第44話 ややこ
武田家は源義光以来数百年続く清和源氏の末裔で、と武田の家の者ならば誰もがそらんじているほどだったが、実際御所に足を踏み入れる日がくるとは誰もが思ってもみないことだった。父・信玄も上洛する途中、駒場の露と消えたのだ。
「あやつめが甲斐の山奥で猿どもを相手に権謀術数に明け暮れている間、わしは一足先に上洛を果たしておったのじゃ。」
憎々しげに言う信虎の話など、玉砂利を踏む音にかき消されて誰の耳にも入らなかった。
塀ひとつ隔てた二条御所の周辺はすっかり焼け野原だった。本能寺の変からしばらくはここ御所にも避難民が入りこんで、清涼殿の庭先にみすぼらしい小屋がぎっしりと建っていたという話だったが、明智光秀を倒した羽柴秀吉は、都に乗り込むとすぐに避難民を立ち退かせ、御所の塀などを修理した。
白い玉砂利はそんなことがあったのが嘘のように、朝露に濡れて清らかに光っている。
厳かな景色に、菊たち一行はすっかり舞い上がっていた。ずいぶん歩いて、奥にある寝殿造りの大きな建物の前庭に通された。
建物の前面には御簾が下りていて、中を透かし見ることが出来ないようになっている。庭には俄作りの舞台が出来上がっていた。周りには四、五本の小さな松の鉢が並べられている。
「ヒョッヒョッヒョッ。満座の中で恥を掻いて来い。」
憎々しげに言い捨てて信虎は去ろうとした。
その背中に松は、
「まあ、見てらっしゃい。後で恐れ入りましたって言わせてやるから。」
声をかけた。
信虎は鼻で笑うと、建物の中に姿を消した。
一同は舞台に上がった。松と菊の後ろに家臣たちがずらりと並んで、皆、平伏した。
御簾の後ろから衣のすれる音や咳払いの声がして、公家衆が席に着いたようだった。
「皆さまおそろいじゃ。始めよ。」
お付きの女房らしい人の声がした。
松と菊はかしこまると、囃子方に合図した。楽の音が流れ始めた。
松と菊は着物の裾を翻し、踊り始めた。二人とも、真っ赤な地に華やかな菊の花を染めた色とりどりの切れをつぎはぎにした着物を着て、頭は紫の矢絣を染めた切れで深く包み、僅かに鼻筋と口元だけが見える。
「顔が見えると年がばれちゃうしね。」
まるで少女のように幼く見えるこの衣装は、松と揚羽が苦労して考え出したものだった。
「誰が言い出したか知らないけれど」
松は言う。
「『踊り』なんて下賤なものを宮中でお見せするなんて、大方今、巷ではやっているものを一度見てみたいなんていう殿上人の気まぐれに決まっている。それにあの偏屈爺さんが乗っかったのよ。今、北野で皆が踊り狂っているようなのを公家さんにそのままお見せしたら、きっとびっくりして腰を抜かしちゃうわ。ああ、だめだめ。姉さまは昔っから舞は下手くそで話にならないし……そう、いっそのこと、うんとつたなく……子供の踊りのように見せたらどうかしら?」
身は浮き草よ
根を定めなの 君を待つ
去のやれ 月の傾くに
苦心の衣装は大変可愛らしく、やや調子の速い楽の音に乗って、身振り手振りをそろえて踊る二人の姿に、御簾の内からは、
「ああ、ややこしなあ。」
「ほんまに、ややこのようじゃ。」
「ややこ踊りじゃ、ややこ踊りじゃ。」
と感嘆のため息が漏れた。
松が危ぶんでいた菊の踊りも、猿若の指導のおかげか本人の努力の賜物か、目だったほころびも無く、必死の練習の甲斐があったというものだった。
ややこ踊りが終わると、松は頭に被った布を取り、木立の影で素早く衣装を換えて、今度は一人で踊り始めた。
集団で演じるもの、という踊りの概念からは外れているが、自分ならば今まで誰もやらなかったこと、やれなかったことが出来る、という松の自信のなせる業だった。
衣装は商売ものの古着の切れ端を上手に縫い合わせた、大人びた落ち着いた色合いのもので、踊りは先ほどとは打って変わって艶やかで巧みなもので、大人の色気を感じさせた。
これ以上無いほど晴れがましい舞台は、彼女の本領を遺憾なく発揮させた。
昨日から今日まで 吹くは何風
恋風ならば しなやかに
靡けや 靡かで 風にもまれな
落とさじ 桔梗の空の露をば
しなやかに吹く 恋風が身にしむ
見物人は、
「ほう、今度は先ほどのややこのかかの踊りでございますなあ。」
「かか踊りじゃ、かか踊りじゃ。」
皆、一層満足したようだった。
踊りが終わって、松が平伏すると、正面の御簾の中から女の声がした。まだ若い女のゆったりとした調子の声である。
「見事な踊りじゃ。褒めて取らすぞ。ややこを踊った女も前へ。」
菊も松の横に並んで平伏した。
「名乗るがよい。」
松が答えようとしたとき、菊が言った。
「菊、と申しまする。」
「菊……そなたらを紹介した無人斎殿の子、武田信玄入道の正室は我が親戚の三条家の娘。確か、義理の娘に菊という女がいると聞いたことがある。そちゃ、武田の家の者なのか?」
松は、馬鹿正直に本名を名乗った菊にも、何か適当な辻褄合わせをあらかじめ考えておいてくれなかった信虎にも呆れる思いだった。もし、視線で人が殺せるものならば、今の松の視線は確実に二人を射殺していたに違いない。
「いいえ。」
青ざめて俯く菊に代わって松は、はっきり答えた。
「私共は武田の家とは何の関係もございませぬ。これなる一座は出雲の出、私は国と申します。」
するすると御簾が上がった。
そこに座っているひとの姿を見て松は、あっと声を上げた。
それは本能寺の変の折、二条御所から助け出した女性だった。
(そうか、誠仁親王の女御!)
火が迫る中、松は誠仁親王とその妃を守って御所に駆け込んだのだった。
「あの折は気も転倒していて、礼も言えず別れてしまった。命の恩人にぜひもう一度会いたくて、無人斎殿には苦労をかけました。」
女御はじっと松を見ながら言った。
「あの炎の中、よく助けてくださった。礼を言います。来月は神無月、日本国に住まう全ての神々が西の方出雲の国に集まる季節。私は遊芸が好きで、実家に居たときもよく、芸人を招いて芸をさせておったが、『国』というのは遊芸人の女首長が代々継ぐ名前じゃそうな。そなたは亡き城介殿とも知り合いであるようじゃった。本名を明かせぬ事情が色々あるようじゃが……そなたの芸は本物じゃ。まこと、天下一でありますぞ。そなたの一座に神の御恵みのあらんことを。どうやら出雲に集まった日本中の神の助けが必要なようじゃからの。」
さらさらっと御簾が下がった。
人々が静々と退出していく音がして、寝殿は又、静けさを取り戻し、菊たち一行だけが取り残された。皆、腰が抜けたようになって、動けない。
松は舞台につっぷしたままだ。
菊は松が泣いていることに気がついた。
「あ、あの、ごめんね、松。」
菊はおろおろと声をかけた。
「私、ドジばっか踏んじゃって、気にくわなかったのはよくわかるけど、わざとやったわけじゃなくて、これでも一生懸命……。」
「ううん。」
顔を上げた松は、涙のたまった目のまま、にっこり笑うと、居住まいを正し、皆にむかって頭を下げた。
「私今まで、舞うのは、ひとに褒められたり、素敵な衣装を見せびらかすためだった。でも踊りは、つらい仕事や嫌なことを吹き飛ばすんだってことがわかったわ。地味な舞のおけいこが嫌だと思ったこともあったけど、私が今これだけ踊れるのは、ずっとつまらない練習を積み重ねてきたおかげだっていうことも、下賤でくだらないと思っていた踊りがこんなにもすばらしいものだってこともわかったわ。それもこれも、決して舞いが得意でないのに付き合ってくれた姉上や、仕事の後で疲れているのに囃子方を手伝ってくれた皆のおかげよ。」
これは夢だろうか。松がひとに頭を下げている姿を見るなんて。
皆、感動した。
でもその後、彼女の口をついて出た言葉は、やっぱり松のものだった。
「でも何よりやっぱり、私が上手かったおかげよね、お褒めの言葉をいただいたのは。天下一、天下一、よ。すごいと思わない?ねえ、これで終わらせるのはもったいないわ。私の踊りを見たいっていうひとはもっといる筈。毎日じゃない。たとえば、寺の市日にでも、人通りの多い、そうね、四条河原なんかで小屋をかけてみたらどうかと思って。もちろん、主役は私。相方は……え?姉上はもう嫌?そうね、あなたじゃ先の見込みは無さそうだし。もっと若いほうがいいわ。皆に教えるから、おいおい決めていくことにして、ええと……。」




