第82話 オルレアンの少女
「松。松ったら、聞いているの?」
姉の声に、松ははっと我に返った。
「え?ああ、何?」
「何じゃないわよ、忘れず来てね、今夜だから。どうせここんとこ、客の入りが悪いんでしょ、早めに閉まったって、誰も文句言いやしないわよ。」
菊は、パラパラと客が座るので、丸く中央が空いている桟敷を見渡すと、無神経なことを言って、きびすを返した。
「それって、お金取って芸を見せてる者の所へ来て言うこと?お門違いなんじゃないの?」
松は姉の背中に叫んだが、どうせ聞いてやしない。
最近、商売が繁盛している菊は、次から次へと用事があって忙しい。頭の中はもう、別のことで一杯だろう。
(このあたしに『芝居』を見せてくれるって、それって逆じゃあないの)
今晩、教会で芝居をするという。それに達丸が出るので、見に来いというのだ。
どうせ、耶蘇の坊さんたちが考え出した、説教くさい、いつものやつだわ、と松は行く前から、うんざりしている。
(最初はもの珍しかったけど、結局、神の前にひれ伏しておしまい。あたしは信者じゃないんだから、神が出ようが仏が出ようが、有難くも何ともないんだから)
信者じゃない、とか言ってるけど、最近の姉はすっかり耶蘇教にかぶれてる、と松は思う。
(達丸を耶蘇の芝居に出すって……父上や兄上が生きていらしたら、さぞお嘆きだろうと思うわ)
松がどんなに反対しても、聞く耳を持たないのだ。
「いいじゃない。達丸のお友だちは皆、出るんだもの。一晩だけ、たったの一晩だけよ。それに衣装が可愛いんだから。」
南蛮人の絵ばかり描いているせいか、菊は、達丸が南蛮人の真似をするのに何の抵抗も無いようだ。
「御所での例の騒ぎも、何とかして仲間に入りたいと思ったから起こしたようなもの。でも、いくら親しく出入りしているからといっても、身分が違うから、達丸は御所で舞を舞ったり出来ないし。教会は、たとえ信者じゃなくても端役なら出してくれるというのだもの。かわいそうじゃない、ねえ、いいでしょう。」
達丸より自分がはまっているんだろうと松は思ったが、姉の熱意に押し切られてとうとう、芝居を見に、その夜、教会へやってきた。
中庭に、臨時の舞台がしつらえてある。篝火が焚かれ、もうだいぶ人が集まっていた。
菊の姿は無かった。きっと楽屋で達丸に付ききりなのだろう。
(あの辛気臭い芝居を見るのに、こんなに大勢集まって)
松が耶蘇の芝居を見たのはもう随分、前のことだ。
たしか、遊んでばかりいる人々を神が懲らしめるとかいう話だったっけ。
(お説教ばかりだと眠くなってしまうから、こうやって教えを具体的に目の前に見せるのは、いい考えかも)
イエズス会の特徴は、教育と海外宣教にある。
『少年を教え、世界を新たに』というのが彼らのモットーで、中でも演劇を奨励した。人を惹きつけて教会の教義及び道徳上の教えを伝え、学生たちに生き生きした楽しい方法で、学業の成果を表す機会を与える為であった。
突然、しゅうしゅうと音がして、舞台の上で派手に花火がはぜた。バチバチという音に、舞台の近くに居た人々はわぁっと叫んで思わず身を伏せ、後ろの人々もびっくりして口をつぐんだ。
薄くたなびく煙の中から、一人の老人が姿を現した。よろよろと泳ぐような足取りで走ってくるが、気ばかり焦って前へ進めない、と、舞台の中央で倒れてしまった。
そこへ南蛮人の衣装を付けた男が、剣を引っさげて登場した。
「じじい、覚悟しろ!」
と切りかかる。
「ひぇっ、命ばかりはお助けを!」
老人は四つんばいになって逃げようとするが、男は見る見る歩を詰めて、老人の頭上に剣を振りかざした。
(さあ、神さまの登場だわ)
息を呑む観客をよそに、松は皮肉っぽく考えた。
「こんちくしょう!」
威勢のいい掛け声とともに、男の尻を箒でぴしりと叩いたのはしかし、神でも仏でもなく、長い真っ赤なスカートを翻した若い女だった。
「おお、ジャンヌ!」
逃げ出す男をにらみつけ、箒を地に突き仁王立ちする女に、老人は感極まって叫んだ。
(女?)
観客が笑ったり掛け声をかけたりする中、思いがけず松も芝居に引き込まれていった。
その芝居は最初っから普通の教会の芝居とは違っていた。というのも、松が今まで見た芝居は、何かしらの奇跡が起こり、それは全て耶蘇の神の御業である、といった類のものか、ナタとかいう耶蘇の祭りに子供たちが決まって演じる、ジェスとかいう赤ん坊が生まれて、皆で祝ったとかいう話ばかりだったからだ。
田舎言葉丸出しのジャンヌ、とかいう若い女はしかし滅法強かった。隣国の兵隊をやっつけては生まれ故郷のダルク村を守っていたが、ある日、神の、敵を国から追い出せという啓示を受け(やはりこういうところは教会の芝居だな、と松は思ったが)領主の元へ行き、男のなりをして自ら兵を率い、隣国の軍を追い払う。しかし自身は隣国に囚われて、魔女として火あぶりにされる、という話だった。
(これは、南蛮の巴御前か)
この時代、女武者というのは実はそう珍しいものではない。しかし南蛮にもそのような者がいるとは思わなかった。まして、それが主役として舞台の上で縦横無尽に活躍するとは、松には思ってもみないことだった。
喝采のうちに芝居が終わり、興奮冷めやらぬ人々が、がやがやと帰り始めても、松は呆然と座ったままだった。頭の中は目まぐるしく動いていたが、身体は呆けたように動かなかった。何かを掴みかけているような気がした。でも、それが何かはわからなかった。
「ねえ、どうだった?」
弾んだ姉の声にようやく、我に返った。
「あれは、ほんとに教会の芝居なの?」
「『オルレアンの少女』という話だそうよ。何でもFranciaという国の教会で演じられた芝居なんですって。ねえ、達丸、可愛かったでしょ?」
「え?そうねえ。」
そういえば、ジャンヌが神のお告げを受ける場面で、天使の一人に扮していたような気がするが。
妹の気の無い返事にがっかりした菊はそれでも、城の場面で垂れ下がっていた大きな幕は扇屋で作った物だなどと自慢たらしくしゃべっていたが、松はもう上の空だった。
「それにしても、女が男のなりをして舞台に立つと、映えるわね。」
「でしょう?」
菊は得意そうに言った。
「このお芝居を本で見つけて、演じてみたらいいって言ったの、実はあたしなの。」
そのとき、上杉景勝の側女の鎧姿を思い浮かべていた、とまでは口に出さなかった。この生意気な妹に、何と言われるかわからなかったからだ。だが、いつもは鋭い妹が、今日は何だかぼんやりしていて、他のことに囚われているように見えた。
「あたし、もう帰るわ。」




