第58話 昔馴染み
紅はため息をついた。
「御前さま、私の気がかりはもう一つございます。南蛮寺のことです。」
「それなら心配は要らない。」
菊はきっぱり言った。
「あたしは信者じゃない。これからもなるつもりはない。あたしは職人よ。注文を引き受けたらお客さまの納得のいく仕事をする。それだけよ。そうしなければ生きていけないもの。」
「宇留岸さまのことは存じております。」
「オルガンティーノさまのことね。」
「ええ。とても良いかたです。でも南蛮人にも色々な人がいます。中にはあまり感心しないような者もおります。そういう人々とあの寺は密接に関わっているのです。」
「あたしはあの寺の内部事情には関わっていない。これからも関わるつもりは無い。」
ジョヴァンニは言った。
南蛮人は、特に商人たちはあまり信用されていません。でも私は、我々が決して怪しい者ではないことを知ってもらいたいのです。あなたに、南蛮と日本を繋ぐ架け橋になっていただきたい、と。
又、架け橋。あたしってこういう役回りなんだろうか。
前は見事に失敗した。でも今は、四の五の言ってる余裕はない。馴れぬ言葉を話したり読んだりするのも仕事の内。やらねばならぬ。
いっぽう紅は、菊は本当に何も知らないんだろうか、と思った。
南蛮の商人たちの中には、日本人を海外に売り飛ばして儲けている者もいる。教会もそのことを知っている、でもそれを見て見ぬふりをしている。
本国では人身売買は破門の罪だ。これは死んだ後、魂が永遠に地獄送りになってしまう一番重い罪である。でも海外の教会は資金が無い。その教会を支える重要な柱の一つは、商人たちの献金だ。
「あなたは堺の商人だから、あたしより南蛮のことについてはよく知っていそうだわ。」
そういえば。
菊は紅の顔をつくづく見た。
化粧を変えている。
(異国の人間にも違和感の無いように)
堺には南蛮人が多い。重要な商売相手に嫌な思いをさせないように、越後にいたときとは別人のようになっている。
今までこの女のこともよくわかっていなかったんだな、と思う。
(絵を描いてきたから、わかるようになった)
「でも、あたしのことは心配しないで、大丈夫だから。」
そこへ
「邪魔するの。」
と、ずかずか入ってきた人物を見て、紅があっと声を上げた。
「陸奥守さま。」
信虎だった。
「そなた、紅ではないか。」
彼も又、紅を見て驚いたようだった。
「生きておったか。」
「はい、お加減さまで。」
菊が、ようやく話に割って入った。
「お二人ともお知り合いなのですか?お祖父さま、こちらは越後の四辻御前さまでございます。」
「ご挨拶が遅れました。その節は、有難うございました。」
紅は深々と頭を下げた。
「そうか。そちならば生きぬくと思うとった。」
「陸奥守さまもよう御無事で。」
「何、わしゃ死にゃせん。」
信虎は事も無げに言った。
「そういえば」
紅はにっこり笑った。
「その昔、鞆公方{足利義昭}が、石山本願寺や浅井朝倉を指揮して右府殿を追い詰めた謀にも、陸奥守さまが深く関与していらした、とか。思い出しますわね、光源院{足利義輝}さまのことを。」
「ふん、結局又、しくじってしもうて、『例』の狂歌通りの仕儀と相成ったわい。それもこれもあの、情けない息子のせいよ。ところで『借り』は返してくれるんじゃのう。」
「いつでも。」
「今はよい。覚悟して待っとれ。ところで今日はどういう……いや、わかった、菊を連れ戻しに参ったか。」
「たった今、断られたところでございます。」
紅は立ち上がった。
「今日はこれで失礼させていただきます。又、ご機嫌伺いに参ります。」
「どうぞ、歓迎するわ。でもさっきの話は何度来ても無駄よ。」
正直言って、と菊は笑った。
「京に来たばっかりのときだったら、へいこらして上杉に戻ったと思う。でも、そうしたらあたし、一生後悔して過ごしたと思うわ。」
紅を見送って、信虎が言った。
「ふむ、上杉の側室は公家の娘と聞いていたが、まさかあれが戻っていたとは。やれやれ、そなたが上杉に戻りづらい訳もわかったわい。ほんに、難儀なことよの。」
「ほっといてください。ところでお祖父さま、どうして紅のこと、御存知なの?」
「わしが光源院の御伽衆をしていたとき、今参り{新人}の女官として働いておった。お側仕えするには身分が低いので、四辻の養女として上がったのじゃ。あれは大層腕が立つ。」
「知ってるわ。越後に居たとき、危ういところを助けてくれたの。」
「光源院が、自ら手をとって剣を教えたものよ。前の公方は剣の達人で、最期は逆賊に囲まれ、自ら剣をふるって倒れたのじゃ。光源院の寵愛深く、成長の暁には側室に召し上げられるだろうとのもっぱらの評判じゃった。あれの美貌は京でも名高かったからの。前の関白{近衛前久}も大層お気に入りじゃった。」
「堺の新興商人でもある、とか。」
「堺の商人。呂宋屋のことかもしれん。」
「るそんや?」
「納屋助左衛門。堺で売り出し中の新興商人といったらあいつじゃ。いや、わしもよう知らん。殆ど一年中航海に出ておって、日本におるのは初夏から初秋までという話じゃ。」
初夏から初秋。では主人は今、日本に居るということだろうか。
若も最近元気無いんでさ。あの人、ああいう性格だから何も言わないけど、あっしらにはわかりますよ、海眺めてぼんやりしてますよ。お頭、戻ってくださいよう。
手下たちが懇願していたっけ。
「ところでどうじゃ、南蛮寺のほうは。」
「お祖父さま、有難うございます。」
菊は頭を下げた。
「南蛮寺の仕事をすることで生活も安定しました。ご親切には言葉もございません。」
信虎は人の好さげに笑った。
「そなたは太郎{信玄}や四郎{勝頼}と違って根性がありそうじゃ。足掻いて、しがみついて、何処まで生きていけるか、わしも見とうなってきた、それだけじゃ。」
後日、菊は、信虎が、菊の仕事した分の何がしかを自分にもよこせ、と要求していることをジョアンの口から聞いた。




