孤独な家
お腹の上に、湯たんぽを乗せられているような暑さを感じ、アヒルは目を覚ました。
遮光カーテンの隙間から、鋭い初夏の朝陽が、ベッドに横たわるアヒルの体を斬るように差し込んでいる。
いつもなら不機嫌な顔でその隙間をきっちり合わせ、もう一度、薄掛け布団を頭から被って二度寝してしまうところだけど、その日はムクリと半身を起こし、しばらく黄色い光の筋を見つめていた。
ベッドサイドの目覚まし時計を見ると、朝の7時半過ぎ。
そして、白いコットンのシャツを着て、レギンスを履いて、昨日のままの恰好である。
枕元には白いビーチサンダルがあり、シーツに少し、砂がこぼれていた。
昨日は、行方駅を出てから千葉で一回、都内で二回電車を乗り換え、旗の台に付いたのは結局、夜の8時近くだった。
ちゃんと帰宅できるか不安だったのと、あまりにもたくさんの事がありすぎたのと、ひょっとしたらタケルから携帯に連絡が来るのでは、とか、いろんなことが頭を巡って、電車の中では目を閉じてみても一睡もできなかった。
なので帰宅し、自分のベッドに横になった途端に、熟睡してしまったようだ。
昨晩、帰宅した時、家には誰もいなかった。
アヒルの家は、旗の台の商店街を抜けて10分ほど歩いた静かな住宅街の中にあった。
古い木造の二階建てで、駐車場は無く、申し訳程度の狭い庭が付いていたが、ほとんど手入れをしていない。
刈り込まれることもなく伸び放題の槇の木と、玄関脇のプランターを占領する雑草が、白い小さな花を咲かせているのが痛々しい。
家に入って独り言のように「ただいま」と言うと、廊下の明りを点け、小さな台所の蛍光灯を点ける。
すると、六人掛けのダイニングテーブルの上に、青のボールペンで書かれたメモ用紙があった。
『ちょっと飲んで来るから。冷蔵庫に煮物とかあるから適当にやってね。 ママ』
かつてはこのダイニングテーブルで、父、姉、母、そしてアヒルの4人で、楽しく賑やかに食卓を囲んでいた。
しかし、父は8年前に交通事故で亡くなり、姉は4年前から彼氏と同棲していて、この家には住んでいない。
そして母は、2年前に付き合い始めた男と一緒によく出かけるので留守がちだった。
アヒルは、母が男を家に連れてくるのを嫌がったので、母は相手の家に行くことが多く、自然とアヒルはこの家で一人で過ごすことが増えた。
アヒルは冷蔵庫の中身を確認すると、ため息をついた。食欲はなかった。取りあえず台所を出て自分の部屋に戻ろうと思ったが、ふと思い直して玄関に戻り、タケルの白いビーチサンダルを大事そうに拾い上げて胸に持つと、ペタペタと裸足のまま二階に上がった。
黄ばんだ六畳の畳部屋には、ピンク色の毛足の長いラグを敷き、白のチェストと揃いの本棚があり、化粧道具や雑誌や本、カバンやアクセサリーなどが不愉快でない程度に散らかっていて、まあ、いわゆる普通の女の子の部屋である。
ひとつ違和感があるといえば、白くて小さい、少々子どもっぽい木製ベッドが置いてあることだ。
アヒルは小学校高学年で身長が止まり、結局150センチも背が伸びなかったし、体を小さく丸めて眠るクセがあったので、子供用のベッドでもあまり窮屈を感じなかった。
なので小学生の頃、「お布団じゃなくてベッドが欲しい」と、父にねだって買ってもらったベッドを今でも使っている。
トートバッグを畳の上に置くと、アヒルは携帯と白いビーチサンダルを手に持って、その狭いベッドに転がった。
大きなビーチサンダルは砂っぽかったし、電車や道路を普通にスタスタ引きずりながら歩いてきたけれど、アヒルは汚いとは思わなかった。
手にしたまま、体を丸めてそのサンダルをじっと見つめる。
履きこまれたサンダルの踵は擦り減り、タケルの足型が肉球のように窪んでいた。
大きい足……
その窪んだ指の痕を、
小さな人差し指でくすぐるようになぞってみると、
タケルの笑い声が聞こえたような気がした。
アハハハハ……
ハハハハハ……
あの砂浜に
長い長い、誰もいない砂浜に
歩幅の広い、大きな足あとが、ずっと先まで続いている
その跡を、ぴょんぴょんと踏みながら追っていく
たまに透明な波が砂浜に寄せてきて、その大きな足跡をさらっていこうとする
風がサラサラと砂を運んで、その深い足跡を埋めていこうとする
消さないで……
見失わないで……
昨夜は、そんな夢を見た気がする。
アヒルは珍しく、すぐにカーテンをサッと引いた。
そして窓を大きく開く。
部屋の中に、一気に朝の透明な光が差しこみ、まだ涼しく気持ちの良い風が、寝室の淀んだ空気を外へ押し流していった。
アヒルは眩しさに小さな目を細め、手を大きく伸ばして深呼吸した。
そして、枕元に確かにあるビーチサンダルを見ると、自然と笑みが浮かんだ。
いつか追い付く日は来るのかな……
携帯を確認すると、タケルのものらしき着信は無く、薄い眉毛はがっかりしたように下がったが、それでも笑顔は消えなかった。
アヒルはチェストの一段目の引き出しから水色のハンカチを一枚取り出すと、それをベッドの下に広げて、そこにタケルの白いビーチサンダルを揃えて置いた。
それからシャワーを浴びようと思い、二段目の引き出しから、アクアブルーの小さな水玉模様のパンティーとブラのセットを出し、さらにその下の引き出しから適当に、パステルピンクのTシャツとショートパンツを出して部屋を出た。
二階の狭い廊下に出ると、階下からTVの音と、食器の合わさる音が聞こえてきた。
母親が、いつの間にか帰宅していたようだ。
アヒルは階段を降りて台所を覗き、腫れぼったい目のまま、
「みっちゃん、おはよう」
と声を掛けた。
すると、台所と繋がる和室の座卓で、朝食を食べながらニュースを見ていた母の光子が驚いて振り返る。
「やだ、ヨシコ、いたの!?びっくりしたぁ〜!!」
「いたの?ってお互いさまじゃん」
アヒルは、小さな目を丸く見開く光子の顔を見て言った。
「だって玄関に靴も無いし、オカズも手を付けて無かったから、ヨシコにしちゃ珍しく連泊なのかと思ったわよ!ウッフッフッフッフ!!」
光子はあっけらかんと笑って言った。
「あ!ちょっと、またあたしのサーマーカーディガン着てぇ〜!もう、やめてよ〜こないだ買ったばっかりなんだからぁ!」
「良いじゃん、ちょっと今日貸してよぉ。カーディガンならボタン留めなきゃ伸びないでしょ?ウッフッフッフッフ!!」
光子は、アヒルとそっくりな顔と声をしていた。
強いて言えば、光子の方が中年らしく、ちょっと小太りで、髪は短かく染めていたが、基本的にはコピーのようだ。
なのでアヒルは、母親と一緒に歩いていると、不細工が二倍になったようで憂鬱な気分になる。
親子でハッキリと違うところと言えば、光子の底抜けに明るく、あけっぴろげな性格だった。
そしてもう一つ、男に『モテる』ということであった。嘘みたいな話だが。
死んだ父は、光子の連れとは思えないような、容姿の整った物静かな男だった。
背も高く、スッキリとした鼻筋と引き締まった口元をしていて、笑うと目尻が少し下がり、人に好かれる優し気な顔をしていた。
父は、都内の小規模な病院の医局で事務員として働いていた。
そして保険の外交員をやっていた光子は、顧客の健康診断のために出入りしていたその病院で、父に一目惚れをし、それから言葉巧みに褒めておだてて口説きまくり、最終的には父のほうが光子に夢中になって、
「ミツコのいない人生なんて考えられない」
と、プロポーズをした。
というのが光子のお決まりの自慢話で、それをアヒルと姉はいつも疑わしそうに聞き、父は横で目尻を下げ、否定も肯定もせず笑いながら聞いていた。
実際、父はそんな光子にとても優しく、本当に仲が良く、二人きりの時は手をつないで歩いたりしていたようだ。
そして娘達にもとても優しかった。
光子の外見的な遺伝子は、そのままアヒルが引き継ぎ、父のは姉が引き継いだ。
自分にそっくりな姉のことはもちろん可愛かっただろうし、愛する光子にそっくりな不器量で、なのに性格は自分に似て引っ込み思案なアヒルのことも、「ヨシコは良い子だ、良い子だ」と父はいつも可愛がってくれた。
だからアヒルは父が大好きだった。
唯一、絶対の存在だった。
父が事故で死んでからも、光子には常に、支えになろうと申し出てくれる男がいた。
しかしアヒルも姉も、彼らになつくことは無かった。
たまに家にやってくる男に、アヒルは身長の割にはスクスクと人並み以上に育った大きな胸を、好奇心に満ちた目で見られているように感じることがあった。
それが、年頃のアヒルにとってはたまらなくイヤだった。
わざと口をへの字に曲げ、機嫌の悪そうな顔でニコリともしなかった。
そのようなことは、美しい姉も自分の身に感じることがあったかもしれない。
姉は高校を卒業すると、ほどなく家を出て、彼氏のところへ行ってしまった。
アヒルはたいした収入も無いし、一緒に住んでくれるような男もいなかったので、この家に留まっていた。
本当は早く自立しなくては、と思っているのに、何かがいつも上手くいかなかった。
光子は、金銭的には父の遺産もあったし、持ち前の明るさを生かして、優秀な外交員としてかなりの収入を稼いでいたので、男の援助を受けないと生活していけない、ということは無かった。
しかし、光子は今付き合っている男とは再婚を考えているようで、そのことをアヒルはどうしてもうまく自分に納得させることができなかった。
そこには父に対する思いと、それから自分と同じ顔で、自由奔放に恋愛を楽しめる母への嫉妬のような、微妙な思いが絡み合っていた。
もちろん基本的には、情の深い、おおらかな光子のことが大好きなのだが。
「ヨシコ」
「なぁに?」
「何か、良いことあった?」
光子は、ちょっと母親らしい顔に戻って、寝起きのアヒルの顔をまじまじと見つめた。
「……どうして?」
「だって、笑ってるんだもの、珍しく。しかもこんな朝早くに起きてくるから」
アヒルは自分の両頬に手を当てる。
そしてワザと、口をいつものへの字に戻してしまう。
「何か眠っていられないほど、良いことでもあったのかなと思って」
「うぅん、別に……」
「そう?」
アヒルは流し台のほうにペタペタと歩いていくと、コーヒー豆の入った缶を手に取る。
「ママにも一杯いれてくれる?」
「うん」
「……笑うとね」
「うん?」
「そのうちステキなことが起こるんだって」
アヒルは光子の方を振り向いた。
それは、昨日、ハナコの言った事と同じだった。
そして光子は、自分とそっくりな娘の顔を見つめながら、とても幸せそうに笑っていた。




