第83話 紋章
そそくさと帰っていく妹を見送る菊の背中に、声をかけた者がいる。
「あの、この幕は何を表しているのでしょうか?」
見物客があらかた帰っていって、舞台の片づけをしているのを、まだ残って見ていたのは初老の男と若い男の二人連れだった。話しかけてきたのは若者のほうだった。
「ああ、これは、王宮の場面で使ったものですね。」
大きな幕がするすると巻き取られていくのを見ながら、菊は答えた。その幕には一面を二分割して、片方には百合の花、片方には立ち上がって咆哮する獅子がシンプルな線でのびのびと描かれている。
「あちらでは紋章と呼ぶそうです。王家の象徴です。こちらで言えばそう、家紋でしょうか。」
「変わっていますね。幕一面にあんなに大きな絵を描くとは。余白が殆ど無い。」
「舞台装置ですから。遠くのほうから目立つように大きく描いてあるのです。広い場所でも、ぱっと視線を集めることが出来るでしょう?」
「あの絵もやはり、胡粉の上に岩絵の具を載せて描いているのですか?」
「南蛮風の絵でも日本で描かれたものは大抵、こちらの用具を用いて描いております。材料が手に入り易いものですから。絵の描き方はもちろん、違いますが。あの、絵を描いておられる方々ですか?だったら、今は片づけで慌しいので又、別の機会にでもいらしてください。色々とお話出来ることがあろうかと思います。」
「南蛮画の描き方を誰にでも教えているというのは、やはり本当だったんですね。」
若者は感心したように言った。
「か、いや、日本の絵師たちの技法は門外不出のものですが、南蛮の絵師たちは分け隔てなく技法を教えるので、ここには派閥を越えて、様々な絵師たちが教えを乞いに集まっているそうですね。」
「何故じゃ。何故、そのようなことをするのじゃ。」
年上の男が初めて口を開いた。何だか怒っているような口ぶりだ。若い男はぽっちゃりと色白で、のんびりした感じの、いかにも若旦那風だったが、こちらは風雨にさらされて骨ばった、色黒の、引き締まった男だった。
親子なんだろうか、それにしてもあんまり似てないな、と菊は思った。
「大和絵ならば土佐、漢画ならば狩野、雲谷、海北など、名だたる絵師たちが大きな仕事が出来るのも、師匠の技法をしっかりと身に付けた弟子たちが、工房単位で仕事を請け負って注文主の意に沿うような作品を作り上げるからじゃ。師匠の技法も、その前代、またその前代と長い時間をかけて受け継ぎ、磨きあげてきたものじゃ。それをちょっと茶飲み話のついでに、よその絵師たちに教えて回っているというのは一体、どういうつもりなのじゃ。」
「出たな、妖怪。」
「え?」
「いえ、違います、何でもありません、独り言。それはですね……」
その質問には慣れている。
いや、菊自身も最初は驚いたのだ。
でもジョヴァンニは言った、
「真理は普遍であらねばならない。」
と。
「つまりですね。例えば、『Prospettiva{遠近法}』という描き方があるのです。遠近の距離感を画面に描き出す技法のことなんですけど、自分から近い位置にあるものを大きく広く描き、遠い位置にあるものを小さく細く描くと、自然と画面に奥行きが出るというものです。もちろん日本の絵師ならば、このような描き方は、その門派の門外不出の技法としたでしょう。でも、誰が描いてもそのように見えるものを、さも秘密のように自分たちだけのものにして、何になるでしょう?」
「……。」
「私も初めはびっくりしました。そのような技法を、突然尋ねてきた見知らぬ人に、あっさり教えてしまっていいのかって。だって日本の絵は皆、平べったい絵なのに、南蛮の絵はまるで、そこから浮き上がって、今にも掴めそうに見えるじゃありませんか。こんなすごい絵がそんな簡単なことで描けるなんて、何か狐に摘まれたような気がしませんか。誰にだって、ちょっと稽古すれば描ける絵だなんてわかった日には、何だか有り難味に欠けるような気がするでしょう?でも、私のお師匠さまはおっしゃいました。誰にとっても同じことならば、誰にとっても簡単に手に入って使えるようにならなければって。それで私、気が付いたんです。昔、狩野で門前払いされたとき……。」
「狩野に……。」
「私、戦火に追われて里から出てきて、狩野の門を叩いたことがあるんです。そのとき、昔、絵を習った師匠に会いました。思い出したんです、あの人はいつもたくさん弟子を連れて、威張って歩いていたなあって。それは技法を独り占めしていたからです。でも、その秘密の技法だって、皆の目に同じように見えているものを、いつ、誰が、同じことに気が付かないと言いきれるでしょうか?」
年配の男は黙って何かを考えているようだった。
沈黙を破ったのは若い男のほうだった。
「又、伺ってもよろしいですか?」
菊は、ぱっと笑顔になった。
「ええ、いつでも、喜んで。」
二人が辞した後、菊は一人ごちた。
「それにしても……何で、あたしがあの絵を描いた責任者だってわかったんだろう?」
「あれが五条の扇屋の女将か。」
「ええ、噂には聞いていましたが。」
若者の言葉を遮るように、年配の男はぎりりと歯を鳴らした。
「恐ろしい女じゃ。」
「は?確かに、絵はなかなかのようですが、父上がそこまでおっしゃるほどの腕前とは、到底……。」
「絵の腕前のことを言っておるのではない。あんなもの、わしにとっては目では無いわい。」
人々が、まるでだまし絵のような南蛮の絵に目を奪われるのは無理もない。が、男は自分の画力に、何者をも寄せ付けない自信を持っている。流れるような線を墨筆一本でためらいなくぐいぐい引いて、まるで生きているような草木や想像上の生き物を、今まで幾多作り上げてきたことか。
「わからんか、四郎次郎。」
四郎次郎と呼ばれた若者は、おびえたように目を伏せた。鬼才と呼ばれる父の前に出ると、この息子はいつも、猫ににらまれた鼠のように小さくなってしまう。
(覇気というものがまるで無い)
父は心の中で舌打ちした。
「技法はその家のものじゃ。その家の中で教えられ、伝えられていくものじゃ、それを否定してしまうと門派は成り立たなくなってしまう。それを、あの女は……。」
しかもこの息子は、又伺ってもよろしいですか、などと……。あの女から南蛮の技法を有り難くお教えいただくつもりだろうか。
(わしと違う方向へ行こうとする)
まるで、強い風に吹きつけられた高山の松が、地に這い、曲がりくねりながら、風を避けて伸びていくように、このひ弱い息子は、巨大な父の陰から逃れようとしているように見える。
(父の松栄は穏やかで優美な画風だ)
かつては自分もそうだった、でも。
狩野永徳は思う。
自分の代で狩野は飛躍的に勢力を伸ばした。どの派の絵よりも力強く華麗な、彼の筆によって。世の人々は狩野という家に、そういう類の絵を期待している。それなのに、跡取りの四郎次郎が描く絵ときたら。
(もし、わしに万一のことがあったら……この子は、狩野は、どうなるのだろう?)
家代々の秘密の技法なんて、いつ、誰に、暴かれるか知れたもんじゃありませんよ。
女の言葉が、永徳の頭の中で木霊していた。




