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第97話 鬘帯

 慶次郎の言ったとおり、天正二十年の春になって、朝鮮との戦が始まった。

 日本軍は朝鮮軍を次々と打ち破り、五月には首都・漢城を落とした。秀吉は狂喜し、関白秀次に今後の計画を伝えた。それは秀次を大唐(中国)関白に、朝鮮国王に秀次の弟・秀勝などを任命するというもので、果ては天竺インド征服の構想もあるとのことだった。その際、天皇・関白の任命は秀吉の意思で行われる。つまり冊封さくほう体制における、周辺諸国の国王を任命するミン皇帝に成り代わり、秀吉が、東アジアの国際秩序の頂点に立とうというものだった。

 西日本の諸大名が朝鮮の戦の応援に呼び集められているので、都への人の出入りは依然いぜん激しく、折角、上京したのだから、今、評判の、天下一阿国の芝居を見ていこうと思う人々はきも切らなかった。

 だから一座の長としての松には、何の心配も無いはず、だった、なのに。

(いったい何が不満なの)

 松は、寝ている男の背中をつねってやりたくなる。

 実際、つねってしまったこともある。すると男は、松がまだ満足していないと思ったのか、こちらに向き直ると、彼女の髪をでながら口づけをした。それはそれで嬉しかったけれど……。

 松と惣蔵は、今では夫婦同然の暮らしだ。

 武田が滅びたのは悲しかった、でも『家』が無くならなければ、二人が結ばれることは決してなかった。

 彼が好き。

 彼さえ居てくれれば、他に何もらなかった。

 でも惣蔵にとっては。

 彼の表情は、日に日にえなくなってきた。

 生来せいらい生真面目きまじめなので、舞台はきちんと務めている。

 松が

「あなたが居てくれないと、一座はおしまいよ、とてもやっていけないわ。」

と言って涙をこぼしたのが、いている。いや満更まんざらそらなみだというわけでもない。

 惣蔵の踊りは今では、一座にとって、無くてはならない出し物となっている。だが、だからといって、彼が何かの拍子にため息をついたり、ぼんやり遠くを眺めたりするのを、止めることは出来なかった。

「そりゃ無理じゃろうて。」

 惣蔵が律儀りちぎに、どうしてもご挨拶をしなくては、と言い張るので、仕方なく連れて行った信虎の屋敷で、以前よりやや足元が覚束おぼつかくなったものの、相変わらず遠慮の無い主人が言ったものだ。

獅子ししを鳥かごの中に閉じ込めておくようなものじゃろうて。いつまで持つか、見ものじゃな。」

 松は()()となって、惣蔵を引きずるようにして、信虎の屋敷をしたものだった。

「絶対、惣蔵を近づけないで。」

 絵屋への出入りは固く禁じられている。

 慶次郎の元から達丸を引き取った後も、菊が神経質になっているのだ。

「用があったら、督姫か明姫を寄越よこしてちょうだい。一座でも、達丸の話題は一切いっさい、無しよ。」

 いつも姉の言うことなんか半分も聞いていない松だったが、今回ばかりは大人しく、言うことをきいている。

 惣蔵が、達丸が武田の跡取りだと知ってどういう反応を示すか、怖かったからだ。



 時間の問題、と思っていたが。

 とうとう、その時が来てしまった。

 舞扇まいおうぎ毛羽立けばだった面がけて、()()()と垂れ下がってしまった。

 手に馴染なじんで使い易く、絵柄も華やかで、気に入っていたのだが。

(捨てるか)

と思ったが、考え直した。

 絵屋で直してくれるだろう。

 自分が絵屋に近づくことは、固く禁じられている。

「店は街中まちなかにあるのよ。もし所司代しょしだいの者に見つかったら。駄目ダメよ、絵屋に近づいちゃ。」

 舞台では女に化けているけど、素顔すがおじゃ危ないわ、と松が心配するのだ。

(姫君……)

 武田家に居るとき、松がぶつけてくる激しい恋情れんじょうは、惣蔵にとって、迷惑以外の何物でもなかった。

 骨者揃こつものぞろいの家中かちゅうで、人より低い背、色白で童顔、しかも舞の名手などという資質は、男たちからめられる要因でしかなかった。だから人並み以上の修練しゅうれんを積んで、小兵こひょうながら組み手の名手めいしゅと言われるようになったのだ。

 それなのに、さきのお屋形さまの、末のわがまま娘は、父の溺愛できあいをいいことに、彼を度々(たびたび)宴席えんせきはべらせ、連舞つれまい所望しょもうし、あまつさえ、あけっぴろげな恋情を示して、家中の評判になってしまった。

(身分が違う、違うんだ)

 いくら心で叫んでも、あらがうことも出来なかった。

 だから心配した実家が、結婚相手を探してきてくれたときには、ほっとしたものだった。

 武将にとって結婚などは、家の存続のためにあるものだ。どんな相手でも良かった、男の子さえ生んでくれれば。

 妻は男の子を生んでくれた。惣蔵の暮らしは落ち着いた、かに見えた、だが。

 武田が滅んで惣蔵は、天晴あっぱ忠臣ちゅうしんということになっていた。妻と子は忠臣の遺族として徳川に抱えられ、小さいながらも城を拝領はいりょうしていると風の便りに聞いた。これでご先祖さまへの義務は果たした、でも彼は、彼自身は。

(今でもぶら下がったままのようだ、あの崖に)

 片手に細いくずつるを握ったまま、上に上がれず、下に落ちることも出来ず。

 彼にとって、忠義を尽くす相手は武田家以外考えられない、でもその相手は無くなってしまった。秀吉の部下を、行き当たりばったり斬るのにも飽きていた。

(こんな事してても何の役にもたちやしない、でも、だったら何をしたらいい?)

 世の中は変わってしまった、そう、自分自身も。武田が滅んで、この世に絶対変わらないものなんて無いことを、思い知らされた。

 いや、たったひとつ、変わらないものがある、それは

(姫君の、私を想ってくれる心だけだ)

 若い頃は、切っても切ってもからみ付いてくる松の恋情が、うっとおしく、少しばかり怖かった。でも今は、女の底なし沼のような愛情に足を取られるのも又、楽しいと思えるようになってきた。人生全てを、主君への忠誠と、それに伴う戦働きに費やしてきた、これまでの彼には考えられないことだった。

 女の放恣ほうし肢体したいが目に浮かんだ。

 昨夜の会話も思い出した。

「毎晩、こんなことをしていたら、子供ができてしまう。」

 女を抱いてささやくと、くすぐったそうに笑った。

「子供ができたら」

 ふと思いついたことを口に出してしまった。

「その子は、武田の血をひく子だ。」

 彼女の体が固くなったのがわかった。

「いや……俺たちはもう、ただの男と女だ。」

 ゆっくりと力を抜くのがわかった。

 そうだ、彼女は俺のことを心配しているのだ。

 彼女を大切にすることだけを考えればいい。

 彼女にもらった愛情のお返しをしなければ。

(やはり扇を直そう。姫君が又、新しい踊りを考えたいと言っていたし)

 絵屋に用があれば、督姫か明姫に頼めと言われていたが、二人とも姿が無い。

 惣蔵は、自分で絵屋に行くことにした。

 笠を深くかぶれば目立たないだろう。



     挿絵(By みてみん)




 街を一人で歩くのは久しぶりだった。

 小間こまものに少女たちが集まっている。

 後ろから覗くと、台に並べられた美しい鬘帯ヘアバンドが目を射た。鮮やかな赤が、女の情熱的な愛のように燃えている。

 買い求めて、大事にふところ仕舞しまった。

 今まで彼女に何かやったことなど無かった。

 高価な品ではないけれど、彼がくれたというだけで彼女は幸せになる。喜ぶ顔が見えるようで、心が温かくなった。

 五条にある絵屋は思ったより大きな店だった。

 京に落ち延びてきた当時のことは、話に聞いているだけだ。それでも、一文いちもんからここまで店を広げた菊の苦労はしのばれた。

 だがここも又、あまり人が居なかった。菊も揚羽も留守だという。

「困ったな、どうしよう。」

 ひとりごちた。

 すると応対に出た、まだ十ばかりの小僧こぞうが気軽に、

「いいですよ、私が直します。」

と言う。

「そりゃ悪いな。」

「大丈夫です。すぐです。そちらで少しお待ちいただけますか。」

 そこへ

「じゃ、ちょっと行ってくるから。」

 小僧に声をかけて出て行った者がいる。

 小僧とあまり年はかわらないが、ほそおもてで色白で、品のいい少年だ。地味ながら質のよい物を身につけている。

「ああ、いってらっしゃい。」

 小僧が答えた。

「あの子も職人なの?」

 惣蔵は何気なく聞いた。

「いいえ、違います。あの子はここンちの子です。」

 小僧は、扇のに合わせる紙選びに余念よねんが無い。

「ここンちの子?女将おかみさん、独身ひとりみじゃ。」

「ああ、あの人は叔母さんです。あの子のお父さんの妹なんですって。」

『夢』から覚めた。

 まさか。

「そう、あの子のお父さんお母さん、どういう人なんだい?」

「お父さんのことは知りませんけど、お母さんは確か、小田原の人だって。」

「そういえば、あの男の子、名前、何て言ったっけ。」

 平静を装って聞いた、が、語尾が震えた。

「達丸っていう、あ、あっ、ちょっと!」

 小僧、平助は、男が扇をそのままに、疾風はやてのように走り出ていってしまったのを見送って呆然とした。

 松はその日の夕方、家に戻ってきた惣蔵の姿を見て、()()()()とした。

 とうとう来るべきものが来た、と思った。

 彼は手に槍を持ち、背中にはよろいびつを背負っている。

「やっぱり出て行くのね。」

 松はかすれた声で言った。

「何処へ行くの。」

「朝鮮だ。もう日本国内で戦働きは出来ないからな。手柄てがらを立てて、戻ってくる。」

一国いっこく一城いちじょうあるじになるのね。」

 松は悲しく言った。

 惣蔵は首を振った。

「違う。主になるのは……達丸さまだ。」

 松は青ざめた。

「とうとう……知っちゃったのね。」

「姫君。」

 惣蔵はひとこと一言、みしめるように言った。

「私は武田家に忠誠を誓った。他に私に出来ることは無いんだ。必ず戻ってくる。手柄を立てて、お家を再興さいこうするんだ。」

 ふと気が付いて、懐から包みを出して、松に渡した。

 松がそっと包みを開いてみると、鬘帯かずらおびの赤が目に飛び込んできた。

 二人は()()と抱き合った。

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