▼第十四話「自己否定と受容」
再び目を閉じると、また十歳の自分が出てきた。
顔をくしゃくしゃにして、感情のまま泣いている。涙が次々あふれ、とめどもない。
さいぜんは試験の邪魔だと思い、苛立ちしか感じなかった。
が、いまこうしてみると、また見え方が違う。
手足が細く、華奢である。
子供の身体とは、こうも頼りないものだったか、と慈しむような感情が溢れる。
ここに至ってようやく、理解した。「自分の感情など」と投げやりに思っていた。邪魔でしかないと打ち捨てていた。そして、その空恐ろしさにめまいしそうになる。
俺には俺しかいないのに、俺を突き放していた!
いつもいつも誰かに否定されてきた。
でも、俺自身まで否定してたら、立つ瀬もないじゃないか。
心の暗闇と後悔と恥とにアヌビスが顔を歪め、呼吸を荒くする。
「まずは自分を抱き締めて、感情を感じるんだ」とラーが言った。
アヌビスは指示に従い、恐る恐る歩み寄った。そして、繊細なガラス細工を取り扱うような心細さで、目の前の自分を抱き締めた。
激しく嗚咽する十歳の自分を抱きしめた瞬間——
とてつもない絶望と悲しみが胸に入り込んできた。
胸を穿ち、えぐるような痛みである。
絶望とは、かくも苦しく痛いものだったか、とアヌビスは顔をゆがませる。
大人になるにつれ、神経を鈍麻させる術を身に付け、感じぬように努めてきた、あの痛みだ。
アヌビスは、さまざまな絶望を味わった。
それは、孤独の絶望、蔑視の絶望、最下等の絶望、貧困の絶望、自己嫌悪の絶望である。
これは確かにあの時の感情だ。
いまも、変わらずに、痛い。
何年経っても、風化せずに生のままで感じるのが、アヌビスには不思議だった。試験中にも関わらず、涙がせり上がってくるのを感じ、まぶたに力を入れた。
「感情を感じることができたら、今度は、自分の話を聞くんだ」とラーが傍で語り掛ける。
アヌビスは過去の自分の言葉に耳を傾けた。
しかし、話したがらない。
ただ泣いているばかりである。
ああ、とアヌビスは諒解する。
——俺がいつも自分の悲しみを否定して封じ込めていたからだ。
弱音を吐けば、きっと俺からとてつもない罵詈雑言を浴びせられる、と怯えたのだろう。それも無理はなかった。
俺はいつも、そうやって自分に接していたから。
そう思うと、目の前の少年に対して、素直に、心の底から申し訳ないと思った。
ごめんな、という真心を込めて、抱き締めた。そして、少年の背中をさすった。
すると、彼の感情がじかに伝わってきた。
(みんなに嫌われて、みんなに厄介者扱いされて、僕は僕でいることがとっても嫌なんだよ……。僕に生まれてこなければよかった)
(僕は武功を身に付けられない体質なんだ……。努力してみたけど、全然ダメだった。みんなから、廃品、疫病神って言われて、仲間外れにされて、それがなにより辛かった)
(この世界で、強くなれない僕は、なんで生まれてきてしまったんだろう――僕って生きる価値ないよね)
アヌビスはついにこらえきれずに涙を流した。無言のまま顔を横に振った。
「そんなことない、そんなこと、あるもんか!」とアヌビスは言った。
「え?」と十歳のアヌビスは不思議そうに言う。
「だって君がいつも僕にそう言ってたんじゃないか」その声は、アヌビスの脳天に響き渡った。
ドクンと心臓が波打ち、呼吸が苦しくなる。
「周りの子たちと一緒になって、君も僕のことをそう言っていたよね」十歳のアヌビスの眼が、黒く落ちくぼみ、闇を放っている。その暗黒の目で今のアヌビスをじっと見る。
「そ、それは……」アヌビスはたじろいだ。
「君が一番僕のことを嫌っているくせに」
「ち、違う!!」
「違わないよ、だって君は僕だもの。僕はよく知っている」
呼吸がどんどんし辛くなっていく。喉が締められているようだった。はあ、はあ、と息が荒い。汗が地面に滴り落ちる。
「周りの子は、離れてしまえば何も言われない。でも君は、二十四時間、三百六十五日、いつも僕の一番近くで僕を否定していたね」
「ぐあああッッ!!」
アヌビスは心臓を抑える。そこがぎりぎりと痛むのだ。
「アヌビス、落ち着け。相手の言葉に否定で返している限り、絶対に終わらん。辛くても、認めたくなくても、肯定しろ」ラーの声が胸の中に広がる。
その声を聞き、アヌビスは少し落ち着きを取り戻した。そして深呼吸した。
こいつの言っていることは、間違ってない。
そう認めると、さらに呼吸が楽になった。
「すまなかった。たしかに俺はそうしていた。認めるよ」
「そうだろう? 君は、力のない僕を、いつも足蹴にして、踏みにじっていた」
「ああ、そうだった。俺は自分のことが嫌いだった。弱い自分が、大嫌いだった」
アヌビスは苦悶の表情を浮かべながら言った。口に出すだけで、再び胸も心も激しく痛んだ。
「そうだよ。だから君はホルスの言葉に共感したんだ。弱い者はクズだって、君が僕に言い続けていた言葉だもんね」十歳のアヌビスの真っ黒な目が大きくなっていく。
恨みの波動が、アヌビスの心に吹きわたった。とてつもない風を全身に浴び、吹き飛ばされそうになる。飛ばされぬよう、力を入れて踏ん張った。
そして、恨みの波動の中、アヌビスは堂々と胸を張った。
「だけど、気付いたんだ」
「え?」
十歳のアヌビスは闇の波動を弱めた。
「俺は、お前のことが好きだってこと、いま、ようやく、気付いたんだ」真っ直ぐな目で、もう一人の自分に言った。
「嘘だ、試験のために懐柔しようとしているだけだ!!」
全身から闇を吹き出し、幼きアヌビスは猛った。恨みの波動が、さらに勢いを増し、吹き付ける。
「そう思われても仕方ない。だけど、十歳のお前を見て、本当にかわいいと思った。嘘じゃない。十歳のお前を、本当の弟のように感じた。自分をそんな風に思えたのは初めてなんだ」
風が、弱まった。
「だからかな、お前が自分に生きる価値なんてないって言ってるのを聞いて、悲しかった。そんなこと言うなよって思った。慰めてやりたいし、元気付けてやりたいって本気で思ったんだ」
「信じられない、そんなまさか、嘘だ」
もう一人のアヌビスは、全身をよじらせて、悶え、苦しんでいる。
「お前は俺なんだろう? 嘘か本当か、わかるはずだ」
「ぐ……!!」
「俺は俺に元気でいてほしい。俺は俺に自分のこと好きでいてほしい。俺は俺に生きる価値があると思って欲しい。こんな簡単なこと、なんで今まで気づかなかったんだろう」
「うううう、うううう……!」
十歳の少年が、苦悶の表情を浮かべている。それはある意味で受け入れたくない言葉だった。
それも無理はない。長年信じていたことが覆されてしまうからだ。変化は誰にとっても恐怖そのものだ。
しかし、怖いからといって避けていてはなにも為し得ない、といまのアヌビスは思えた。
変化を受け入れる強さを、いまは持ち合わせていた。
「こうなってみてはじめて、俺は自分のことを外側から見ることが出来たよ。お前が自分を責めているのを見て、こんなに胸が痛むなんて知らなかったんだ。俺、これからはお前のことを大事にするよ。お前が寂しい時、不安な時、俺がお前を助けるよ。だから、弱い自分には価値がないなんて言うな。そんなことを言ったら、俺が悲しむ」
アヌビスは幼い自分を抱き締めた。
少年は、ついにこらえきれず、泣き出した。
「いままで、いままで、ずっと、ずっと、寂しかった……!」
「わかるよ、俺もだった」アヌビスの声は温かい。
「家族もいなくて、友達もいなくて、ずっと、ずっと、ひとりだった……!」
「辛かったよな」
「バッカ野郎、ほんとおっせえよ……」
幼きアヌビスは鼻水を垂らしながらアヌビスの胸を叩く。
しかしそれは非常に弱いもので、許しの意味合いもあった。
アヌビスは照れくさそうに笑った。
「馬鹿だから、死んで生まれ変わるまでわかんなかったんだよ、俺」
「ほんと馬鹿だな」と十歳のアヌビスは笑った。
「ああ、馬鹿だ。でもおかげで自分のことが大好きだって気付けた。なんの力がなくても、ただただ生きてるだけでいいって、本気でそう思えたんだ」
「本当?」
幼きアヌビスが今のアヌビスを見上げている。なんと可愛らしい目だろう、とアヌビスは微笑んだ。
「ああ、本当だ。もう大丈夫だ。俺には俺がついている。もう二度とお前の悲しむことを、俺は言わない」
「わかった、信じるよ――」
そのとき、アヌビスの水晶が光を放った。
アヌビスはそのまぶしさに、目を開けた。
(つづく)




