下
「センパーイ! 待ってくださいよ! そんな……速いです!」
城の中はヒドイ有様だった。
さすがに、壁や天井が崩れるまでには至っていないものの、元は内部の飾りであっただろうシロモノが――くまのヌイグルミや、割れたランプや、砕けた飾り皿が――散乱しまくっている。
暗闇の中で、そんなあれこれを踏まないように気をつけながら歩を進めるのだが、センパイは何故かさして苦もなくいってしまうのだ。
月光も屋内には届かないというのに――まるで、何もかも見えているかのように。
「鼎、こっちだ」
先の方で、白衣の影が、ちらりと振り返るように揺れた。
すぐに突き当りを曲がってしまったセンパイを追って、私も壁伝いに先を目指す。
センパイと同じように角を曲がれば、そこから先はますます闇が深まっているように見えた。
まさか彼女は、ここを奥へと進んだのだろうか。
「……センパイ?」
心細くなって呼びかければ、答えは思ったよりも近くからあった。
「何だ?」
「ひやぁ!? 何だ、そこにいたんですか!? もう、驚かせないでくださいよ!」
数歩先のセンパイの姿が見えないのは、光がほとんどささない場所だからだ。
闇に浮かぶはずの白さえ飲み込むような深い闇。
ごくりとつばを飲み込むと、向こうから細い指先が伸びてきて、私の手を取った。
「セ、センパイ……!」
なんて大胆な――なんて戯言を吐く気力も失われていた。
黙って手を繋ぐと、苦笑する気配が先から伝わってくる。
「この先は階段になっているぞ。私は夜目がきく方なのだ。どうやら……地下室がある、という噂は本当だったようだな。ほら、足元に気を付けて。ゆっくり進むぞ」
「センパイ……もう、これ……」
帰りましょうよ、という言葉はギリギリで飲み込んだ。
センパイが口に出さないのに、私から言い出すなんてあまりにも失礼だ。
喉元までこみ上げる言葉を胸に押し込めながら、足先で階段を確かめてゆっくりと降りた。
「……地下だ」
どこか喜びを感じさせる、センパイの声が響いた。
周囲をレンガで囲まれた地下室は、異様なほどに音が響く。
すぐそばから聞こえているはずなのに、声はどこか遠くから聞こえているようでもあった。
「見ろ、鼎。扉があるぞ」
「センパイ……」
見えません、とは言えなかった。
センパイに手を引かれて辿り着いた先、誘われて手を伸ばせば、確かにそこに木目の感触がある。
「開けるぞ」
ゆっくりと向こう側へ開いていく扉を追って、部屋の中へ踏み込む。
「うわっ……!?」
突然、溢れるような明かりが目にさしこんできた。
真っ暗闇からの落差で、思わず目を閉じる。
落ち着いてもう一度目を開ければ、部屋の奥には小さなランプが灯っていた。
「あれ……? ランプなんて……何で?」
「光がないと、見えないだろう? 折角ここまで連れてきたのに、わたしが見るだけじゃつまらない。君にもわたしを見てもらわなけりゃ……寂しいじゃないか」
ぱたん、と背中で扉の閉まる音がした。
振り向けば、扉を背にしたセンパイが微笑んでいる。
「センパイ……」
「本当はね、わたしは知ってるんだ。ここは拷問室なんかじゃない、ただの倉庫だったのだよ。なのに何でそんな噂が立ったんだろう……何でだと思う?」
白衣を翻しながら、センパイは片手を部屋の奥へと示す。
「倉庫と言っても、ここが私だけの城になってから、この部屋は寝室とすることにしたんだ。だから、この部屋にあるのは寝台と、その――そう、見てくれよ。君も文学サークルの人間なら分かるだろう? 中世ヨーロッパの拷問器具として名高いかの鉄の処女――」
センパイの指す方へと、私は近寄ってみる。
麗しき女性の姿をかたどる鋼鉄の像が、そこにあった。
胴体は縦中央で分割され、レディの両手は左右へと開くための取っ手になっている。
魅入られたようにその両手を取り、引くと、中は空洞になっていた。
周囲から内側へ向けて突き出した棘の長さは、明らかに人の身体を刺し貫いてあまり有る。
棘の一本をそっとなぞれば、赤茶けた汚れが指先にこびりついた。
まるでついさっき、センパイの白衣についた鉄錆みたいな色。
鉄錆かも知れない。だってこの棘もきっと鉄で出来ているんだもの。
だけど……さっきとは、どこか違う色に見える。
「……まさか、センパイ。私をここに突っ込む気じゃないですよね?」
声の震えを必死で抑え、冗談めいて口に出した。
もしかしたら、まだ――否定の答えが返ってくるんじゃないかと。
視界の端、部屋の隅に、黒く艶めいた細長い箱状の家具が見える。
この部屋にあるのは、それだけだ。
立ち尽くす鉄の処女。そして、それと同じくらいの――つまり、人1人が寝そべって入れるくらいの大きさの――それは。
そういう形状のそれを寝台と呼ぶなら、それは。
「馬鹿なことを言うな。そんな勿体無い殺し方はせぬよ」
足音もなく、一呼吸で真後ろに近寄った白衣の影が、私の背中へそっと身を寄せてきた。
「多分な、閉園前にそういう企画があったのだ。この裏野どりーむらんどには、何故かごーすとはうすがない。建設予定だったのだろう。だから、そこの鉄の処女やわたしの寝台――棺が、この倉庫に運び込まれたのだ」
うなじに、柔らかい感触が当たる。
それが唇だと理解するより先に、後ろから回ってきた両手が、私の腰を抱いた。
まるで――どこへも逃さぬと、宣言するかのように。
「目が覚めてすぐ、どうしようもなく空腹を感じた。仕方あるまい、どうやら400年近く眠っていたらしいのだから。まずはこの空腹を何とかせねばと、目に付いたモノを手当たり次第に寝室へ引きずり込み、一滴残らず絞りきった。現代の言葉で言えば……あれだ、寝酒、というヤツだな」
耳元を掠める湿った吐息が、何故か冷たい。
身体を通じて直接肺に突き込まれるように、センパイの声が淡々と響く。
「周囲の状況も調べずに食餌をするなど、思い返せば、あまりにも無節操だと自分でも恥ずかしくなるよ。だがわたしの生命における存続の危機だったのだ、やむを得ぬ。それが原因で、行方不明者が出るだの、事故が起こっただの、謎の生き物を見かけただの……噂が立てば、人が来なくなるなどとは知らなかったのだ。暴食という罪の招いた罰だな……」
白衣の袖から覗く指先が、身体の中心に沿って徐々に上がってくる。
腹から胸の中心を通り、そして喉へ。
皮膚の柔らかい場所に尖った爪をあてられて、思わず唾を飲み込んだ。
「あとらくしょんが動いていた頃は楽しかった。少し腹に余裕が出来てからは、観覧車に閉じ込めて、てっぺんから夜景を見ながら食餌をしたこともあった。一度、みらーはうすで食餌をしたときは、自分は下僕を作れるのだ、ということを思い出してな。やってはみたが、どうも今一つだな。どうやら親しい人間から見れば、人が変わったように見えるらしい。さして気に入っていた訳でもないから、そうそうに放り出してしまった。今は、どこでどうしているやら」
喉元を握り込むように、両手が回ってくる。
まるで林檎に齧り付くときのように、動かないように、しっかりと。
「動いているめりーごーらうんどの上で追いかけっこをしたことがあるか? 逆周りに走ると、まるで自分の足がはやくなったように感じるらしい。まあ、多少早くなったところで、所詮は人間の足――このわたしが追いつけないなどということはない」
うなじにあたっていた唇が三日月のように吊り上げられるのを――その感触だけで理解した。
振り向きもしないわたしの、首に当たる尖った感触が、2つ。
「安心せよ、鼎。空腹は既に癒えた。今のわたしに必要なのは、永劫の時を潰すための遊具なのだ。わたしは君のことを気に入った。どりーむらんどが閉園した後、餌を探してきゃんぱすに迷い込んだわたしを、優しく受け入れてくれたのは君だけだった。最初に声をかけてくれた君の笑顔を、ずっとわたしだけのものにしたかった――」
心のこもったその告白に、答えることは出来なかった。
つぷり、と牙が刺し込まれ、下腹から奇妙な快感が広がっていく。
およそ人間が感じ得るとは思えないような、その恐ろしい快楽の中では、口を開くことすら出来なかった。
冷や汗で張り付いたチュールの下に、細い指先が押し入ってくる。
その優しい手と唇で歓びの波に弄ばれた私の心は震え――そして、思わず笑みを零した。
――ありがとう、センパイ。
やっぱりあなたは、私の見込んだ通りのヒトだったよ。
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どうやらセンパイは、準備中のアトラクションの飾りの1つとして、自分がここに運び込まれたと思っているらしい。
いや、まあそれでも良いんだけど。
むしろ、センパイにしては良くお勉強したなぁなんて思っちゃうけれど。
でもほら、それじゃ疑問が1つ残ってしまう。
――誰が、センパイを起こしたのか。
400年も眠り続けていたという美しきヴァンパイアが、何故目覚めることになったのか。
簡単なことだ。起こしたヒトがいるんですよ。
何故そう明言出来るかって言えば……まあ、おおよそご理解頂けると思うけれど。
――はい、告白します。
起こしたのは私です。
いやそもそもさ、中身入りの棺なんてアトラクションには使えないよ? 当たり前でしょ? いくら間抜けなニンゲンでも棺の中くらいはチェックするでしょ。
同じく、そんな本当に殺傷能力があるような拷問器具だって、お化け屋敷の置物には使えないよ。
だって、遊園地なんて子どもが一番出入りするとこじゃない。何かあったらどうすんの?
これだから、時代ボケした同族は考えが甘い。
後生おそるべし、って言葉もあるでしょ。
地域と時代に根付いた叩き上げに、エリートは弱いものなのだ。
……はい、もいっこ告白します。
つまりほら、同族ってね……そゆこと。そういう意味でも、センパイは先輩なんだよね。
私なんか、たかだか100年くらいしか生きてないもんなぁ。
ということで、本当はセンパイはこんなまだるっこしいことしなくても、私と2人、永遠の蜜月を過ごすことが出来るのだ。いぇーい。
でもほら、あれなんですよ。
吸血鬼ってさ、狩人だから。獲物を追っかけるのが一番楽しいの。
獲物じゃないって分かったら、あっという間に興味なくなっちゃうんだよなぁ。難しい。
私が大学を根城にしてるのも、そういうこと。
大学ってスゴイよ。あの文学サークル員、あれ、全部私の下僕。
眼鏡部長がセンパイに冷たいの当たり前だよ、ってか、温かい対応とか出来ないの。そういう細かい対応できるような状態じゃないから。
センパイが言ってたように、皆、人が変わってるみたくなってるはずなんだけど、誰も気付かないんだよなぁ。皆、地方から出てきて1人暮らししてた子ばっかりだからねぇ。
ああ、コワイコワイ。
何がコワイってさ……同族とも気付かずに、美味しそうに私の血液にむしゃぶりついてるセンパイはこれで幸せなのかも知れないけど。
問題は、私の方で。
見事センパイを罠にかけて手に入れたのは良いんだけど。
狩人たる私が、いつまでこの狭い寝室で2人きりなんて暇過ぎる状態にガマン出来るかって言うと……そうはもたないような気もしなくはなくはなくはないかも――。
――ああ、まあ良いか。
だってほら、不幸には自分から足を突っ込むもの。
可哀想に、大きく開いた私の腕の中に、知らずに飛び込んできちゃったセンパイが全部悪いのよ。