表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
39/40

アズラエルは、結線を、自分の手で、断った。――観測者の任を、降りた

 最後の一行の幅だけを、白く空けたまま、生のための設計図は、泉のほとりの草の上に、置かれていた。

 ――私の側の、未完了は、これで、完了する。アズラエルの宣告は、すでに、青さの中に、あった。

 最後の一行の幅だけを、白く空けたまま、生のための設計図は、泉のほとりの草の上に、置かれていた。


 ——私の側の、未完了は、これで、完了する。


 アズラエルの宣告は、すでに、青さの中に、あった。残っているのは、完了の、かたちだけだった。


 器を、時代ごとに、新しく受け取る線。器と器のあいだも、この泉のほとりで、二人の接続を保ち続ける線。毎瞬の熾火の交換で、互いを生かし続ける線。二人で引いた線が、明けの青さを、薄く、映していた。


 一枚の薄さは、答えの一枚と、同じだった。


 一万世、設計図は、死へ向かって、引かれてきた。この一枚だけが、生へ向かって、引かれていた。


 その一枚の縁に、アズラエルが、立っていた。


 立ち方が、違っていた。


 観測者の揺らぎを、私は、ひとつずつ、覚えていた。最初の揺らぎ。二度目の揺らぎ。ひとつ前の世の終わりで、止まらなくなった震え。葉脈がほどけた朝の、桁に乗らなくなった揺れ。数える、という癖の名残は、今も、私の中に、残っていた。


 今朝、その名残は、数えるものを、持たなかった。


 揺らぎが、なかった。アズラエルの輪郭は、揺らぎを堪えた固定でも、揺らぎの手前の静止でも、なかった。動いていた。水面の方へ、向きを変え、設計図の方へ、視線の高さを、降ろす。その動きの、最初の拍から、最後の拍までが、揃っていた。


 一万世で、初めて見る——安定した、動きだった。


 揺らぎを、超えた者の、動きだった。


   *   *   *


「観測する」


 無機質の拍は、保たれていた。


「——生のための設計図、一稿。線の数、過不足なし。最後の一行、未記入」


 読み上げは、一万世の狭間の宣告と、同じ高さで、進んだ。進んで、止まった。


 止まった拍の、次に——


「——お前たちの設計図は、私の側の答えとして、十分だ」


 十分だ、という語が、草の上の一枚に、降りた。


 最初の生の泉のほとりで、影は、二人に、問いを、預けた。——私の相手が、何故、消えたのか。その答えを、お前たちが、見つけてくれ。


 私たちは、その問いに、答えていなかった。消滅の理由は、一万世かけても、どの帳簿にも、書かれなかった。


 代わりに、草の上に、この一枚が、あった。


 消えた理由では、なく——消えないための、線。


「理由の欄は、空のままだ」


 アズラエルの発話が、続いた。


「——だが、お前たちは、隣の欄を、埋めた。何故、消えたのか、ではなく。どうすれば、消えずに、生き続けられるのか。——答えの形が、問いの形と、同じである必要は、なかった。一万世の観測の、最後の欄に、私は、そう、記録する」


 記録する、という拍は、一万世と、同じだった。同じ拍の底に、これまでのどの記録とも違う、深さが、あった。


 観測される、二つの魂。観測する、ひとつの縁。最初の泉のほとりで決まった三つの役は、ひとつの問いのまわりに、一万世、置かれ続けてきた。


 その三つの役が、この朝、終わろうとしていた。役の終わりは、問いの解けた終わりでは、なかった。問いの置き場所が、欄から、設計図へ、移った終わりだった。


 私の応えが、青さの上に、立ち上がった。


「——あなたの未完了は、私たちの未完了でもあった。——あなたも、解放される番だ」


 解放、という語を、私は、計らないまま、声にした。震えの幅を、桁にしなかった。


 彼の声が、隣で、続いた。


「——あなたが俺たちを観測し続けてくれたから、俺たちは、ここまで、来られた」


 低く、揺れない声だった。


 一万世。刃の世も、踏切の世も、写字室の世も、神殿の世も、草原の世も、海面下の世も——どの終わりにも、あの無機質の拍が、立ち会っていた。刻限を告げ、純度を計り、結線を、次の検収まで、維持し続けた。


 立ち会いだけでは、なかった。草原の世で、私たちを四十年、老いさせた裁量。嵐の世の後の、結線の遅れ。海面の下の、予測の外の、ひと筋。外側の手は、何度か、内側へ、伸びていた。その手が、なければ、両者で記憶を持つ朝は、来なかった。


 一万世の橋は、観測者の拍の上に、架かっていた。


「礼の語彙は、私の帳簿に、ない」


 アズラエルの発話が、来た。


「——ないまま、受け取った。記録ではなく、別の場所に」


 別の場所、という語の出どころを、私は、問わなかった。帳簿の外側を、一万世、抱えてきた私には、その場所の名が、もう、分かっていた。


   *


 アズラエルの輪郭の上を、ひとつの形が、よぎった。


 一瞬、だった。


 無機質の縁の内側から、別の輪郭が、浮かんだ。若い、人の形だった。


 泉の縁の草の上に立つ、若い、ひとりの姿。頬に、夕陽の傾きの色を、受けている。その五本の手の指は、長かった。水面の向こうで消えていくものを、まだ、見ていない——何も、失っていない頃の、顔だった。


 いつかの朝、観測者の身体の奥に、揺らいだ人影が、あった。頬の角度が彼に似て、指の短い——消えた相手の、若い姿だった。


 今、浮かんだのは、その隣に、立っていた方だった。


 かつて、若かった頃の、アズラエル自身の姿だった。


 若い顔の視線が、一度だけ、私と彼の上を、渡った。同じ高さに立つ、二つの魂を、確かめる視線だった。確かめ終わった視線の奥に、夕暮れの色が、残っていた。


 一瞬の後、その形は、無機質の輪郭の内側へ、戻った。戻る動きも、揺らがなかった。隠したのでは、なかった。仕舞ったの、だった。


 一万世、観測者は、自分の最初の生を、誰にも、見せなかった。この朝に、一瞬だけ、見せた。見せて、仕舞った。


「最後に、報告する」


 アズラエルの発話は、報告の拍に、戻っていた。


「——私の相手の、消滅の理由を、私は、まだ、知らない。——だが、私は、答えのないまま、任を、降りる」


 答えのないまま、という語の上に、揺らぎは、なかった。


 一万世、その問いが、アズラエルを、観測者の位置に、立たせてきた。答えが出るまで、降りられない任の、はずだった。


 答えは、出なかった。


 それでも、降りる。空の欄を、空のまま、抱えて。


 ——埋まらない欄を、抱えたまま、歩くことが、できる。


 その歩き方を、アズラエルは、草の上の一枚から、受け取っていた。私たちが、一万世かけて、ようやく引いた線から。


   *   *   *


 アズラエルの視線が、もう一度、草の上の一枚へ、降りた。


 長い視線だった。読む、というより、見送る視線だった。一万世ぶんの、長さだった。


 それから、アズラエルの手が、上がった。


 五本の指が、自分の胸の高さに、触れた。


 そこから、細い一本の線が、私と彼の方へ、伸びていた。結線。一万世、検収から次の検収まで、維持され続けてきた、観測の線。刻限は、この線を渡って、来た。純度の桁は、この線を渡って、返された。狭間の声は、いつも、この線の上に、立っていた。


 切れ、と命じる声は、どこにも、なかった。刻限も、なかった。


 アズラエルは、自分の指で、その線を、断った。


 音は、しなかった。水音だけが、変わらず、立っていた。


 断たれた線の端が、青さの中へ、解けていった。解けた線の名残が、一度だけ、薄く、光った。


「私は、もう、観測者ではない。——一人の、過去の、契約者だ」


 契約者、という名詞が、無機質の拍のまま、置かれた。


 一万世、その名詞は、私のものだった。今、アズラエルは、その名詞の隣に、自分を、並べた。観測する者と、観測される者の、上下は、最初の泉のほとりから、なかった。その対等が、今、名詞の上でも、揃った。


 断たれた線の先で、次の検収の朝が、変わった。新しい器の、最初の朝に、結線の確認の声は、もう、来ない。復唱も、ない。私たちの検収は、私たちだけの手順に、なった。


 熾火の残量を告げる声も、純度を値踏みする声も、同じだった。一万世、私の帳簿の上に立っていた債権者は、もう、いなかった。残ったのは、貸し借りでは、なかった。同じ問いを分け合った、三つの魂の、対等だけだった。


   *


 アズラエルの縁が、薄くなり始めた。


 その薄くなり方を、私は、見たことが、あった。最初の生の泉のほとりで、彼に似た魂が、消えていった——あの薄くなり方とは、違っていた。


 あの消滅には、向きが、なかった。次の朝が、なかった。


 今、薄くなっていく縁には、向きが、あった。


 水面の、向こう側。明けの青さの、いちばん遠い縁に、薄く、橙が、差していた。夕陽の傾きの色。最初の生の、あの夕暮れの色だった。


 アズラエルの縁は、その橙の方へ、向きを、取っていた。


 消えるのでは、なかった。移るの、だった。


 どこへ、とは、誰も、問わなかった。問わないまま、私の魂の奥に、ひとつの景色が、立っていた。夕陽の傾きの中の、泉のほとり。水面の向こう側の縁。一万世より前に、アズラエルが、ただ一度だけ、立っていた場所。


 その場所に、今、何が待つのかは、見えなかった。見えないまま、橙だけが、静かに、差していた。


 私の声が、出た。


「——また、いつか、別の場所で」


 彼の声が、同じ語を、同じ拍で、重ねた。二人ぶんの見送りが、ひとつの語に、なった。


 別の場所、という語に、桁の根拠は、なかった。結線は断たれ、器も、世も、この先は、別々の流れに、入る。それでも、その語は、予測ではなく、約束の高さで、出た。計らないまま出る語を、私は、もう、許していた。


 薄れていく輪郭の、肩の高さが、一度、低く、傾いた。


 頷きの、形だった。


 橙の差す方へ、アズラエルの縁は、薄れていった。最後まで、揺らがなかった。安定した動きのまま、一万世の観測者だったものは、泉のほとりから、退いていった。


 青さの中に、橙の名残が、しばらく、残った。


 やがて、水面の明るさに、混ざった。


   *   *   *


 泉のほとりに、二人だけが、残った。


 一万世、終わりの場面には、いつも、三つ目の拍が、あった。刻限を告げる声。純度を読む声。結線を確認する声。今、その拍は、なかった。


 なくなった場所は、空白には、ならなかった。


 水音が、立っていた。草が、足元で、明けの色を、受けていた。彼の手が、私の手の隣に、あった。左鎖骨の薄荷の痣が、ただの温かさのまま、そこに、あった。


 一万世、私は、終わりの後の静けさを、知っていた。看取りの後の静けさ。回収の後の静けさ。狭間が閉じた後の静けさ。この静けさは、そのどれとも、違っていた。


 終わりの後の静けさでは、なかった。始まりの手前の、静けさだった。


 三つの縁で分け合っていた位置を、二つの縁が、受け継いだ。受け継いだ位置の真ん中に、草の上の一枚が、あった。


 彼が、設計図の方へ、視線を、降ろした。


 最後の一行の幅だけが、白く、残っていた。


 一万世、最後の一行は、いつも、死の刻限だった。設計図の終わりには、いつも、彼の、あるいは私の、最後の呼吸が、書かれていた。


 今、残されている白い幅は、刻限では、なかった。


 約束、だった。


 私と彼は、その白い幅の前に、並んで、立った。


 誰も、急がなかった。急ぐ理由が、もう、どこにも、なかった。一万世、私を急がせてきたものは、すべて、外れたか、置き換えられたか、解かれていた。


 明けの青さが、水面の上で、いちばん明るい高さに、届いていた。


 ——次は、最後の一行を、書く番だ。

 アズラエルは、結線を、自分の手で断ち、観測者の任を、降りた。

 明けの青さの縁に、別の岸の橙が、差していた。――次は、最後の一行を、書く番だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ