第86話 聚楽
九月には京の聚楽第が完成し、秀吉は大坂城から移ってきた。
長生不老の『楽』を『聚』め、調度に至るまで全て、金が使われているという。四周に幅二十間{約三十六メートル}、深さ三間{約六メートル}、全長千間{ニ千メートル弱}の堀を巡らしたそれはしかし、京のど真ん中に建てられた、まさしく要塞であり、秀吉の権力を天下に示威するものだった。
宣伝能力に長けた秀吉は、壮麗な『城』で京雀の目を見張らせるばかりではなく、彼らにとってもっと身近な場所で、支配者秀吉のもたらした『平和』を実感させる方法を考え出した。
聚楽第のお膝元の北野の森で、大茶会を催したのである。これは秀吉の右腕である千利休の計画だというのが、その元で料理人をしている妙をんの話だった。
当日、北野の森は八百あまりの座敷が出現し、そこに茶の湯好きの者ならば身分の上下を問わず、釜、釣瓶、呑物を一つずつ持参して茶を振る舞い、振舞われた。秀吉も名物の茶器を残らず揃え、自らお手前を披露した。誰もがかつて信長が行った壮麗な馬揃えを思い起こし、天下の覇権が秀吉に移ったことを思い知るのだった。もっとも、参加を迫られた公家たちにとってはずいぶん、迷惑な話だったようである。茶屋を構えるとなると、それなりの出費が必要となるからだ。皆、貧乏なので互いの顔色を伺い、親しい者同士、相談して参加となったことが、様々な日記に記されている。
十日続くはずだった大茶会はしかし、たった一日で打ち切りとなって、貧乏公家たちを安堵せしめた。九州の肥後の国で一揆が起こったからだ。秀吉は肥後に小早川隆景らを送り、三ヶ月で一揆を鎮圧した。が、めでたい茶会をぶち壊した責任者である肥後の国主、佐々成政をそのままにはしなかった。佐々は秀吉の指示に従って政策を行っていただけであったが、結局、詰め腹を切らされた。
秀吉の威が地方に及ぶことは、悪いことばかりではなかった。
茶会が打ち切られた十月の終わりには、新発田城が攻略され、上杉を長年苦しめてきた新発田重家が自害した。秀吉と景勝が手を結び、孤立無援となった重家に手を貸す者はいなかったからだ。しかし秀吉の手を借りないと乱を治められなかったことにより、この後、上杉は、秀吉に対して臣下の礼を取らざるをえなくなってしまう。
ともあれ、越後の騒乱が治まったことを知った菊は、景勝とその側室のために喜んだ。あれから五年、彼女が遠く放浪の旅に出るきっかけの一つでもあった重家の死は、彼女に様々な感慨を呼び起こした。
秀吉に臣下の礼を取った地方の国主らは、京や大阪に次々と屋敷を建てている。景勝や紅も京に出てくることになるだろう。今となっては、夫もその側室も遠い存在になってしまったけれど、と、そのときの彼女は思っていたのだった。
秀吉は天正十六年四月、聚楽第に後陽成天皇を迎えて、得意の絶頂だった。天皇は六千人の供を引きつれ、沿道は観衆で埋まった。諸大名は天皇の面前で秀吉に誓詞を差し出し、その命に従うことを誓った。
秀吉は、このとき上洛しなかった北条氏を成敗する計画を立て始める。
更に七月には百姓から刀・槍など武器の類を取り上げる刀狩令を出した。自身、百姓の生まれである秀吉は、一揆の恐ろしさが骨身に染みていた。この後、検地によって百姓の力を徐々に弱めていく一方で、座の廃止を行い、商業を活発にしていった。
この方針は、菊のような新興の商人にとってはありがたいものだった。
菊は雇いいれる職人を倍に増やした。それと同時に扱う品数を増し、店舗も広げていった。
もう扇屋と名乗るのもやめた。
生活が豊かになってきて、遊びや祭りが盛んになってくると、文や物語を書くとき使う、金銀の箔を散りばめた料紙という美しい紙や、祭りの飾り物を手がける工房や商家が増えてきた。それらは『絵屋』と呼ばれた。
なかでも、『五条の絵屋』といえば、近隣で知らぬ者はいなくなったのである。
「御存知ですか?傾城が禁止されたそうでございますよ。」
「ああ、国家の費ってやつでしょ。」
京にはいくつか傾城町が出来ていた。それを秀吉は禁止したのだ。
松は、春日の手ぬぐいを取り替えてやった。
春日の具合は依然、思わしくない。日に日に弱っていくのがわかる。でも松に感謝してか、機嫌をとるように話を続ける。
松は内心、嫌で堪らないが、相手をしてやっている。
「二条柳町に公営の遊里ができるとの、もっぱらの噂でございますよ。」
「ふん、汚らわしい。」
松は吐き捨てた。
「あんな掃き溜めのようなところ。」
「本当に、何処がいいんでしょうね。」
春日も大人しく同意した。
「昼間はそんな感じがします。でも夜になると、皆さまおいでです。多分、土屋さまもおいでになったことがおありでは。」
「やめてよ!」
松はかっとなって叫んだ。
「そんなことする筈、無いでしょ!」
「言い切れますか?」
春日は冷静に言った。
「戦の後、衣に返り血を付けたまま、まだ、血の臭いがぷんぷんする殿方がたくさんおいでです。」
「皆、ケダモノよ。」
「そうですね。獣は戦った後、自分の巣穴に戻って傷を癒します。あそこはそういうところです。傷ついた獣が怪我を治す。」
「ふん、怪我してて行ける?」
松が嘲笑うと、春日は言った。
「怪我と言っても、心の怪我です。目には見えないけれど、確かに傷ついている人たちの、安らぎの場所なのです。」
心の怪我。
松ははっとした。
そういえば自分も、武田が滅んだ後、おかしくなってしまった。
今では嘘だったように思える。
けれど、毎日のように戦に出て命のやり取りをしている一見、強い男たちも、毎日毎日、あんな思いをしているとしたら?
「どんな強い武将でも、負けるときはあります。たとえ勝っても、もう少しで命を落とすところだった、と肝を冷やして帰るときもあります。そんなとき、誰かが自分の相手をしてくれる、慰め、励ましてくれる、そうすれば又、次の日から戦場に立てるのです。」
松は黙ってしまった。
「あの女たちは、けばけばしく着飾って、と、お思いでしょうね。たとえどんな女でも、化粧や衣装で誤魔化す技がありますから、見た目はいくらでも、どうにでもなるのです。でも店で一番人気の女は、ただ派手なだけではありません。肝心なのは、その人自身のあり方です。」
「はっ、お説教くさい……。」
松は茶化そうとして、語尾が途切れてしまった。
春日は意に介せず、続けた。
「傷ついた心を癒せるのは、ひと、だけです。」
春日は松を見つめた。
「皆、寂しいのです。誰しも孤独でばらばらですが、それでも他人とわかちあい、繋がっていたいのです。女は、男なんていなくても、綺麗な衣装を身に着け、可愛いモノに囲まれ、おいしい物を食べ、気の合った仲間とおしゃべりをしていれば幸せなのです。きっと女には、男のことより大事なこと、孤独に耐えて、一人でしなくてはならないことがたくさんあるから……身籠り、産み、育てることがあるからでしょうね。でも男は女より、もっとずっと弱い生き物なのです。」
「……その話を聞かせて。」
松は言った。




