05.
――違う、と。
八尋は、信貴が自分の意思で八尋を選ぶことを望んで運命を利用したと言っていたが、それは違うと信貴は心中で独りごちた。
確かに、八尋は赤い糸の力を利用したんだろう。
八尋の言葉が本当なら、糸を切っても、いや切ったからこそ惹かれ合う。その性質を利用したんだろう。
現に今、信貴は八尋を欲している。好意を抱いている。
けれど、言ってしまえば信貴は八尋に対しては最初から好意を抱いていた。ただそれは、八尋が望むような恋愛的な好意ではなかっただけだ。
……多少、独占欲のような感情もあったが、それは親愛の域を出ないものだったと信貴は思っている。
だが、今は――。
今、信貴の胸の内にある感情は違った。今、信貴の心を支配している感情は、どんなに否定しようとも八尋を一番に据えたいと思っていた。嘘や偽り、誤魔化しもなく、恋愛的な意味で好いている。
――どうしようもない。どうしようも、ないんだ。
信貴にも、なぜここまで胸が騒ぐのか分からない。なぜ急に八尋に対して、ここまで感情が乱れるのか分からない。
でもこれが運命だと、赤い糸の『力』だと言われれば納得する。
――……ああ、もう認める。
信貴は八尋の真実を知り、一時その重いとも言える愛情に恐怖したが、今はその愛ごと包んでやりたいと思っていた。同じだけの愛よりも、さらに大きな愛で返してやりたいと思っていた。
八尋の仄暗い愛情を受け止めるのに躊躇いはない現状を、少しもおかしいと思わない自分は既に戻れないだろうことも理解していた。
八尋は、運命の赤い糸の存在を知っていた。
信貴にも、見えていることを知っていた。
だからこそ、薔薇色の糸の存在を、意味を知り、龍姫を失えば信貴はその心の隙間を埋める為に八尋を選ぶと思ったんだろう。
間違いでは、ない。
龍姫の死んだ原因は自分にあったなどと、それは信じたくない真実であり、八尋に全ての責任を押し付けてでも逃げ出したいことだった。
そうやって、自分を選ぶことを。それがヤケになった末の行動だろうと、赤い糸の力ではなく、信貴が自分の意思で八尋を選ぶことを彼は望んでいた。
――俺は、八尋を選ぼうとしている。
おそらく、八尋が望んだ自分の意思とやらで。
けれど、自分の気持ちが信貴にはどうにも信用ならなかった。
確かに今、信貴は八尋が好きだ。愛している。
だが、それは赤い糸の力ではないのか。
どうしても疑問が残るのだ。なぜ急に八尋に対して、ここまで愛しく思うのか。
そして不幸にも、これが運命の赤い糸の『力』だと言われれば納得してしまう現状が信貴を苦悩させた。
これこそが運命の力と呼べるものではないだろうか、と。
でなければ、説明がつかない。
なぜ、自分は今こんなにも八尋に心惹かれているのか。
赤い糸の効力は認めよう。
切れた赤い糸だというのに、八尋に名を呼ばれただけで、信貴の身体に電流が走ったほどだ。
背筋を走った悪寒は快感とも呼べるものだった。
あの快感を感じさせる為に八尋が赤い糸を切ったとは思わないが、ギラギラとした眼差しを注いできた八尋は言っていた。
信貴を見る度に触れたくなった、と。
信貴と会話する度にその唇を塞ぎたくなった、と。
信貴の身体が触れる度に組み伏せたくなった、と。
信貴が笑う度にその顔を歪ませたくなった、と。
――八尋のその気持ちが、今なら分かる。
信貴もだからだ。
信貴も、今似たようなことを思っている。
八尋の笑う顔が見たい。
八尋に触れたい。
八尋と唇を合わせたい。
八尋の身体で自分を組み伏せて欲しい。
その為なら、どんなことでも出来ると思った。
だから、不安になった。
そんな自分の、ひどい変わりように。
何か、人智を超える力が働いているとしか思えない。
人智を超える、何か。それが、信貴が龍姫と出会い、死に別れて八尋の真実を知り惹かれ合う結末を引き寄せたのだとしたら。
それこそが運命だとしたら。
信貴は八尋の、運命に縛られないお前が欲しい、と言った言葉を思い出していた。
運命だから仕方ないと自分を選ぶお前に興味はない、と八尋は言った。
八尋が欲しいのは、運命に縛られた信貴ではなく、運命に関係なく自分を選ぶ信貴だと。
――それは、無理だ。
これが運命に縛られていると言わないで、何を運命というんだろう。
信貴は固く唇を結んだ。
八尋にバレてはならない。
八尋に、運命に縛られない信貴を望む八尋に、絶対にバレてはならない。
「……絶対、嫌だ」
信貴は震えそうになる声を何とか抑えて絞り出す。
「無理だ。俺は君を、愛せない」
嘘をつく。
八尋が望む嘘をつく。
「俺は、龍姫が好きなんだ」
「……知ってる」
八尋が嬉しそうに笑った。狂喜を感じる笑みだ。
信貴は自分の選択が間違ってないことを悟る。
「俺は結婚してる」
「龍姫は死んだ」
もう実質あまり関係ないことだが、信貴は結婚を盾に反論した。
あまりに無慈悲な言葉でもって返されたが。
「っ……妻と死に別れた夫によくそんなことが言えるな!」
「死に別れたくらいで吠えるな。世の中にはもっと悲惨な別れ方をしている人間は山ほどいる。そもそも結婚だけがすべてじゃない」
――まあ、そうだな。
八尋の言葉にそう思える信貴は、もうどれだけこの男に堕ちているのだろう、と他人事のように思う。
「……娘がいる」
「私が面倒を見よう? お前を含めて」
「そんな筋合いはない」
「ある。私がお前を愛している」
「……俺は、愛してない」
「そんなことどうでもいい。言っただろう? 運命に縛られないお前が欲しいと。私が一度でもお前に愛してくれと頼んだか?」
「!!」
考えつく限りの断り文句を信貴は吐き続けていたが、八尋の最後の返答に思わず息を止めた。
信貴は八尋の思いがけない言葉に、本当の意味で愕然とする。
確かに、八尋は信貴に自分を欲しがれというようなことを言ったことはあっても、愛してくれというような、気持ちを求める言葉は一度も言っていない。
「なんの為に今まで我慢してきたと思っている。今、このときの為だ」
「………ッ」
続いた八尋の言葉に、信貴は思わず身震いした。
「お前が誰を愛していても構わない。私がお前を愛している」
「………」
八尋は、信貴が心を変えないことを望んでいる。龍姫を愛したまま、八尋のものになることを望んでいる。
いや、信貴が心を変えることなど有り得ないと思っているのだろうか。
信貴が、自分に心を傾けることなど有り得ない、と八尋は思っている。
信貴は、知らずうっそりと笑った。
八尋が望むなら、抗いながら抗い切れず堕ちていく自分を演じよう。
――俺が八尋を、手に入れる為に。
運命の恋とは素晴らしいものだ。なんて、誰が言った。
運命の赤い糸は決して幸せなものなんかじゃない。
――運命は、醜悪で残酷だ。
END




