第37話 地獄絵
河原の暮らしは不安定で厳しいものだった。その一方、河原は様々な見世物の行われるにぎやかな場所でもあった。橋を渡って東に在る寺々で催しのある日は特に、人出を目当てに様々な芸人があちらこちらで曲芸をしたり人形を使ったり、簡単な出し物をして人々を喜ばせた。働くようになって一人で歩くことの増えた菊も、店からの帰りにそういった人の輪を覗くことが多くなった。
(京の夕方は甲斐のそれよりずっと長い)
それに夕日が大きくてきれいだ、と菊は感じている。
(やっぱり甲斐よりずっと西にあるせいだろうか)
それとも山が低くて空が広いように感じるせいだろうか。
扇屋での仕事の帰り、その尼に出会ったのも、そんな夏の夕暮れのことだった。女ばかり集まっている人の輪があり、しかも、その人たちの顔がいずれも真剣なので、何事だろうと覗いた菊の目の前に広がっていたのは『地獄』だった。
真っ黒な地獄の空の下、血の池に沈む人々、針の山に突き刺されている人々、牛頭馬頭に舌や手足を引っこ抜かれている人々が燃え盛る炎に照らし出されている。一見よくある地獄図に見えたが、一般のそれと違うのは、そこに描かれている人物が全て女だということだった。その傍らには年取った尼が一人、二人の若い尼を従えて、しわがれ声を張り上げて絵解きをしている。
「さあ、見るがよい、これが女の執念の成れの果てよ。」
尼が指差した先には女の頭がついた蛇が二匹からみあっている。一頭は相手の尻尾に噛み付き、もう一頭はお返しとばかりにその首筋に歯を立てている。血飛沫が飛んで二頭の蛇の緑色の胴体はぬめぬめと光っている。
「二人の女が一人の男を争う、両婦地獄じゃ。」
ああ、と声にならないため息が漏れる。念仏を唱える中年女、さめざめと涙を流す老婆たち、ひとしきり読経の声が高まる。比丘尼も声高にお経を唱え、皆それに唱和する。若い尼たちがお香を威勢よく火にくべると、ぱっと青い火が立ち上る。小さな人の輪ながら、匂いと女たちの熱気でむせ返るようだ。
「中でも恐ろしいのはこの罪じゃ。」
比丘尼が声を張り上げて指差した先には、ごつごつした岩の間で這い蹲っている女たちの姿がある。手にした灯心で竹の根を掘っているのだ。青黒い顔をした女たちは呻いていて、身動きもままならぬようだ。
「子を産まず、跡継ぎを作らない女、先祖を祀る子孫を作ることの出来ない女、このような恐ろしい罪を犯す女は、未来永劫許されることのない地獄に落ちるのじゃ!」
ああ、恐ろしや、恐ろしや、と悲鳴が漏れ、泣き声が高まり、お経を唱える声は益々熱狂的になった。
「祈りなされ、ありがたいお経を唱えなされ。喜捨をなされ、仏の道を信じる以外、救われる道は無いのじゃ!」
すかさず若い尼たちが勧進柄杓を持って女たちの間を回り始めた。女たちは競って柄杓の中に銭を投げ入れた。比丘尼は数珠をじゃらじゃらいわせながら、大きな声で念仏を唱え始めた。
菊は目の前に突き出された柄杓を力なく押しのけると、人ごみを抜けて一人、家路をたどった。彼女の丸めた背中を大きく真っ赤な夕日が照りつける。
結婚して、子どもを生み、先祖の供養をする。そんな世の基準に当てはまらない女は救われないものなのか。世の基準って何だろう。何故女は、色々なものに囚われて生きていかなければならないんだろう。女に生まれたっていうだけで、
(罰を受けてるみたいだ)
菊は懐を押さえた。
(これは皆の食事代。達丸の腹具合が悪いから、薬代も要る。それで財布は空っぽだ。寄進なんて……こっちが恵んでもらいたいくらいだ)
お金が無ければ救われることも出来ないのか。
(でもお金に不自由してなかった頃だって、決して満足して暮らしていたわけじゃなかった)
人は一体、何によって救われるのか。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏!」
比丘尼のわめき声が高く細く背後から追ってくる。
「唱えよ、さもなくば、地獄に落ちるぞ!」
(もう落ちている)
菊は頭を垂れて、とぼとぼと歩いていく。
(この世こそが地獄なのだ)
初夏の青空にぽつんと黒雲がひとつ湧いて出たと思うと、見る見る空一杯に広がって、あっという間に地上は夕暮れ時の暗さとなった。一陣の生暖かい突風が吹きぬけたかと思うと、大粒の雨が斜めに降り始めた。雷鳴の轟くなか、雨はどんどん激しさを増していき、あまつさえその粒の中に氷が混ざり始めた。大豆から鶏の卵くらいの大きさの白い雪の玉や透明な氷の塊が音を立てて降ってきて、地面に当たっては跳ね返り、たちまち地は真っ白に覆われた。
菊が一目見たいと思っていた男の顔を見たのは、そんな雹の降る中だった。
その日、五条の橋詰に、公家たちの一行が人待ち顔でたたずんでいるのを朝、仕事に出かける前に見た菊は、揚羽と共に帰ってきた際、人数が更に増えているのを見て驚いた。
「あれは鷹司の家人です。」
揚羽が知り合いを見つけて囁いた。
「堂上衆を路傍で半日も待たせるとは。いったい何者なんでしょう?」
顔を見合わせた。その鼻先にぽつん、と雨がひと粒落ちた。
雨はたちまち目も開けられないくらいの雹と化した。
「夕立はすぐやむものでございますから。」
揚羽と共に橋のたもとに避難しようとした菊はそのとき、何かの気配を感じて振り返った。
雷鳴轟く中、黒々とした集団が橋を渡ってやってくる。バラバラッと音をたてて降りかかってくる雹など意にも介さず、粛々として馬を進める武者の一行だった。彼らは、まるで地の底から湧いてでた魔の使いのように見えた。
先頭にたつのは細身長身の男だった。深く笠を被っているため、尖った顎の部分しか見えなかったが、細く形よく刈り込まれた髭、酷薄そうな薄い唇はきりりと真一文字に結ばれていた。
男は公家たちの正面に馬を立てた。
雹を恐れて扇で顔を隠す者、雷鳴に怯えて蒼白な者、哀れな公家たちは皆、濡れ鼠だ。
「これはこれは、こんなところまでお出迎えなさらずとも結構、と再三申しておりますのに。」
男は馬上から声をかけた。ずぶぬれの公家たちを遥か上から見下ろして、憐憫と軽蔑の混じった感情を隠そうともしない。どうやら、彼は出迎えは要らないと言っているのに、公家たちはいつも迎えに出てしまうようだった。
人々は権力に対して、自ら進んでひれ伏す。権力はおもねる人々の気持ちを食らって、益々肥え太っていくのだ。
男がちょっと笠をあげた。人を突き刺す鋭い目が見えた。
菊の背筋に電光が走った。もう、彼が誰であるかわかっていた。




