一万七回目の、完璧な、生。――私は、笑いながら、設計図の、最後の一行を、書いた
泉のほとりに、二人だけが、残っていた。
三つ目の縁を見送った場所は、欠けた形を取らず、二人ぶんの広さのまま、静かに、開いていた。
泉のほとりに、二人だけが、残っていた。
三つ目の縁を見送った場所は、欠けた形を、取らなかった。二人ぶんの広さのまま、泉の縁の、薄い草の上に、静かに、開いていた。
明けきった青さは、見送りのあとも、同じ深さで、続いていた。
沈黙が、二人ぶんの幅で、あった。計るための沈黙では、もう、なかった。彼が、隣にいる。それだけで、沈黙は、満ちていた。
その青さの中を、風が、吹いた。
水面が、低い波紋を、いくつか、運んだ。草の先が、同じ向きへ、傾いた。傾いた草の音が、初めて、この場所に、立った。
一万世、私は、風を、計る側に、立ってきた。風向きは、戦機の距離を運び、風の冷たさは、季節の深さを運んだ。風は、いつも、読むための値だった。
この風は、温度を、持っていた。
値では、なかった。ただの、温かさだった。陽だまりの内側の空気が、ほどけて流れてきたような、低い温かさが、頬の高さを、通っていった。
魂の場に、風は、なかった。一万世の記憶のどの欄にも、この場所を吹く風は、書かれていなかった。
今、風は、初めて、温度を持って、吹いていた。
温度の出どころを、私は、計らなかった。計らない、という選び方を、私は、もう、持っていた。
風は、二度、吹いた。二度目の風は、泉の水の匂いを、薄く、運んできた。
——次は、最後の一行を、書く番だった。
* * *
設計図は、泉の縁の草の上に、開かれていた。
一万世、設計図は、私ひとりで引くものだった。今、開かれているこの図は、二人の手で、引かれていた。私の引いた行の隣に、彼の引いた行が、並んでいた。彼の行は、私の行より、線が太かった。迷いのない太さでは、なかった。一画ずつ、確かめながら引いた、太さだった。器の取り方。場の繋ぎ方。熾火の、毎瞬の、交わし方。朝ごとに、互いの記憶の側を確かめ合う、短い手順。生きるための行だけが、最初の行から、順に、並んでいた。
そのすべての行の下に、あの答えの一行が、敷かれていた。生かしたい、と、生かされたい。ふたつの動詞の上に、この図の、すべての行は、立っていた。
最後の一行の場所だけが、空いていた。
空けたのは、私たちだった。最後の一行は、最後に書く。そう決めて、指先を、引いた。その手前まで、すべての行は、引き終えられていた。
彼が、私を、見た。
促す視線では、なかった。待つ視線だった。待つことの長さなら、私も、彼も、一万世ぶん、知っていた。
私は、空いた一行の前に、降りた。膝の高さで、草が、揺れた。
一万三回目の世の、写字室の羽ペン。八年、下書きを引き続けた、あの軽さが、手の届く場所に、戻ってきていた。魂は、道具の重さを、覚えている。インクの匂いの記憶まで、指の付け根に、薄く、立った。
答えの一行も、設計図の行も、この場所では、指先が、引いた。ペンを、手に取るのは——この、最後の一行が、初めてだった。
取る前に、ひとつ、解くものが、あった。
最初の二行を受け取った時、私は、泣きも、笑いも、しなかった。笑えるほどの余裕が、なく、泣けるほどの希望が、なかったからだ。以来、一万世。私が、私自身に、課してきた縛り。泣く代わりに、数える。笑う代わりに、測る。涙腺と頬の筋肉に、別の仕事を割り当てて、私は、その配置を、一度も、崩さなかった。崩れれば、定規を持つ手が、震える。震えた手の引く図は、彼を、生かせない。そう、計ってきた。
その配置が、もう、要らなかった。
——涙腺と頬の筋肉を、別の用途に、割り当ててきた、その縛りを、今、解く。
解く、と決めた拍に、大きな何かが、起きたのでは、なかった。ただ、頬の奥の、一万世、締め続けてきた小さな筋が、自分の本来の仕事を、思い出した。
私は、ペンを——戻ってきた、その軽さを、取った。
羽の軽さが、指の中に、納まった。納まった重さは、一万三回目の世の、どの朝とも、同じだった。違っていたのは、持つ手の側だった。
目の縁に、熱が、来た。
頬が、動いた。
私は、笑った。
声が、出た。短い、笑い声だった。
一万世、夢の泉のほとりで、聞き続けてきた、あの笑い声。誰の声なのかを、長いあいだ、私は、特定できずにいた。一万三回目の世の、八年目の冬に、ようやく、私自身の声だと、知った。
今、その声は、夢の側からでは、なく、私の喉から、出ていた。
一万一回目の終わり、王宮の大広間で、刃を受けながら、私は、笑った。一万三回目の終わり、三百の問いを磨いた修道院で、決めていたとおりに、私は、笑った。どちらも、死の際の笑いだった。設計図の、最終工程の笑いだった。完了の、笑いだった。
この笑いは、どの設計図の上にも、なかった。
死の際では、なかった。生の、いちばん手前に、この笑いは、立っていた。回収のための笑いでも、なかった。ただ、彼が、そこにいて、私が、ここにいる。その並びが、温かかった。温かさが、そのまま、声になった。それだけの笑いが、一万世の、どの観測よりも、深く、私の中を、満たしていた。
涙腺も、ほどけていた。目の縁の熱は、零れる手前で、光を、薄く、丸めていた。泣くための熱では、なかった。笑いの側の、熱だった。
彼の目の奥の光が、深くなった。
一万世、器が変わるたび、変わらずに、そこにあった光。その光が、今、私の笑い声を、受け取っていた。
「——一万世、お前のこの笑顔を、待っていた」
彼の声は、低かった。低いまま、最後の音だけが、わずかに、揺れた。一万世、揺れなかった声だった。
一万世、という桁を、彼は、罰の数としてでは、なく、待った長さとして、言った。
待っていた、という動詞の長さを、私は、計らなかった。計らないまま、まっすぐに、受け取った。
受け取った重みは、軽かった。一万世の重みでも、軽くなれるのだと、私は、その拍に、知った。
*
空いた一行の上に、ペンの先を、降ろした。
一万世、設計図の最後の一行は、いつも、死の刻限だった。王宮の刃の角度を引いた図も、修道院の冬の咳の数を引いた図も、踏切の鉄の冷たさを引いた図も、海面下の青さの深さを引いた図も——どの図も、最後は、完璧な死の一行で、閉じてきた。第一万一回目の朝、礼拝堂の冷たい石床の上で引いた、あの図から、ずっと。
この図の最後の一行に、刻限は、要らなかった。
手は、震えなかった。震えの仕事は、答えの一行が、先に、引き受けてくれていた。私は、計らないまま、書いた。
——一万七回目の、完璧な、生。
書き終えた線は、揺れていなかった。一万世の、どの設計図の、どの行よりも、静かな線だった。
彼が、その行を、声に出して、読んだ。低い声が、一語ずつ、置いていった。読み終えた声の終わりが、笑いの形に、緩んでいた。
完璧な死の設計図を、私は、一万世、引いてきた。
完璧な生の設計図が、今、引き終わった。
引き終わったのに、図は、閉じなかった。死の図は、最後の一行で、閉じる。刻限が、図の出口だからだ。生の図は、最後の一行で、開いた。この一行の先を、手順の続きとして、生きる時間そのものが、流れていく。
設計図の意味が、最後の一行の重さの上で、裏返った。
一万世、死を引くための図だったものが、生を引くための図として、泉の縁の草の上に、開いたまま、置かれていた。
置かれたまま、図は、薄くなっていった。消えたのでは、なかった。引き終えた瞬間から、図は、紙の形を、必要としなくなっていた。一万世の帳簿と、同じ場所に——私と彼の魂の、いちばん奥に、図は、立っていた。
* * *
彼が、立った。私も、立った。
設計図の、最初の行が、効き始めていた。器の取り方。新しい時代の、新しい器を、二人で、取りに行く。差配を、待たない。選んで、行く。
行く先を、決めるのは、設計図では、なかった。設計図は、行き方だけを、知っていた。行く、と決めるのは、私たちだった。
「——行こう」
彼の手が、私の手に、重なった。重なった温度は、計らなくても分かる温度だった。
私は、一度だけ、振り返った。
第一万一回目の朝、礼拝堂の扉に手をかけて、私は、同じ動作をした。あのとき、振り返った先の時間は、記録から、落とした。情は、残さなかった。設計図に、感傷は、要らなかったからだ。
今度は、落とさなかった。泉のほとりの、すべての拍を、連れて行く。
泉の水面が、明るくなっていった。夕陽の橙では、なかった。朝の手前の、白に近い明るさだった。水音が、高くなった。湧き口から、新しい水が、上がり始めた音だった。
景色が、光の方へ、ほどけていった。
最後まで、彼の手の温度だけが、残っていた。
*
呼吸が、来た。
最初の息は、深かった。新しい肺が、新しい空気を、最初の一度ぶん、受け取った。空気は、冷たくて、軽くて、知らない匂いを、薄く、含んでいた。知らない匂いを、私は、調べなかった。調べる代わりに、もう一度、吸った。深く。新しい空気が、新しい胸の底まで、届いた。
光が、来た。
閉じた瞼の裏が、明るくなった。朝の光だった。どの時代の、どの朝なのかを、光は、言わなかった。言わないままの明るさが、瞼の上に、温度として、降りていた。
狭間は、通らなかった。刻限も、鳴らなかった。私たちは、選んで、ここに、来た。
目を、開けた。
隣で、彼の呼吸の音が、していた。新しい胸の、新しい拍だった。拍の奥の深さだけが、一万世、変わっていなかった。
左鎖骨の薄荷が、温かかった。刻限の熱では、なかった。識標は、識標のまま、ただの温かさとして、そこに、あった。
彼の左鎖骨にも、同じ形が、あるはずだった。葉脈の一筋まで、同じ形が。確かめるのは、急がなかった。朝は、長い。
一万世、新しい器の最初の朝は、検収から、始まった。指先、足の裏、喉の奥、最後に左鎖骨の薄荷。今朝、私は、その順を、辿らなかった。最初にしたのは、呼吸だった。次にしたのは、彼の呼吸の音を、聞くことだった。
数えなかった。ただ、聞いた。
彼が、先に、口を開いた。
「——今日、覚えているのは、どちらだ」
設計図の、朝ごとの行の、最初の一巡だった。一万世、新しい世の最初の朝は、私だけが知っている朝か、彼だけが知っている朝かの、どちらかだった。覚えている側と、忘れている側は、世によって、入れ替わってきた。
私は、答えた。
「——両方だ」
答えの短さに、彼の息が、笑いの方へ、緩んだ。両方、という答えの返る朝を、この行は、これから、毎朝、確かめていく。
今日の手順を、私は、まだ、引いていなかった。引かれていない一日が、目の前に、広く、開いていた。
私は、声に、出した。
「私たちは、一万世、設計してきた。——次の一万世は、生きるために、設計する」
声は、新しい喉から、出た。観測者語彙の高さでは、なかった。泉のほとりの、若い女の声より、少し、深かった。一万世ぶん、深かった。
「——俺の側も、同じだ」
彼の声が、隣から、来た。新しい声だった。声の芯の低さだけが、一万世、同じだった。
設計してきた、という動詞と、生きる、という動詞が、初めて、同じ行の上に、並んでいた。
朝の光が、深くなっていった。
どこかで、水の流れる音が、していた。新しい水が、新しい場所を、流れ始める音だった。その水の上で、光が跳ねているのが、音の明るさで、分かった。
——朝が、来た。
もう、次の朝を、設計する、必要は、なかった。




