第67話 裏切り者
その朝、菊は一人、井戸端で洗濯をしていた。
揚羽は、洗い物など私どもにお任せください、と言って止めるのだが、仕事が煮詰まったときなど、青空の下で洗い物をするのはいい気分転換になる。
今日もいい天気だ。溜まった洗濯物はきっと良く乾くだろう。皆、洗ってしまおう。
最近、ジョアンがいい物をくれたので、洗濯するのがおもしろくなった。衣服にこすり付けていると、おもしろいように泡が出る。
これは当時最先端の技術で作られたオリーブと海藻灰ソーダが原料の、硬い石鹸だった。それまで一般的だった動物製の軟らかい物とは違い、臭いが無いので好評だったという、大変貴重で高価な物である。
こういう単純な作業をしていると、無心になれる。
「『シャボン』というやつか。」
突然上から声が降ってきたので、菊はぎくりとした。
見上げると、腕を組んだ慶次郎が憮然として垣に寄りかかっている。
「泡が立てば立つほど汚れが落ちるっていうけど、本当か?」
菊は無言で、布を力任せにバサバサと振るった。
泡が散ってかかるのを、慶次郎は飛び退いて避けた。
「黙って引っ越すから、探すのに苦労したぞ。」
菊が泡を落とすのもそこそこに、布を洗い桶に入れて家の中に入ろうとするので、慶次郎は彼女の腕を掴んだ。
「おい、待てよ、姫君。話を聞けよ。そっちだって話をしたくって、俺を訪ねて来たんだろう?」
「離してよ、訪ねてなんかいないわよ。」
「門番たちが言っていた、茶色い巻き毛の女が訪ねてきたって。」
「そうよ、美人の奥方と可愛い御子息にもお会いしたわ。」
菊は、かあっと頭に血が上ってしまって、言わずもがなのことを付け加えてしまった。
「奥方がいるなんて、一言も言わなかったじゃない!」
慶次郎は驚いたようだった。
「姫君だって、結婚しているじゃないか。」
菊も言ってしまってから、激しく後悔していた。
これではまるで、嫉妬しているみたいだ。
慶次郎の目が炯々と光って、大きく一歩、彼女に向かって踏み出した。
菊は後ずさりした。
「姫君、姫君って呼ばないでよ。」
不貞腐れて吐き捨てた。
「今日食べる物があるかどうかしか頭に無く、地面にこぼれた施粥を口にしようとしたあたしが……もう、姫君でも何でもないわよ!」
慶次郎は眉根に皺を寄せた。ちょっと息を整えて感情を鎮めると、押し殺したような声で言った。
「何処へ行こうと、何があろうと、自分を見失いたくない、そう言ってなかったか。忘れたか。俺にとっては姫君だ、今でも。」
菊の胸の奥にその言葉は響いた。でも、彼女は動揺する心をねじ伏せた。
「何言ってるの、あたしを姫君じゃなくしたのは誰?裏切り者!もう二度とあたしたちに近づかないで!」
慶次郎は、がっと菊の両肩を掴むと、家の外壁に押し付けた。
桶は彼女の手からすべり落ち、辺りに洗濯物を撒き散らしながらころころと転がっていき、井戸の木枠にぶつかって、ようやく止まった。
「俺は裏切り者なんかじゃない!頼む、信じてくれ!」
それは今まで彼女が見たこともないほど、真剣な目だった。
「上杉を探っていたのは認める、でも武田のことは一切、知らせていない!武田の討伐に力を貸してはいない、本当だ!」
彼がぎゅうぎゅう彼女を壁に押しつけるので、板がきしんだ。腕が折れそうだ。
「い、痛い、離して……。」
菊は弱々しく言った。
慶次郎は、はっとして手を離した。
菊はへたへたとその場に座り込んだ。
慶次郎は彼女の前にかがみこんだ。
「俺は前田の家の者であって、前田の家の者ではない。俺は何処にも属する場所が無い人間なんだ……。」




