第66話 変遷
めちゃくちゃになった店はもう、使い物にならなかった。元々、修繕に修繕を重ねて使ってきたし、手狭だと思っていたのだ。
菊は引越しを決めた。
松が時折、興行を行っている河原の小屋も同時に増築して、人が住めるようにした。一行は、松の一座と菊の店の従業員に別れて、暮らすことになった。
すると、実は結婚したいと思っている、と言い出す者たちが四組も現れて、菊を驚かせた。考えてみれば、生きるか死ぬかの脱出行の後、男女が一つ屋根の下で長い間共に暮らしていれば、そういう成り行きになるのは、ごく自然なことだった。菊は最初こそ驚いたものの、すぐ、家来たちの幸せを祝した。その中には揚羽と新兵衛の姿もあった。ささやかながら、祝いの宴が催された。
「姉上。あなた一体どう思っているの?」
座も随分乱れてか、酔って歌うダミ声が遠くから聞こえてくる、誰もいない暗い舞台に姉を呼び出した松は、切り口上で言った。
又、何を言われるんだろう、と菊は思わず身構えたが、松が言い出したことは、彼女の予想外のものだった。
「どうって……何が。」
「何がじゃないわよ、達丸のことよ。」
「達丸?」
達丸は数えでもう五歳になる。督姫と明姫は七歳になって背も伸び、めっきり女の子らしくなったが、達丸はまだまだ幼児体型で、毎日友だちや犬ころたちと泥んこになって走り回っている。でも友だちが皆、色黒でがっちりした体つきなのに比べ、色白でどこかひ弱な印象だ。
「あの子は武田の嫡流よ。」
松は咎めるような口調で言う。
「今後、どういう道を歩ませるか。女の子たちは、姉上みたいなズボラな人にはとっても任せておけないから、あたしが面倒を見る。でも達丸の将来のことは、ちゃんと考えてちょうだい。男がいない以上、年から言ってもあなたが一応、武田の当主なんだから。武者修行させて立派な武将に育て上げ、ゆくゆくはお家再興を図る、泉下の兄上も父上もそれをお望みのはず。あなたは人生五十年の半分以上いっちゃっているんだから、あの世で御先祖さまに顔向け出来ないようなことだけはしないように。じゃ、任せたわよ。」
ぽんぽんぽん、と言いたいことだけ言うと、松は皆の居るほうへ戻っていってしまった。
菊は達丸と共に、五条に借りた新しい店に移った。揚羽と新兵衛夫婦、職人をしている者数名と、妙をんら女子衆も一緒だ。大きな広い店で、菊はようやく自分の居間を持つことが出来た。
この店を世話してくれたのは実は、修道士のジョアン・ロドリゴだ。菊の熱心な仕事ぶりを見て、根は気のよいジョアンは、ひどいことを言ってしまったのをずっと悔やんでいた。菊はジョアンの厚意を有難く受け入れることにした。
ジョヴァンニは最近、菊が元気が無いのが気にかかっていた、が、一体どうしてなのかはわからなかった。達丸が大きくなってきて教育も必要であろうと思い、セミナリオに入れるよう勧めてみたものの、信者にするつもりはない、と菊に断られた。
悩んでいる人物はもう一人いた。
揚羽だ。
「お手討になっても文句は言えないのです。」
揚羽は萎れて菊に告げた。
「不義密通を働いたのですから。」
菊は笑った。
「嫌ね。不義密通なんて大袈裟な。武田はもう滅びたのよ。兄上たちは、私たちがこれからもずっと武田の亡霊に縛られて生きていくことなんてお望みじゃないはず。」
「そうとは思えませんが……。」
「じゃあ、こう考えましょう。良い子を産んで、その子を達丸の忠実な家臣にしてちょうだい。そうすれば武田の前途も安泰よ。」
そう言って、揚羽を下がらせたものの、実は武田の亡霊に一番縛られているのは、菊自身だった。
松の言葉は、彼女の心を呪縛していた。
妹に言われるまでもなく、達丸のひ弱さは、菊の密かな悩みの種だった。
この年頃の男の子の力関係はわかりやすい。声の大きい子が勝ちなのだ。おっとりのんびり育てられた気のいい達丸は、いつも皆の尻にくっついて歩いていた。自分より年下でも、気の強い子の命令に、唯々諾々と従っている姿を見ると歯がゆかった。
身分も家柄も失ったこの身で、家来でもなくあくまで友だちの相手に、達丸の将来のために大将として扱ってくれ、とは言えなかった。
もっと達丸を鍛えなくては、おのずと人が従うように。
でもどうしたらいいのか、皆目、見当がつかなかった。
ちゃんとした武家ならば、この年頃になると母親の元から離されて、しかるべき男の守り役の下で、大将になるべく教育がなされるのだが。
何か手を打たねば、と焦りながら、日々の生活に追われる菊だった。




