対応できたが、怪しまれては損だと思い、そのままバランスを崩した。が、それが裏目に出た。インプトが倒れた先にはアヌビスがいて、アヌビスもろとも、葦船の上に倒れてしまった。


 そして、アヌビスの装束から、胸に詰めていた亜麻の丸い詰め物が転がり出てきた。ころころと葦船の上を転がっていくのを、一同が、無言で見た。メジェドの顔は、気の毒なほどに青ざめている。ムスクウルウンは、その詰め物を、死人が蘇りでもしたかのような形相で凝視している。


 時間が、止まる。


 アヌビスが一瞬思考停止したその瞬間、レンシュドラが助け舟を出した。「<ひ、姫!! ええい、貴様ら、姫に恥をかかせるな!!>」とヌビア語でまくしたてたのである。

 はっと我を取り戻したムスクウルウンは目を手のひらで多い、「<な、何も見ておりません!!>」と言った。


 アヌビスも、ようやく頭が働いてきた。


「<私は胸がちいさいのがコンプレックスなのです。——あなた、このことを口外したら、国際問題として訴えるわよ>」

「<アヌビア公女、私は、ほんとうに何も見ておりませぬゆえ!!>」

「<あなたの金玉を賭けられる? 口外したら引きちぎりに行くわよ>」

「<息子のぶんまで賭けましょう>」

「<よろしい>」

「<せ、僭越ながら、わ、私は胸の大小など、些細なことだと思っております! 大きくとも小さくとも愛があれば……!!>」

「<誰がそんなことを聞きましたか? セクハラで訴えますわよ??>」


(つづく)

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