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本当は、将太に言ったほど自信があるわけではなかった。だが、早速とばかりに朋生の家に走って行った将太が、帰ってきた時には見違えるほど明るい表情になっているところを見ると、やはりそうだったのだなとほっとした。
実は、朋生の母である吉村香澄から聞いていたのだ。朋生も只今反抗期真っ盛りで、特に父親に対する態度は目を覆うものがある、と。
とはいうものの、小学二年生の反抗期など、まだまだ可愛いものなのだろう。これが中学、高校と成長していくとどうなるのか。考えるのも恐ろしい、というのが蕗子と香澄の共通した見解だった。
そもそも子供というものは、同性の親に対して厳しくなる傾向がある。だから、将太が浩司に対して敵愾心のようなものを燃やすのは自然なことなのだ。いや、それとも、父に追いつき、追い越そうとする成長過程の一環か。
などと知識では知っていても。いざそうなると、やはり心が痛むものだ。特に将太と浩司は、いわゆる『なさぬ仲』なのだから。
それでも。いや、だからこそ、それをみんなで乗り越えていかなければならない。将太を信じて、喧嘩をしながらでも本物の親子になっていくしかないのだ。
朋生とどんな会話を交わしたのかを、将太は話そうとはしなかった。だが、それでいい、と蕗子は思っていた。何でもかんでも親に話してしまうなんて、それこそ不自然なことだから。子供には子供だけの秘密があっていい。それが危険なことなら絶対に許しはしないが。
それぞれの思いを胸に秘めて、二人はにっこりと微笑み合った。蕗子は満面の笑みで、将太は少しばかり恥ずかしげに。小さな垣根だけれど、一つ飛び越えたのではないかと蕗子には思えた午後だった。
その後、蕗子は浩司と二人で書斎にこもり、先ほどの将太とのやり取りを残らず話して聞かせた。すると、やはり彼も複雑な表情になった。
それでもいくらかは安堵したのだと思う。顔に落ちていた影が薄れ、ほんのちょっぴりだが、表情に余裕がうかがえるようになったから。
二人は軽いキスを交わし、微笑み合ってから書斎のドアを開けた。
途端にびっくりして立ち止まる。ドアの外に、まさに今ノックをするぞといった態の将太が立っていたのだ。
ドアノブに手をかけた浩司と、ノックするために手を上げた将太。二人はしばらくそのままの体勢で固まっていた。
が、それはほんの一瞬のことだった。ふっと緊張をほどいた浩司が、ゆっくりと将太の前に片膝をついてかがみこんだのだ。
二人の顔が接近して、将太はうろたえたような表情を見せた。いつもは見上げている浩司の顔を見下ろす形になって、びっくりしているのだろう。
「将太」
柔らかな声で浩司が呼びかける。将太はおずおずと浩司に視線を向けた。
「昨日はぶったりしてすまなかった。すぐに謝れば良かったんだが……。あんな時、何と言えばいいのかわからなかった。上手く答えられなくて、つい手を上げてしまったんだ。本当に悪かった。許してくれ」
将太はぶんぶんと頭を振った。
「ぼくも……ぼくもごめんなさい。あのね、あの……」
すがるような眼差しを浩司に向ける。こんなことは久しぶりだった。
「うそつきだなんて言ったけど、本当にそんな風に思ってるわけじゃないからね。最初はすごく怒ったけど……本気じゃないんだ。ほんとだよ」
最初は驚いていた浩司も、やがてふわりと微笑んだ。すずに見せたような、深く温かい微笑みだった。
「ああ、わかってる」
「ここに来たのも、あやまろうと思ったからなんだ。ぼくが先にあやまろうと……」
必死の形相で言い募る将太の言葉を遮るように、浩司は将太を抱き締めた。将太がびくりと体を強張らせる。
「わかった、わかったよ。……ありがとう、将太」
深みのある声を間近で聞いて初めて、将太は体から力を抜いた。それでもまだ離そうとはしない浩司の背中に、おずおずと小さな手を回す。浩司は更に力をこめて将太の体を引き寄せた。
この単純な触れ合いに、どれほどの想いが込められているか。そう考えて、蕗子は密かに涙ぐんだ。
今、二人の間に言葉らしい言葉は何もない。けれど、互いの態度がそれ以上に雄弁に物語っているはずだ。蕗子に聞かされたことは本当だったのだと。互いに愛し、愛されているのだと。黙ったままじっと抱き合っている二人の姿を見て、蕗子はそう確信した。
その夜のディナーは、蕗子が思い描いていた通り、いや、それ以上に明るく楽しい集いとなった。
ダイニングルームの巨大なテーブルには、真っ白なクロス。その上に並ぶのは、もちろんクリスマスらしいパーティー料理だ。部屋は子供たちや使用人たちによって飾り付けられ、大きく開け放たれた居間へのドアからは四メートルほどもあるクリスマス・ツリーがのぞいている。毎年恒例の、だが今年はどこか特別なクリスマスの風景だ。
テーブルに居並ぶのが家族だけではないというのも、例年通り。津本、キミ夫妻、通いで来ている家政婦たちとその家族、そしてもちろん庭師の吉村一家。蕗子と浩司が結婚してから毎年続いている、賑やかな集まりだ。
蛇足ながら付け加えると、セキュリティ・センターに詰めている警備員たちには、別口で用意した料理を届けてある。職務規定上、残念ながら彼らをこの場に呼ぶことはできないが、休憩時間ぐらいは楽しんでもらいたいとの蕗子の心づくしなのだ。
やがてパーティー会場では、シャンパンやワイン、子供たちにはジュースがふるまわれ始めた。全員がグラスを持ったのを確認してから、浩司が張りのある声をあげる。
「それでは、そろそろ始めましょう」
ざわめいていた室内が、一瞬にして静まり返った。浩司は再び口を開いた。
「こんばんは、皆さん。今年もこうして賑やかなクリスマスを迎えられたことを、心から嬉しく思います。今夜はどうぞ遠慮なく、食べて、飲んで、楽しい時を過ごしてください。我々家族がいつも健康に、そして安全に過ごせるよう、心を砕いてくださる皆さんに感謝を込めて。メリー・クリスマス」
浩司がグラスを軽く上げると、テーブルのあちこちからメリー・クリスマスと言う声があがった。グラスの澄んだ音があちこちで鳴り響き、パーティの開始となる。
食事はバイキング形式で、メインのテーブルには数々の料理が、そしてその周りには小ぶりな丸テーブルが一家族に一つの割合で置かれていた。好きなものをメインテーブルから皿に取り分けて、それぞれの席で座って食べるという、肩肘張らない形式だ。
たくさんの人々と共に、キミたちが腕をふるったご馳走を食べたり、子供たちが仲良く遊ぶのを見守ったり。蕗子自身も、そしてゲストたちも、この時ばかりは無礼講で共に楽しい時間を過ごす。
パーティーも数回目ともなれば、多少の余裕が出てくるものだ。蕗子は従業員やその家族たちと少しずつではあるが会話を交わして親睦を深めたり、その合間にテーブルをチェックして料理を出すタイミングを指示したりと、忙しく、だが優雅に立ち働いた。
時間にすれば、ほんの二、三時間のことだと思う。だが、食事が終わって居間に場所を移す頃には、さすがに軽い疲労感を覚えていた。全員にコーヒーや紅茶、ジュースなどが行き渡ったことを確認してから、ゆっくりとソファに座る。
厨房から出てきたキミの夫、関本と談笑していた浩司が、そんな蕗子の様子に目ざとく気付いた。関本に一言断って、蕗子の元に急ぐ。
「大丈夫か?」
不意に声をかけられて、蕗子は閉じていた瞼を上げた。心配そうな夫の顔に微笑みかける。
「ええ、ちょっと気が抜けちゃっただけ」
浩司は無言のまま蕗子の隣に腰掛け、彼女の背中に腕を回すと、しっかりとその腰を支えた。
「先に部屋に戻ってもいいんだよ」
蕗子の耳元で、優しく提案する。だが、蕗子はかぶりを振った。
「とても楽しいの。だから」
心配そうな浩司にそれだけ告げると、蕗子は穏やかな微笑みを浮かべて目の前で楽しそうに談笑する人々の様子を眺めた。
「疲れすぎないように気をつけて」
夫の警告の言葉に頷きながら、甘えるように体重を預ける。浩司は諦めたように口をつぐんだ。
やがて義母が疲労を理由に部屋に引き上げると、それを合図にしたかのように暇を告げる客が続いた。
それから小一時間後。部屋に残っている大人は、吉村夫妻と津本、そして蕗子と浩司だけになっていた。
津本は子供たちとカードゲームに興じ、そんな彼らを吉村夫妻が笑いながら見守っている ――― そんな平和な光景を、蕗子は浩司と共にソファに座って眺めていた。
不意に眠気が襲ってきて、蕗子は口元に手を当てて欠伸をかみ殺した。
「眠そうだな」
そのことに気付いた浩司が、からかうように囁きかけてくる。蕗子は小さく微笑んで夫の顔を見上げた。
「少しだけ」
微笑みながら答える蕗子の膨らんだお腹を背後から回した手でそっと撫でながら、浩司は蕗子の額にキスを置いた。
「そろそろ全員追い出して子供たちを寝かしつけようか」
いたずらっぽい口調でそんなことを言う。蕗子はくすくす笑いながら浩司の顔を押しやった。
「あんなに楽しんでいるのに、可哀相よ。もう少し待ってあげましょう。せっかくのクリスマスなんだから」
浩司の顔に残念そうな表情がよぎったが、やがて彼は大きく口元をほころばせながら蕗子の唇にキスをした。
「そんなきみが好きだよ」
などという甘い言葉を囁きながら。
だが、しばらくすると吉村夫妻の方から暇を告げにやって来た。翌日から帰省する予定だから、あまり長居はできないという。朋生はしばらくぐずぐず言っていたが、やはり親の故郷に帰るのは楽しみなのだろう。最後にはあっけないくらいあっさりと将太に別れを告げ、両親と共に帰っていった。
けだるい体をゆっくりと起こす蕗子を手助けしている浩司の元に、今度は津本がやって来た。
「すず様を寝かしつけさせていただいてもよろしいでしょうか?」
そんな風に訊かれて、夫婦は顔を見合わせた。
「僕たちは構わないが、すずが―――」
その時、答えかける浩司の声を掻き消すように、すずの元気な声が響いた。
「しょうちゃん、早く!」
一瞬、その場が凍りついた。
「……しょうちゃん?」
浩司が津本を冷たく見据えながらつぶやく。津本はひょいと肩をすくめた。
「何度もお諌めしたのですが、どうしても苗字で呼ぶのはいやだとおっしゃいまして」
「なぜだ? 今までずっと『津本おじちゃん』だったじゃないか」
一言話すごとに浩司の声が冷たくなるのも構わず、津本はひょうひょうと笑った。
「一緒に遊んだら、もう友達なのだそうです。今までは一緒に遊んだことがなかったので」
「そんな言い訳が通るとでも思っているのか」
言われて、津本はもう一度肩をすくめた。
「申し訳ありません」
「浩司さんったら、そんな」
大人げない、と続けようとした蕗子の台詞は、だが、幼い声に押しとどめられてしまった。
「んもう、しょうちゃんったら、いつまでレディをまたせるつもり?」
割り込んできたのは、もちろんすずだ。両手を腰に置いて、津本と父親を交互に見上げている。
「すず」
父親に怖い顔で睨まれても、すずは怯まなかった。
「なあに、パパ」
天使のような笑顔でそう答える。途端に浩司の相好が崩れた。が、はっとしたようにまた厳しい表情を作り直す。
「津本のことをそんな風に呼んではいけないよ」
「どうして? すず、しょうちゃんとお友達になったの」
浩司は床に片膝をついて、すずと視線を合わせた。
「あのな、すず。津本は友達じゃないんだ。パパの……仕事仲間なんだ。だから、そんな風に呼ぶのはおかしいんだよ」
さすがに、部下と呼ぶのはためらわれたらしい。困り果てた様子の浩司が可笑しくて、蕗子は必死で笑いをかみ殺さなければならなかった。
「しごとなかまって、なぁに?」
「お仕事を一緒にする仲間ということだよ」
天真爛漫なすずに、真面目に返す浩司。だが。
「仲間って、お友達のことよね? パパのお友達なら、すずがお友達になってもいいでしょう?」
すずの方が一枚上手だった。
たまらなくなって、蕗子はついに噴き出してしまった。責めるように見上げてくる浩司に、笑いながら告げる。
「あなたの負けよ、観念なさい。すず、津本さんと一緒でいいのね? きちんと寝られるのね?」
途端に、すずの顔に笑顔がはじける。
「はい、ママ」
「わかったわ」
津本に向き直って、
「じゃあ、津本さん、お願いします。もうお風呂には入れてあるから、パジャマに着替えさせていただけるかしら? パジャマがある場所はすずがわかってると思いますから」
「ちょっと待て。嫁入り前の娘の……」
的外れな抗議はすっぱりと黙殺して。津本はにこりと微笑んだ。
「かしこまりました。では、すず様が眠られたのを見届けたら、私も部屋に下がらせていただきます」
「ええ、それで結構よ。おやすみなさい」
深く一礼し、すずと手をつないで部屋を出て行く津本。そんな彼の背中を、浩司だけでなく将太も不満そうに見守っていた。浩司と同じような表情で。
もっとも将太の場合は、すずを津本に取られたのが面白くないという気持ちもあるだろうが、それよりも、津本をすずに取られたのが面白くないという気持ちの方が大きそうで。そのことも何だか可笑しくて、蕗子の笑いはしばらく収まらなかった。
蕗子と浩司におやすみと告げたあと、将太も自室に戻ってきた。
引き出しからパジャマを取り出して着替えながら、なんだかいろんなことがあった三日間だった、と考える。
それでも、気分は清々しかった。もやもやしていた昨夜とは大違いだ。将太は部屋の電気を消してベッドにもぐりこむと、深々としたため息をついた。
今日は楽しかったなあ。
しばらくは興奮して寝付けなかったが、やがて瞼が重くなってくる。目を閉じる前に時計を見ると、もうそろそろ日付が変わろうとする時刻だった。
そうして、うとうととし始めた頃。ふと何かの気配を感じて、将太ははっと目を覚ました。
ベッドの中でじっとしたまま、何だろう、と考える。何の気配かわからず、心臓がドキドキした。
その時ふと、部屋の天窓に何か白いものが映った気がした。天井に作りつけられた、丸い窓。普段は空しか映さないそこに、見慣れないものが見える。将太はむくりと起き上がった。
「……雪?」
ちらちらと降る白い物体の心当たりといえば、それしかなかった。将太はベッドから飛び降りると、静かに、だが急いで窓に走り寄った。
が、窓から見た外の風景には何ら変わるところがない。将太は、気のせいだったのかな、と思って肩を落とした。
その時だ。
一つの小さなものがきらきらと上から降ってきて、将太は目を見開いた。
時には白く、時には赤く、時には黄色や緑の光を放ちながら素早く下に落ちていく、謎の物体。雪なんかじゃない、正体不明の光の粒だ。
「何だ、これ」
呆然と、将太はつぶやいた。
一つだった光の粒が、二つになり、三つになり。見る見るうちにものすごい数になってくる。あっという間にシャワーのように降り注ぎ始めたそれを、将太はただ呆然と眺めるしかなかった。
「ふ、ふきちゃん」
何か恐ろしいものを見てしまったのかと思った将太がそうつぶやいた時、光のシャワーの勢いが徐々に弱まり始めた。
いや、そうではない。移動しているのだ。脇坂家から、他所に。
「何だよ、何なんだよ、これ」
震える声でそうつぶやいた将太の目に映ったもの。それは。
まん丸より少し欠けるくらいの月が煌々と照らしだす夜空を翔ける、小さな影だった。ものすごいスピードで移動しているその影が、将太が先ほど見た光のシャワーを惜しげもなく地上に注いでいるのだ。
目の前で一体何が起こっているのか、将太には全く理解できなかった。
影はあっという間に朋生の家にたどり着き、ほんの少しその上空に留まって光のシャワーを投げかけた後、またしても移動を始めた。そして、その次の瞬間には将太の視界から姿を消してしまった。
将太はしばらくぽかんとしたままその場に立ち尽くしていた。
「……何だったんだろう、今の」
頭の中で何かが引っかかっているのに思い出せない。そんな感じだ。将太はのろのろとベッドに戻り、ゆっくりと布団にもぐりこんだ。
もう一度、天窓を見る。だが、見えるのはいつもと同じ星空だけだ。
……きらきらしてるのが、さっきのとおんなじだ。
そんなことを考えながら、将太はいつまでも星を見続けていた。
そうしていつの間にかまたうつらうつらしていたらしい。浅い眠りの合間に、夢を見た。その夢にある人物が出てきた瞬間、将太はがばりと飛び起きた。
「そうだよ、そうなんだよ! どうして気が付かなかったんだ!」
言うなり、またもやベッドを飛び出す。だが、今度向かったのは、窓ではなくドアだった。ガチャリと乱暴に開けて、バタバタと階段に向かう。が、階下に下りようと足を踏み出したまさにその時、将太の目に驚いたように自分を見つめる両親の姿が映った。
もう真夜中過ぎだというのに、二人はまだ着替えてもいない。ディナーの時の装いのまま、大きな窓辺に寄り添って立っている。将太はその場所から、興奮したままの勢いで二人に訊ねた。
「さっきの、見た!?」
だが、二人はただ驚いたように顔を見合わせただけだ。将太はじれったそうに続けた。
「ほら、光の粒がいっぱい降ってきたじゃないか! あれだよ!」
それでも、二人は怪訝そうな表情を将太に向けるばかり。
「……見てないの?」
心細そうに将太が問うと、困ったような返答が返ってきた。
「ずっとここにいたけど、気付かなかったわ。光の粒って、どんなものなの?」
真面目な顔でそう問われて、将太は口をつぐんだ。
もしかして……ぼくにしか見えてない?
「夢でも見たのか?」
ううん、違う、夢なんかじゃない。あの時の窓の冷たさを憶えているもの。
「……大丈夫?」
心配そうに、蕗子が訊ねる。将太はぼんやりとしたままこくんと頷いた。
「怖い思いをしたのか?」
浩司も心配そうな表情だ。なんだか急に恥ずかしくなって、将太はもじもじとうつむいた。
二人が再び顔を見合わせて、不安そうな視線を投げかけてくる。せっかく仲直りしたのにまた喧嘩になるのではと考えて、将太は慌てて口を開いた。
「あの!」
だが、その先が続かない。言いたくないのではなくて、なんと言えばいいのかわからないのだ。自分が見たものを見ていないと言う二人には。
「どうした? とにかくこちらにおいで」
上手く言葉を選べないでいる将太の気持ちを酌んで、浩司が鷹揚に微笑みながらそう告げる。そのことに勇気づけられて、将太は恥ずかしそうに微笑んだ。
「あのね、あの……。もしサンタさんが本当にいるとしたら、何を運んでくれると思う?」
唐突過ぎる質問に二人がまた顔を見合わせるのを見て、将太は続けた。
「プ、プレゼントを運んでくれるサンタさんなんていないってわかってるよ! そうじゃないんだ。そうじゃなくて……」
気持ちははっきりしているのに、どう表現すればいいのかわからない。将太はじれったそうに唇を噛んだ。
「……幸せ」
気まずい沈黙が流れ始めた空間に、静かな声が響いた。はっとしたように顔を上げた将太を、浩司が静かな眼差しで見つめている。
「もし本当にサンタクロースがこの世にいるのなら。そして、クリスマスに何かを配ってくれているというのなら。それは……幸せなんじゃないかな。いや、幸せそのものというより、幸せの種、かもしれない。それを育てるか枯らしてしまうかは本人次第だが」
言いながら、浩司は自分の横に立っている妻の腰に片手を回して、そっと抱き寄せた。
「長い時間がかかったが、僕はやっとそれを育て上げることができた。だから、将太にも、すずにも同じようにそれを育ててもらいたい。大きな幸せを掴んでもらいたい」
将太の目の前で、浩司は妻の顔に唇を寄せた。恥ずかしがる妻の心情を酌んで、ほんの一瞬ではあったが。
そう、か。幸せ、か……。
単純に、本当に素直にそう納得できて、将太は頷いた。
そうだよ。あれはきっと幸せのタネだったんだよ。人間が作り上げたサンタさんはいないかもしれない、でもそういう風な存在はいるんだよ。でなきゃさっきのことの説明がつかないじゃないか!
「将太?」
蕗子が心配そうに声をかける。将太は顔を上げて義理の両親の顔をまっすぐに見下ろすと、えへへ、と声に出して笑った。
「うん、わかったよ」
いつもならそこで終わるはずだった。だが今はどうしてももう一言付け加えたくて、将太はためらいがちに口を開いた。
「お父さん」
浩司が目を見開いた。小さな声だったが、きちんと届いたようだ。将太は恥ずかしそうに目をつむると、
「おやすみなさい、お母さん!」
と叫ぶように言ってから、自室に駆け戻った。
バタン! とドアを閉める。
心の底から恥ずかしかったが、やり遂げたという達成感もあった。将太はそそくさとベッドにもぐりこむと、興奮した眼差しを天窓に向けた。
明日になったら、朋くんの家に行こう。みんなが出かけちゃう前に。そして言うんだ。サンタクロースは本当にいたんだよって。きみの家にも幸せのタネを届けて行ったよって。これはクラスの他のヤツらにはもちろんナイショさ。どうせ信じやしないんだから。僕と朋くんだけの秘密だ。……すずと津本にだけは言ってもいいけど。
そんなことを考えながら、将太は眠りに落ちていった。今度は夢も見ずにぐっすりと。
その頃、居間では。
浩司と蕗子がぽかんとしたままその場に立ち尽くしていた。
「……お父さん、って呼んだよな」
浩司が呆然としたままつぶやく。蕗子はこくりと頷き、
「お母さんって、言ってくれてたわよね……?」
と心もとなげに問い返した。
二人は顔を見合わせて夢ではないことを確かめた後、どちらからともなく抱き合った。
「急に、どうしたんだろうな」
そう囁く浩司の声が震えている。蕗子も同じ心境だった。
「わからない。でも、あの子が自分からそう呼んでくれたのよ」
「ああ」
しばらくそうした後、二人はようやく落ち着いてまた窓に向き直った。あれこれと静かに語り合っていた先ほどの続きのように。
だが、しばらくはまだ言葉が出てこない。蕗子は背後にたたずむ夫にもたれかかり、浩司は自分の胸の中にすっぽりとおさまっている妻を大事そうにくるみこみ。二人はそれぞれの想いをそれぞれに追っていた。
「サンタクロースは、本当にいるのかもしれないな」
突然、ぽつりと浩司がつぶやいた。
「え?」
見上げた蕗子の唇を、浩司のそれが覆う。二人は長い時間をかけて相手の唇を慈しんだ。
「……幸せかい?」
柔和な瞳で問いかけられて、蕗子は口元をほころばせた。
「訊かなくてもわかっているでしょう?」
そうして二人は、互いの幸せを確認するために寝室に向かって歩き出した。
おしまい。
読んでくださって、ありがとうございました!