第38話 本能寺
信長は京に入った。
武田を滅ぼして日本の中央を平らげた彼は、北は上杉、西の毛利に対峙して益々戦線を拡大していたが、西の毛利と戦っている羽柴筑前守の要請で出陣の途中、京に滞在することになったのだという。
御所に程近い妙覚寺には、嫡男の信忠が滞在している。信長はそこに泊まるかと思われたが、蛸薬師柳番場に程近い本能寺に滞在するということだった。
(右府が居る。武田の仇が)
あたしはこんなことしてていいんだろうか。
五条の橋の上で信長と出会って以来、菊は仕事が手に付かない。
(右府は市中の寺に、供回りの者も少なく泊まっている)
御上や公家たちと毎日のように茶会を開いたり、歌を詠んだりして、暢気に過ごしているというではないか。
(これは絶好の機会だ、見逃す手は無い)
ああ、あたしに今、武田の一部隊でもいい、手元にあったら。
(いや、決めたんだっけ)
菊は自分で自分を叱りつける。
今ある状態を嘆かない。
では、どうしたらいい?
一人刃を身に帯びて、信長の元に斬りこむか、死を覚悟して。
だが、達丸は?松は?
残された者たちはいったいどうなる?
あの男が居る限り、武田の一族に明日は無い。あの男は自分に逆らった者たちを決して許しはしない。地の果てまでも追い求め、その息の根を止めるまで休むことはないだろう。
(私たちには達丸がいる)
武田の当主の地位を、あの、裏切り者の穴山梅雪なぞに渡してなるものか。
もう武田の家は滅びてしまって、自分たちは姫君でも何でもない、だから当然、達丸も若君でも何でもないはず、だったのに、そんなことはすっかり頭から抜け落ちている菊だった。
(武田の正当な跡取りは四郎兄さまの子、達丸しか居ないのだから)
菊の心は決まった。
翌日、本能寺に行ってみた。
しかし、そこは彼女が思っていた『寺』ではなかった。堀と土居をめぐらしたそれは、小さいながらも完璧な『城』というべきものだった。せめて信長の姿を一目なりとも、としばらくたたずんでいたが、番兵に不審がられて追い払われてしまった。
(だめだ、何か策を練らねば)
一端戻って考えることにした。
だが、行動を起こしたのは、別の者のほうが早かった。
その夜、橋の上を入り乱れて走り回る人々の足音で皆、目を覚ました。
大きな荷車に家財道具を溢れんばかりに積み込んだ人々が、次々に橋を渡って東山へと避難していく。橋の向こうでは炎が赤々と夜空を焦がしている。空からは梅雨の憂鬱な雨がしとしとと降って止まない。
「夜の火事は近く見えるものです。」
手をかざして火元の見当をつけながら、猿若が言った。
「あれは四条堀川の辺りでございましょう。」
その時、北の方角に新たな火の手が上がった。
「もう一つは御所のほうですね。」
猿若がつぶやいた。
「いったい何があったんです?」
逃げてくる人を捕まえて、揚羽が尋ねた。
右府が三河守を討ったのだ、という者もいれば、いや、城介が謀反を起こした、という者もいて、情報が錯綜していた。
ようやく本当のことを教えてくれたのは、商人らしい四十がらみの男だった。
「夜討ちさ。四条西洞院にある寺が燃えている。境内は桔梗の旗で一杯だ。」
「御所も燃えているんですか?」
「いや、あれは御所じゃあない。御所の近くにある、二条御所だよ。城介殿が逃げ込んだという噂だ。」
忙しく応えて、男は足早に立ち去った。
菊と揚羽は声も無く顔を見合わせた。
本能寺だ。
誰かが信長を襲ったのだ。そして、その何者かは、二条御所に居る信忠をも手にかけようとしている。
菊ははっとした。
「松……松は?」
妹の姿は何処にも無かった。
菊はすぐにでも本能寺に駆けつけたかった。信長がどうなったか知りたかった。でも妹を放っておくわけにはいかなかった。松は二条御所に向かったに決まっている。
(馬鹿な。何故、城介にこだわる?紙の上の婚約者じゃないの)
菊には、あんなに現実主義者だった妹が、甲斐を離れた途端、現実を受け入れられなくなってしまったことが、どうしても理解できなかった。
子供たちは女たちに任せ、揚羽には郎党たちと河原を探すよう言いつけ、菊は猿若と三九郎を連れて二条御所へ向かった。三九郎にも子供たちと留守番するように言ったのだが、どうしても付いていくと言って聞かなかったのだ。
逃げる人々の流れに逆らい、川岸を北へたどりながら、菊は妹に心の中で呼びかけた。
(松……お願いだから、いい加減目を覚まして。私たちはここに居るしかない。ここで生きていくしかないのよ。この町で)
四条の近くに差し掛かったときだ。
菊たちは誰かが大声でわめいているのを耳にした。
避難民はもうあらかた通り過ぎてしまったらしく、人通りの絶えた町の何処かから、その声はしてくる。合間合間に重い物がどおん、どおんと何かにぶつかるような音、それに混じって叫び声や弓弦の鳴る音がしている。
菊が足を止めたのを見て猿若が言った。
「菊姫さま、参りましょう。何者かが戦っているようですが、巻き込まれてはなりません。早く松姫さまを探しに行かないと。」
「でも、猿若」
菊は耳をすました。
「でも、あれ……泣いてるんじゃない?ほら、助けてって言っているわ。誰かが助けを求めているのよ。放ってはおけないわ。」
「姫さま、今、町は助けを求める人で一杯だぜ。」
三九郎も口を挟んだ。
「全部助けて回っちゃ、こっちの身が持たないよ。」
「でも。」
どう、なんとかなら、とつぶやくと、菊は物音がするほうへ走り出した。
猿若と三九郎も仕方なく後に続いた。
それは米を商う大きな店の前だった。十数人の兵たちが店を遠巻きにしていた。桔梗の旗が、火事が起こした強い風にあおられてはためいている。彼らが囲む店の中は明かりも消えて、どうなっているのか、よくわからなかった。異様な叫び声はその中から聞こえてくるのだった。叫び声の主はどうやら泣いているらしかった。だが、暗い店の中からは、ぽうん、ぽうん、といくつもの重そうな米俵が軽々と放り投げられてくる。地響きは米俵が地に当たる音で、米俵の直撃を受けたらしい兵が何人も、店の正面に長々と伸びたまま、放って置かれていた。
「こりゃどうも……囲んでいる方を助けなくてはならないようですな。」
猿若がつぶやいた。
「いや……ちょっとマズイのが出てきたよ。」
三九郎が指差す先に、鉄砲を担いだ兵たちがバラバラと展開した。
「助けてやりましょう。一人に大勢でかかって、卑怯だわ。」
菊はきっぱりと言った。
「御意。」
猿若が何か言いたそうな三九郎を制して応えた。
「私どもがあの兵たちをひきつけておきます。その間に姫君は店の裏口から中に入ってください。でも、あの声の主は錯乱しているようです。くれぐれもお気をつけて。」
隣の大きな屋敷との垣根の破れ目に無理やり身体を押し込んで、菊は問題の家の庭に入り込んだ。京の家は間口に税をかけられるため、どれも細く長い『鰻の寝床』と呼ばれる形で、内部の造りも皆似ている。布袋屋に奉公に行っているのが思わぬところで役に立った。
(始まった)
表のほうで爆発音が幾つかしたかと思うと、兵たちのどっとどよめく声があがった。
「後詰だ、安土から後詰が来たぞ!」
怒鳴っているのは三九郎の声だ。
菊は身を低くして家の中に滑り込んだ。
土間には家財道具がひっくり返って乱雑に投げ出されている。家の者は着の身着のままで逃げ出したに違いない。先ほどまでわめいていた声は、地を這うような低い呻き声に変わっている。
菊は暗闇の中、声を頼りに進んでいった。
店の正面を臨む帳場の辺りに、箪笥や長持やその他、ありとあらゆる家具が積み重ねられ、防壁が築かれていた。声はその中から洩れてくる。誰かが篭城しているらしかった。声はわけのわからない言葉をつぶやいていた。
暗闇の中に響く聞きなれない言葉は、まるで悪魔の呪文を唱えているようで、菊はぞっとした。
もう少し近づいて中を覗き込もうとして突いた手が、積み重ねた家具をぐらりと揺らし、大きな音をたててしまった。
声が止んだ。
防壁の中から突然、黒々と巨大な影が立ち上がった。影は頭上に大きな米俵を高々と掲げていた。その米俵を菊に向かって投げつけようとした。
菊は避けようとして尻餅をついてしまった。
次の瞬間、店の表にぱあっと火の手が上がった。火は一瞬、帳場を照らし出した。
米俵を手に立ちはだかっているのは異国の男だった。
炎に照らし出されて尚、彼の肌は漆黒の闇のようだった。上半身には唐渡りの派手な真紅の羅紗の羽織をつけ、カルソンという南蛮渡りの金糸で織られた緑色のズボンをはいていた。
だが菊は、その男の唯一真っ白な目玉から涙が次から次へと溢れ出しているのを見た。
(怖がっている。怖がっているんだ)
菊はその涙を見た途端、急速に心が静まってくるのを感じた。
叫んだ。
「大丈夫よ。あたしは味方よ。あなたを助けに来たの。逃がしてあげる。だから、それを投げないで!」
「誰ダ。」
黒人は片言の日本語で言った。
「本当ニ助ケテクレルノカ。」
「そうよ。あたしは菊。あなたは誰?」
「俺ハ『弥助』ダ。『右府サマ』ニオ仕エシテイタ。『御曹司』ノ元ニ使イニ行ク途中ダッタ……。」
(そうか、信長は信忠に知らせようと……でも、もう手遅れだ)
「あたしも御曹司の元へ行くところだったの。ついていらっしゃい。」
菊は元来たほうへ戻り始めた。
黒人は米俵を軽々と放り出すと、彼女の後ろに続いた。




