表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
69/125

第67話 裏切り者

 その朝、菊は一人、井戸端いどばた洗濯せんたくをしていた。

 揚羽は、洗い物など私どもにお任せください、と言って止めるのだが、仕事が煮詰につまったときなど、青空の下で洗い物をするのはいい気分きぶん転換てんかんになる。

 今日もいい天気だ。まった洗濯物はきっと良く乾くだろう。皆、洗ってしまおう。

 最近、ジョアンがいい物をくれたので、洗濯するのがおもしろくなった。衣服にこすり付けていると、おもしろいように泡が出る。

 これは当時とうじ最先端さいせんたんの技術で作られたオリーブと海藻灰ソーダが原料の、硬い石鹸せっけんだった。それまで一般的だった動物製の軟らかい物とは違い、においが無いので好評だったという、大変貴重で高価な物である。

 こういう単純な作業をしていると、無心になれる。

「『シャボン』というやつか。」

 突然上から声が降ってきたので、菊はぎくりとした。

 見上げると、腕を組んだ慶次郎が憮然ぶぜんとしてかきに寄りかかっている。

「泡が立てば立つほど汚れが落ちるっていうけど、本当か?」

 菊は無言で、布を力任ちからまかせにバサバサと振るった。

 泡が散ってかかるのを、慶次郎は飛び退いてけた。

「黙って引っ越すから、探すのに苦労したぞ。」

 菊が泡を落とすのもそこそこに、布を洗いおけに入れて家の中に入ろうとするので、慶次郎は彼女の腕をつかんだ。

「おい、待てよ、姫君。話を聞けよ。そっちだって話をしたくって、俺を訪ねて来たんだろう?」

「離してよ、訪ねてなんかいないわよ。」

「門番たちが言っていた、茶色い巻き毛の女が訪ねてきたって。」

「そうよ、美人の奥方と可愛い御子息ごしそくにもお会いしたわ。」

 菊は、かあっと頭に血が上ってしまって、言わずもがなのことを付け加えてしまった。

「奥方がいるなんて、一言も言わなかったじゃない!」

 慶次郎は驚いたようだった。

「姫君だって、結婚しているじゃないか。」

 菊も言ってしまってから、激しく後悔こうかいしていた。

 これではまるで、嫉妬しっとしているみたいだ。

 慶次郎の目が炯々(けいけい)と光って、大きく一歩、彼女に向かって踏み出した。

 菊は後ずさりした。

「姫君、姫君って呼ばないでよ。」

 不貞腐ふてくされてき捨てた。

「今日食べる物があるかどうかしか頭に無く、地面にこぼれた施粥せがゆを口にしようとしたあたしが……もう、姫君でも何でもないわよ!」

 慶次郎は眉根まゆねしわを寄せた。ちょっと息を整えて感情を鎮めると、押し殺したような声で言った。

何処どこへ行こうと、何があろうと、自分を見失いたくない、そう言ってなかったか。忘れたか。俺にとっては姫君だ、今でも。」

 菊の胸の奥にその言葉は響いた。でも、彼女は動揺どうようする心をねじ伏せた。

「何言ってるの、あたしを姫君じゃなくしたのは誰?裏切うらぎもの!もう二度とあたしたちに近づかないで!」

 慶次郎は、がっと菊の両肩を掴むと、家の外壁そとかべに押し付けた。

 桶は彼女の手からすべり落ち、あたりに洗濯物をき散らしながらころころと転がっていき、井戸の木枠きわくにぶつかって、ようやく止まった。

「俺は裏切り者なんかじゃない!頼む、信じてくれ!」

 それは今まで彼女が見たこともないほど、真剣しんけんな目だった。

「上杉を探っていたのは認める、でも武田のことは一切、知らせていない!武田の討伐とうばつに力を貸してはいない、本当だ!」

 彼がぎゅうぎゅう彼女を壁に押しつけるので、板がきしんだ。腕が折れそうだ。

「い、痛い、離して……。」

 菊は弱々しく言った。

 慶次郎は、はっとして手を離した。

 菊はへたへたとその場に座り込んだ。

 慶次郎は彼女の前にかがみこんだ。

「俺は前田の家の者であって、前田の家の者ではない。俺は何処にも属する場所が無い人間なんだ……。」



     挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ