04.
妻に愛されていた結果、妻の命を奪ったなどと、信貴には到底認められることではなかった。
愛したことが原因で妻が死んだ、なんてどこの悲恋小説だ。
赤い糸が見えると言っても、信貴はその他は世間一般と同じ普通の人間だ。
龍姫は自分のせいで死んだ。自分の子供を産んだせいで死んだ。などと言われて、簡単に納得出来る筈もない。
「う…っ」
嘘だ!と、本当は恥も外聞も捨てて喚いて泣いて否定したかった。嘘だと言ってくれと縋りつきたかった。
けれど、八尋がそんな嘘をつくことなど有り得ないことも知っていた信貴は、込み上げる感情を制御できず、ただただ八尋を見つめるしか出来ない。
「………」
しかし、八尋は否定どころか肯定もしてくれず、無言で信貴を見つめ返してくるだけだった。
ぐるぐると回る思考と視界の中で、恐怖とも怒りとも違う何かが頭をもたげる。
ふと、浮かんだ疑問。
それは、ツヤツヤした白米の中で見つけた一粒の生米のようなものだ。
違和感。そう、違和感だ。
「……君、なんで赤い糸が見えること黙ってたの。なんで俺との糸、切っ…」
――いや、切ったのは別にいい。と、そこで信貴は思い直す。
そもそも赤い糸が見えることは、信貴にも見えていたことを考慮しても、世間体的に隠すのが普通だ。そして世間体を考えるのであれば、自分だって同性と繋がってる赤い糸の存在は認めたくないし、恐らく衝動的に切ってしまうだろう。
問題は、
「なんで今、糸を切っていたこと告白したの」
なぜ、それを今、自分に言ったのか。
「君が言わなければ、俺は気づかなかった。知らなかった」
薔薇色の糸のことも、赤い糸の真実も。運命の違いも。龍姫のことも。八尋のことも。
なぜ今なのか。なぜ龍姫が死んでから告白したのか。いや、なぜ龍姫と結婚する前に、龍姫と出会ったときに、龍姫と…出会う前に……
「――ッ!!」
突き詰めて突き詰めて至った思考に、信貴は愕然とした。
これでは、八尋をそういう意味で求めているようではないか、と。
違う、と。信貴は条件反射のように頭を左右に振った。
有り得ない。八尋は親友だ。八尋は男だ。
しかし龍姫と出会う前にだったら、と考える意味は明らかで――。
自分は、龍姫よりも。龍姫との娘よりも、家族よりも、八尋を…
進む思考は、どこまでも信貴の意に反していた。
確かに自分は八尋を好いてはいるが、そういう意味ではなかった。純粋に、親友として好きだった筈だ。決して、こんな意味ではなかった。
なのに今、頭の中にあるのは八尋への好意だけで気が狂いそうになる。
「…俺……おれは…っ」
「………ふっ」
混乱する信貴を一切無視して、八尋がうっそりと笑った。
その、空気が漏れる微音ですら魅惑的に聞こえ、信貴は弾かれたように顔を上げる。
警鐘が、耳の奥で鳴り響いていた。
「なぜ教えなかったか?そんなもの…簡単なことだ」
「……かん…たん?」
周囲がグラリと歪み、眩暈を覚えるほどの困惑の中で、八尋の顔だけは鮮明に信貴の視覚を支配する。
「龍姫と出会う前に言っても無意味だった。龍姫と結婚する前に言っても足りなかった。どちらにせよ、お前は私を拒否した筈だ。今だからそ、龍姫が死んで弱っている今だからこそ、お前は私を受け入れるしかないと、いや、お前は私が欲しいと思っている筈だ」
「―――っ」
すべて八尋の言う通りだと思ってしまう自分に、信貴は狂気を感じた。
さらに、耳鳴りのような警鐘が強くなる。
「自分でもよく我慢したと褒めてやりたいぞ。何度殺してやりたいと思ったか知れない。…ずっと龍姫が邪魔だった。平然と、当たり前のようにお前の横に立つアイツが邪魔だった。すべてこのときの為だったとはいえ、苦痛だったからな」
「なにを、言っているんだ…」
八尋が満面の笑みで語る意味が分からない。まったくと言っていいほど、信貴には理解不能だった。
「君…龍姫が好きだったんじゃ、ないの…?」
あんなに見ていたじゃないか。羨望と哀愁が混じった眼で。愛憎すら感じる眼で。龍姫を、見ていた筈だ。
なのに今、八尋は龍姫を憎んでいたかのように語っている。
信貴が驚愕に目を見開くのを、八尋は面白いものでも見るかのように唇をつり上げた。
「…私がすきだったのはお前だ」
「……は?」
「私が龍姫を見ていた理由は確かに羨望だ」
「……」
「だが、私が愛していたのはお前だ。………そうは、思わなかったのか?少しも?予想すらしなかったか?」
「………」
――八尋が、俺を好き?
言われてみて気づく。
人間嫌いの八尋が、なぜか自分だけには態度が違った。
時々、ひどく優しげな目で信貴を見た。
信貴とだけは、一緒に行動することを拒否しなかった。
まるで、自分だけ特別だと言外に言われているようで優越感を抱いた。心地よかった。
…だが、それでは辻褄が合わない。
俺のことが好きなら、なんで糸を切った?
赤い糸は運命だと言ったのは八尋だ。
薔薇色の糸と違い、正しく運命だと。
なら、糸を切った理由は?
俺が好きだったのなら、切る理由がないだろう。運命に胡座をかいてもおかしくなかった筈だ。
混乱極まったときだった。
「信貴」
「――!」
八尋に名を呼ばれた。それだけで、信貴の身体に電流が走る。
それを見た八尋は嘲笑した。
「お前の名前を呼んだことは一度もなかったな。……信貴」
「…っ」
ぞくり、と。背筋を走った悪寒は快感とも呼べるもので、信貴はなんとも言えない不安に鼓動が早くなるのを感じた。
これだ、と。これが糸を切った理由だと信貴は直感した。
「私に、従いたくなるだろう?」
八尋の言葉が、声が、甘く響く。
「私が、恋しくなるだろう?」
脳髄まで痺れるようだった。
「それが、赤い糸の力だ」
嘲笑から苦笑に変わった八尋の笑みを、信貴は呑まれるものかと唇を噛んで見上げる。
しかし、すぐにギラギラとした眼差しを注いできた八尋に息を止めた。
「私もそうだった。お前を見る度に触れたくなった。お前と会話する度にその唇を塞ぎたくなった。お前の身体が触れる度に組み伏せたくなった。お前が笑う度にその顔を歪ませたくなった。私以外の存在をお前の中から消したくなった。糸を切ってから、その感情は更に強くなったよ。お前は私の、運命だったから」
「……っ」
――これは、誰だ。
熱に浮かされたかのように熱く語る八尋は、信貴の知る八尋とはまるで別人で、知らず唾を飲む。
「だが、容易く手に入る運命に用はない。運命だから仕方ないと、諦めて私のものになるお前に用はない」
吐き捨てるように言った八尋に、信貴の胸は早鐘を打った。
「私が欲しいのはお前だ。運命に縛られたお前じゃない。運命に関係なく私を選ぶお前だ」
だから、糸を切ったのだと。だから運命を利用したのだと、八尋は笑った。




