第1章:泥濘の中の鉄の掟と守護神
【第一幕:雨の路地と鉄の掟】
ロンドンのスラム街を覆う霧には、どうしても洗い流せない煤煙とグリセリンの悪臭が漂っていた。
壁の塗料が剥げ落ち、一面に苔の生えた古い孤児院の裏路地で、冷たい雨が泥をどろどろにぬかるませている。体格の大きなスラムの子供たちが幾人も、路地の隅で丸くなっている一人の少年を囲み、殴る蹴るの暴行を加えていた。泥水の跳ねる音と罵声を飛ぶ声が、狭い路地にこだまする。
「殴り殺せ、この化け物のガキを!」
「出ていけ! この雑種め!」
暴行を受けている少年の名は、フェンリル・ブラック。同年代の子供よりもずっと魁偉な体格をしているが、今はこの暴力にじっと頭を抱えて身を縮めているだけだった。荒々しい靴底と拳が自分に振り下ろされるのをなすがままに受け止めながら、その深い瞳は驚くほど穏やかで、一筋の波紋すら浮かべていない。
「やめろ!」
清廉で幼さの残る声が、突如として暴行を切り裂いた。
全員が一斉に声のした方へ振り向くと、路地の入口に仕立ての良い古着のスーツを着た少年が立っていた。10歳そこそこの年齢で、両手をポケットに突っ込み、細長い目をかすかに細めている——だが、その狭い目元の奥底には、ぞっとするほど鋭い冷光が奔っていた。
やってきたのは、シリウスだ。
「シリウスか? 余計なお世話だ! 俺たちはこの化け物におしおきをして——」
「法的な許可なく他人に集団暴行を加える行為は、帝国刑法治安条例に対する重大な違反だ」
シリウスは淀みのない足取りで進み出ると、無表情のまま、まるで法廷の大法官のように厳格な口調で言い放った。
「私刑は違法行為だ。私はすでに、お前たち全員の顔と暴行の過程を詳細に記録した。次は、この罪状のすべてを法廷に提出し、審判を仰ぐことになる」
シリウスの人間味を感じさせない冷徹な顔立ちと、あまりにも本格的で一裁の猶予もない法律用語の数々に、いじめっ子たちは一瞬で顔を見合わせ、怯え上がった。
「こ、こいつ……俺たちを訴える気か?!」
「逃げろ! こいつは狂ってる!」
慌てふためく悲鳴とともに、子供たちは木切れを投げ捨て、脱兎のごとく逃げ去っていった。
【第二幕:守護神の血脈】
雨の路地に再び静寂が戻り,軒先から雨滴が滴り落ちる音だけが響く。
シリウスはフェンリルの前まで歩み寄ると、見下ろしながらわずかに眉をひそめた。
「お前は彼らを遥かに凌駕する骨格と腕力を持っている。さっきの一撃さえ繰り出せば、全員を叩きのめせたはずだ。なぜやり返さなかった?」
フェンリルはゆっくりと立ち上がった。泥水と埃にまみれた古い服を気にも留めずに払い落とすと、口元を緩めて、愚直でどこか悟ったような笑みを浮かべた。
「いいんだよ。どうせ僕は人間と魔物の混血だからね……皮膚も肉も分厚いから、あんなの蚊に刺されたようなものさ」
彼はどこも切れていない自分の肌を指差し、それから瞳に温かな光を宿しながら、静かに呟いた。
「それに……亡くなった僕の父さん——赤血の狼人は、世間が言うような残虐な化け物なんかじゃない。このスラム街で一番頼りになる守護神だったんだ」
フェンリルは顔を上げ、どんよりとした曇り空を見つめながら、力強く真摯な声で言った。
「僕は守護神の息子だ。だったら、軽々しく人を傷つけるわけにはいかないよ」
偏見と差別を一身に受けながらも、誰よりも純粋で温かな心を持つ混血の少年を前に、シリウスの狭い瞳に複雑な光が明滅した。彼はそれ以上何も言わず、ただ黙って一枚の清潔なハンカチを差し出した。
【第三幕:白衣の死神と運命の分かれ道】
数ヶ月後の、ある日の午後。静けさを破る不審な訪問者がスラム街を訪れた。
全身に素白の駆魔祓衣を纏い、駆魔公安の階級章を胸に輝かせた男——『白衣の死神』クロードである。彼は世を救う光を背負い、颯爽とした佇まいで、自ら公安に加わる若き戦士を探しにスラムへとやってきたのだった。
沿道の孤児や貧民たちはみな、崇拝と畏怖の入り混じった眼差しでこの伝説の英雄を仰ぎ見ていた。
胸に強烈な正義感と秩序への執着を宿すシリウスは、目の前に立つ英勇無双な白衣の死神を見つめ、胸の奥から熱い血が込み上げるのを感じた。彼は不意に振り向くと、フェンリルの手を強く握りしめた。
「フェンリル! 俺と一緒に駆魔公安に入ろう! 力さえ手に入れれば、俺たちは光の下に立ち、この地に満ちる混乱と不条理を完全に終わらせることができる!」
だが、手を握られたフェンリルは、ただ静かにシリウスの瞳に宿る輝きを見つめていた。
そして、柔らかく、けれど決して揺らぐことのない力で、少しずつその手を引き抜いた。
フェンリルは自分の両手を見つめ、ゆっくりと首を横に振った。その顔には、わずかな切なさと、それ以上の清々しさを湛えた笑みが浮かんでいた。
「ありがとう、シリウス。でも……僕は行けないよ」
「なぜだ?!」シリウスが焦燥を募らせて問い詰める。
「僕自身が、混血の化け物だからさ」
フェンリルは、指先に時折覗く暗赤色の狼爪の残り香を見つめながら、静かで残酷な事実を口にした。
「駆魔公安の使命は、すべての魔物を狩り、殲滅することだ……僕が足を踏み入れれば、いずれ君たちの討伐対象になるだけさ」
彼は顔を上げ、唯一の親友を凝視しながら、心からの祝福と託す思いを言葉に乗せた。
「シリウス、君は行きなよ。君は秩序と光の世界に属している。そここそが、君の正義を貫ける場所だ」
フェンリルは背を向け、後ろに広がる貧しく、混沌としていながらも人情味に溢れたスラム街を見つめながら微笑んだ。
「僕は……ここに残る。父さんの遺志を継いで、このスラム街の新しい守護神になるんだ」
刺すような陽光が濃霧を押し拓き、二人の少年の影を長く引き伸ばしていく。
あの日、シリウスは白衣の死神の裾を掴んで駆魔公安の歩む光の陣営へと歩みを進め、フェンリルはただ一人翻り、夜と泥濘の中へと戻っていった。
運命の歯車はこの瞬間から廻り始め、この親友同士を、それぞれ異なりながらも等しく偉大な宿命の道へと引き裂いていくのだった——。




