第39話 二条御所
何処をどう通ったのかさえ記憶に無かった。
信忠が襲撃を受けた、という言葉を聞いたとたん、松の頭は真っ白になった。
松明を掲げて走り回っている武者たちに見つからないよう暗い小路を身をすくめて走り、土塀を乗り越え、公家屋敷の裏庭の破れた築地に無理やり身体を押し込めて潜り、気がつくと、何処かの屋敷の真っ暗な庭の真ん中に呆然と立っていた。髪は乱れ、着物にはかぎ裂きが出来、手足は引っかき傷だらけだ。屋敷の表のほうからは人の叫び声、慌てて走り回る音、ガラガラと車の通る音、鎧や刃物がガチャガチャと触れ合う音がしている。つうんといがらっぽい煙の匂いもしてきて、喉の奥が痛くなった。
突然、バラバラと兵たちが飛びだしてきて、松は地面に押さえつけられてしまった。
「怪しい奴め!どうやって入り込んだ!」
口々に喚きながら松を小突き回す。皆、殺気立っていて何をされるかわからない。
地面にぐりぐりと顔を押し付けられて、這いつくばった松の頭上から声がした。
「乱暴はならぬ。見れば女だ、離してやれ。」
松は首を捻じ曲げて声の主を見上げた。
そこには信忠が甲冑に身を固めて立っていた。
兵士たちは松を、信忠の前に引き据えた。
「女。お前が何処から来たか詮議している暇は無い。もう、すぐそこまで敵が押し寄せているのだ。」
奇妙丸さまが私に話しかけてくれている。
絵姿だけで話もしたことのない、でも婚約者だったひと。
建物の奥から何かが倒れたような大きな物音がして、信忠はちょっと後ろを気にした。が、又、松に話しかけた。
「時間が無い。会ったばかりだが、信用してもよいか。」
松は夢中でうなずいた。
「頼みたいことがある。今、外には逆賊が押し寄せている。今にも門を破って侵入してくるだろう。俺も武門の家に生まれた者だ、この館を枕に討ち死にしても何の悔いもない。しかし、この御所には誠仁親王とその妃がおいでだ。公家衆は何の関係もない。巻き込むのは不本意だ。だから、そちはあの方たちをお連れして、来た道をたどって落ち延びてほしいのだ。やってくれるか。」
「わかりました。必ず。」
松の返事を聞いて、信忠は配下の者に宮たちをお連れするように言いつけた。
兵士たちも持ち場に戻ると、二人きりになった。
「不思議だ……そなたとは初めて会ったのに、懐かしいような気がする。」
信忠はまじまじと松の顔を見つめた。
「このような時に、かような場所で会ったのも、前世の縁あってのことだろう。そなたを見ていると、会ったことがないのに懐かしいひとのことが思われてならない。」
このときが永遠に続けばいいのに。
この世に信忠と二人きりのような気がした。
絵なんかより、実物のほうがずっと素敵。
「家と家が戦をすることになって、私はそのひとを失ってしまった。一国の主の家に生まれ、まして嫡男という立場上、父の望みどおり戦をするのに何の後悔も無い、そう思っていたはずなのに。どうしても忘れられなくて、とうとう正室も迎えなかった。行方不明になったそのひとの安否が気になって、父の反対を押し切って行方を捜させた。その返答も届かぬうち、こんなことになってしまった。今更言うても詮無いことではあるが。」
独り言のように言った。
「ところでそなた、名は何という?」
松が答えようとした、その時だった。
唸りをあげて、火矢がいくつも飛んできて、御簾に刺さった。たちまち炎をあげて燃えはじめた。
館の奥から小袖を被った人々が、どやどやと転がるように出てきた。
「さあ、急がないと!」
信忠は我に返って松に言った。
「頼んだぞ!」
彼の初めての、そして最後の頼み。
「お任せください。」
松は信忠と目を交わした。
気づいて。お願い。
彼は気づかなかった。
「さようなら。」
別れを告げた。
松は彼への思いを振り切って、木の葉のように震えている小袖を被った女の肩を抱いた。まだ少女といっていい年齢の娘で、つぶらな目を見開いて怯えていた。
「こちらでございます。足元お気をつけて。」
松は人々を先導して小走りに庭を抜けていった。
信忠は宮たちが遠ざかるのをじっと見送った。小姓から槍を受け取ると、炎の中へと戻っていった。




