第55話 風見鶏
もう自信が無いなどと言っていられなかった。
それからの菊は油絵の具を捨てた。もともと手に入りにくい、しかも上手く扱えない素材を無理に使うことはないと思った。描線には慣れた墨を使い、媒材{色を展べて定着させる材料}も膠を使うことにした。金箔を張り、山や岩、青海波の描写も狩野のそれに倣った。建築物の遠近法は西洋流の一点透視ではなく、大和絵の吹き抜き屋台の逆遠近法{東洋画によく見られる、空中から地上を見下ろしたような描き方}に近いものにした。
何かが吹っ切れたようだった。
彼女が描く人物はぐんと硬さが取れた。もう、天井を空ろな目で見上げる青ざめた人物の絵で、上長たちの顔色をそれに負けず劣らず青くすることもなくなってきた。
絵の上達と共に菊は、教会の人々とも顔馴染みになり、その小さな社会に受け入れられるようになっていった。
しかし彼女は信者になろうとはしなかった。
ジョアンに言われた言葉は、彼と仲直りした今でも、魚の骨のように彼女の喉に刺さっていた。彼女はある日、思い切ってオルガンティーノ神父に訴えた。
「信者でない私が聖画を描くなんて、やっぱりおかしいと思います。でも私には、どうしても信者になることが出来ない事情があるのです。」
それは先祖の供養の問題だった。キリスト教徒にならずに死んだ者は永遠に天国に行くことは出来ないし、キリスト教徒が供養することも出来ない。
「神仏に祈るだけだった者たちは結局皆、死んでしまいました。たくさんの立派な寺社を建て、大勢の神官や僧侶に日夜家の安泰を祈らせたのに、いざ家が滅ぶときに神も仏も何もしてくれなかった。私はもう、何にもすがりません。今ある人生を精一杯生きて、死んだらきれいさっぱり、無にかえりとうございます。」
でも、と菊は言う。
自分の考えがどうであれ、父祖の願いを無にするにはしのびない。
オルガンティーノは暫く考えていたが、菊を庭に連れて行った。
「この教会を作ったのが誰だか、御存知ですか?」
菊は振り仰いだ。
屋根に付いている風見の鳥がカタン、と音をたてて回った。
「信者の方々、でしょう?」
「この教会を建てた当時、信者はまだあまりいなかったのです。ここを建てるのに力を尽くしてくれたのは実は、キリスト教徒でも何でもない、この近所に住む人々でした。彼らは釘を四、五本、お昼のおかずの魚を二匹、といった具合に自分の出来る範囲で精一杯好意を分けてくれました。私はまだ若輩者でしたが、人々の優しさに触れて感動しました。そして思ったのです、この国の人々はキリスト教を知らない、それなのに生まれつきキリストの教えを身につけているのだ、と。」
そう言って、オルガンティーノは苦笑した。
「だから私は日本贔屓だと言われてしまうのですが……。ともかく教会に通ってください。最初は皆、信者ではなかったのですから。あなたがGesùと共に生きる日が来ることを私たちは心から待っています。それまで共に歩んで参りましょう。」




