第一話 土と血の始まり
『土と血の王冠』をお読みいただきありがとうございます。
それでは、本編をお楽しみください。
森の奥で、獰猛な魔物の牙が閃いた。
「来た……!」
少年はこの魔物が、突進の前に肩を沈める癖を知っていた。黒い毛並みは泥に濡れ、湿った土の匂いを漂わせている。湿気が肌にまとわりつき、落ち葉はぬかるみに沈んでいた。
「くっ!」
粗末な衣服を着た少年——ユルヴァンは、反射的に木の槍を構えた。
何度も魔物と戦ってきた。恐怖は消えないが、それでもユルヴァンは構え続けた。
ここで食い止めなければ、ロイクが危ない。
背後のロイクは、まだ魔物に気づいていなかった。
直後、魔物の体重が槍越しに伝わってきた。
重い……。
肩が砕けるような圧がかかる。
槍がきしみ、肩に衝撃が走る。槍を握る手は震え、泥に沈んだ足は思うように動かない。
「ユルヴァン!」
別の少年——ロイクが叫び、ユルヴァンを助けようと、魔物に体当たりした。しかし、毛皮の下の筋肉は岩のように硬く、体当たりしても魔物は微動だにしない。
「うごか……ねぇ!」
「っ……! ロイクっ!」
ロイクは歯を食いしばり、距離を取ってから木の槍を突き立てる。だが、槍先は毛皮に弾かれる。
「くそっ!」
泥に倒れ込んだユルヴァンは、必死にもがいた。呼吸が荒くなり、泥が耳まで入り込んでくるのが分かる。
この魔物は後ろ足で踏ん張る。この場所なら、少し体勢を崩してやれば!
魔物の足元を見て、ユルヴァンは槍を少しだけ横へずらす。魔物の後ろ足が沈み、わずかに魔物の体勢が崩れた。
「待ってろ! 今助け——」
——グオオオオオオオオオッ!
思わず体がこわばるのを感じた。
咆哮が森を震わせ、胸の奥まで響き、魔物たちが一斉に怯えている。目の前の魔物も、急に背中を丸めて縮こまった。
「キャン!」
次の瞬間、胸を押し潰すような圧が消え、耳鳴りが引いた。
ユルヴァンはとっさに槍を手放し、村から解体用として持たされていた短剣を、魔物の腹へ突き立てた。
「ロイク! 今だ!」
「おう!」
魔物は思わぬ攻撃に体勢を崩し、腹の内側をさらしていた。その隙を逃さず、ロイクが槍を突き立てる。ユルヴァンも魔物の下から転がり出ると、落ちていた槍を拾い、そのまま突き刺した。
すると、魔物の目から光が消え、力が抜けたように地面へ沈んだ。
「はあ……はあ……」
今日も生き残った。槍を握る手は、まだ震えている。
何度戦っても、怖いものは怖いな。
ユルヴァンは小さく息を吐き、ようやく槍を下ろした。
「はあ……ふぅ。よぉ、主人公。感謝してくれてもいいぜ?」
ユルヴァンは息を整え、顔の周りの泥を払いながら苦笑する。ロイクが、また変な言葉を使ってる。
「シュジンコウってなんだよ? まったく……いつも感謝しているさ。ロイク」
「へっ。本当かよ?」
「この前は僕が助けたさ」
「ちぇ、じゃあこれで、貸し借りはなしだぜ?」
ロイクはこぶしをこちらへ突き出し、ユルヴァンも同じように応じる。周りを見渡すと、魔物たちの姿は見えなかった。
「魔物たちが急に逃げ出してるね」
「ああ。さっきの咆哮のせいだろうな。強い魔物がいるんじゃないか? やばそうだったぜ」
その時、後ろから掠れた大声がかかる。
「おい! 農奴ども! なに突っ立ってやがる! 魔物を倒したなら”核”を早く取って、持ってこい!」
振り返れば、軽装の鎧をまとった男が怒鳴っていた。
「ちっ。ユルヴァン。話はあとだ」
「そうだね。先に核を回収しよう」
目の前で倒れている魔物の腹を、刺さっていた短剣で開く。
筋繊維を裂き、手を深く差し入れると、指先に石のように硬い塊が触れた。それを引きちぎるようにして、力任せに引き抜いた。
「取れたか?」
「うん。今回の魔物の核は小さいやつだね」
「仕方ねえよ。あいつらは弱い部類らしいからな」
ユルヴァンは立ち上がろうとした瞬間、足首に鋭い痛みが走った。
痛っ……少し捻ったか。
ユルヴァンはその痛みを無理やり押し込み、核を男に持っていく。
「けっ。ちいせえな。こんなんじゃ、ほとんど金にならねぇ」
男はその核を見ると、下に置いてあった箱に放り投げた。
「……」
「まあいい。さっきの咆哮のせいで、魔物がいなくなっちまった。今日はおしまいだな」
男は指笛を吹く。
辺りにいた農奴たちが、顔を上げてこちらを見る。
「今日はおしまいだ! 他のところの様子を見てくるが、核を回収してこの箱に入れろ。そしたら、村へ戻れ。間違っても盗もうなんて考えるなよ!」
それだけ言うと、男は森の手前にいる同じ格好をした集団の元へ歩いて行った。
「……彼らは調査に行くかな?」
「しらねぇよ。どうせ、俺たちをまた盾みたいに使うんだろ? 武士道のかけらもねえな。強いやつが弱いやつを守るのが普通だろ?」
「ブシドー? それ、ロイクがたまに言ってるよね。その考え方は嫌いじゃないよ」
ユルヴァンは傭兵たちの方をじっと見つめる。
「あーあ。俺もあの伝説みたいに、騎士になってみてえな」
「ロイク……あの話は、最後には王様になったんじゃなかった?」
「そうだったか? じゃあ、俺たちも王様になればいいじゃねえか!」
「簡単に言うね」
ユルヴァンは苦笑した。
けれど、騎士という言葉に、胸の奥がわずかに疼いた。強くなれたら、自分も物語の騎士のように戦えるのだろうか。
ユルヴァンとて、現状を変えたいと願ったことはあった。けれど、その人物は剣と魔法で、圧倒的な強さを見せたと言われている。
「ロイク。農奴から騎士になるなら、せめて魔法くらい使えないとダメだよ」
「でもよ! この世界は、だれでも魔法が使えるんだろ?」
ロイクは箱の中の核を指さした。
「……失敗したら、意思のない魔物になるんだよ?」
「はあ、なんだってチートがねえ世界なんだよ。分かってるって。だから、みんなやりたがらねえんだろ?」
「うん。魔法を手に入れられるかもしれない。でも、失敗したら自分じゃなくなるって聞いた」
ユルヴァンは『チート?』とは思ったが無視を決めこんだ。
そして、箱に入っている鈍く光る核を見る。
「ちぇ……強くなるのも楽じゃねえな——ん? おい。あれを見てみろ」
ロイクが顎で示した方向を見ると、村から鉄の鎧を着た兵士が二人出てくるのが見えた。
「騎士の私兵だ……いつもこんな戦闘じゃ出てこねえのに、珍しいな」
「本当だ。なんでだろう?」
「知るかよ。ほら見ろ! さっきの傭兵たちも気づいたみたいだぜ」
鉄の鎧を着た兵士たちは、先程の傭兵たちのもとへ向かっていた。傭兵たちは、兵士たちに気付くと頭を下げていた。
「へえ、やっぱり傭兵たちも、騎士様の兵士には頭が上がらねえんだな」
「ロイク……聞こえるよ。やめなよ」
「いいじゃねえか。いつも偉そうにしやがって」
ユルヴァンはため息をつき歩き出す。だが、痛みがじわじわと強くなり、足を引きずるようになった。
「ユルヴァン、歩き方……どうしたんだ?」
ロイクが眉をひそめて覗き込む。
「大したことないよ。さっきの戦闘で、少し捻っただけだと思う」
「大丈夫か? お前のところの農家は農奴嫌いのところだろ? 遅れたらどやされるだろ?」
「……そうだね。撃退完了の鐘も鳴ってるから、すぐに行かないと」
ユルヴァンは痛む足を引きずり、ロイクに肩を貸してもらいながら村へ戻った。途中でロイクと別れ、割り振られた農家へ向かう。
しばらく足を引きずりながら歩くと、目の前に少し寂れた家屋が見えた。外の長椅子には老人が一人座っていた。
老人はユルヴァンを見るなり、汚らわしいものでも見るように眉をひそめた。
「汚らしい……いつにも増して泥まみれじゃないか」
「魔物との戦闘がありまして」
「だからなんだ? 早く仕事をしろ。そのために生きているのだろう? ああ、家畜小屋から入れ。表から入ると余計に汚れる」
「……はい」
言い返したい言葉は、いくつも浮かんだ。けれど、口にしたところで何も変わらない。
ユルヴァンは唇を結び、痛む足を引きずりながら家畜小屋へ向かった。
畑に撒く水を少しだけ使い、泥に汚れた体を拭った。家主に知られれば怒られるため、最低限の汚れを落とすだけにとどめる。
冷たい水が、先ほどの戦闘で熱くなった体を冷ます。
「はあ」
いつか、僕も魔物との戦闘で死ぬんだろう。けれど、悲しんでくれるのはロイクともう一人くらいだ。他の人たちなど気にも留めない。
強くなりたい。この現状を変えられるくらいの強さが欲しい。
体の汚れを落とすと、ユルヴァンは痛む足をかばいながら農作業に取りかかった。この農家には、年老いた夫婦しかいない。
女性の方は寝たきりらしく、老人だけで畑を維持するのは難しかった。そこで、村の農奴が貸し出されていた。
「いっつ……」
ユルヴァンは足に痛みを感じた。
見ると、足首が紫色に変色していた。
「これは……結構ひどいかもしれない」
「おい! 何をぼさっとしとる! さっさと働け! 仕事をしなかったと報告してやるぞ!」
老人の怒声が飛ぶ。
真面目に働いたところで、老人は村長に「ほとんど仕事をしていない」と報告するのだろう。以前、ロイクが雇い主から聞いた話だった。
「……」
「全く……これだから農奴は困るんだ。息子が王都に行かなければ、こんなことには……」
老人はぶつぶつと呟いている。
このままじゃ、足がもたないな……。
ユルヴァンは痛みに耐えながら、何とか作業を終わらせようとした。しかし、途中で足がもつれて倒れ込んでしまう。
「おい! 何をしている! すぐに立ち上がれ! 真面目に仕事せんか!」
「足を痛めて——」
「そんなこと知るか! お前は村のために働く農奴であろう! 動けないのであれば、お前など価値はない!」
ユルヴァンは拳を握り締めた。
今まで散々言われてきたことだ。だが、今はロイクの話を聞いた後だからだろうか、頭が怒りに染まる。
「何だその目は。反抗的な!」
杖が肩を叩き、息が抜けた。痛みが走る。だが胸の奥の方がもっと痛んだ。
僕は、こんな扱いを受けるために生まれたのか?
それでも、胸の奥で何かが小さく燃えていた。
「はあ……はあ。ちっ。村長に言って、お前は”役立たず”として売り捌いてもらう!」
「……」
「いつまで居るつもりだ! 消えろ!」
ユルヴァンはゆっくり立ち上がり、切れた口を服で拭いながらその場を後にする。
僕たちは、いつまでこのままなんだ……。農奴に生まれたのが悪いのか? 農奴ってだけで、ここまで言われないといけないのか?
ユルヴァンは、農奴たちに割り当てられた小さな小屋へ入った。中にはもちろん誰もいなかった。この時間に戻ってくる者など、普通はいない。
ユルヴァンは入口近くの壁に寄りかかり、その場に座り込んだ。そして、深いため息を吐いた。
「死ぬまでこの生活か……」
あの老人が言っていたように、どこかに売られるにしてもきっと辺境だろう。そして、同じ日々の繰り返しだ。
「ユルヴァン……」
「ミレア?」
頭を上げて振り返ると、後ろには籠を抱えた少女——ミレアが立っていた。
「怪我……したの? さっきの魔物との戦闘で?」
「うん。少し捻ったみたい」
ユルヴァンは足をさり気なく隠し、軽く言ったつもりだった。ミレアに心配をかけたくなかったからだ。
「見せて」
「大丈夫だよ?」
「いいから見せて」
今度は強い口調だった。ミレアはユルヴァンの前に座り込み、足を見せるよう促した。
少し、ためらいながらも足を見せた。
「っ……! こんなになるまで、放っておいたらダメじゃない!」
「仕方ないさ。仕事があるんだから」
「それでも! こういうのは放っておくと大変になるのよ!」
ミレアは籠から薬草を取り出すと、指先で葉を揉み、水を含ませた。冷たい湿布を足首に当てると、ユルヴァンの眉がゆるむ。
「ロイクと歩いているのを見てたの。だから持ってきたわ」
彼女の声は小さく、でも確かだった。
どうやら、最初からミレアにはバレていたらしい。じっと見ていると、ミレアは、薬草を足首に当て、紐で固定していた。
「いつも助けてくれてありがとう。ミレア」
ミレアの手が、ほんの一瞬止まった。
「……ユルヴァンとロイクはいつもすごいよね」
「そんなことないよ」
「ううん。ほかの農奴の人たちは皆暗い顔している。けど、二人はずっと輝いているみたいに見える」
そうだろうか。けれど、ロイクは色々と教えてくれる。いろんな知識も、小さいころから一緒だったのに、どこで知ったんだろう?
僕が疑問に思って考え込んでいると、ミレアの小さい声が聞こえた。
「それに、ユルヴァンは私の王子様だから……」
「え?」
顔を上げると、ミレアは慌てて視線をそらした。耳まで赤くなっている。
「な、何でもない! 気にしないで!」
その間、ユルヴァンはミレアの手元を見つめていた。少し気まずくなり、ミレアに話しかける。
「手際が良いんだね」
「お父さんが猟師だからね。結構怪我をしてくることが多いの」
「そっか」
ミレアの父——ガルドさんは村一番の猟師だ。そんな人でも怪我するんだなと、不謹慎ながらユルヴァンは思ってしまった。
「……また、ボヌ爺に打たれたの?」
ミレアはユルヴァンの他の傷も、痛ましげに見ていた。
「僕の働きが悪いかららしい。村長に言って別のところに売ってやる、ってさ」
「ユルヴァンは、怪我をしてるんだから仕方ないわ。私がお父さんに言って、そんな事は絶対にさせない」
ミレアが怒っているのを見て、気持ちが軽くなった。
「ありがとう」
「ユルヴァンは悪いことしてないんだから、気にしなくていいわ!」
すると、小屋の裏手から、村の男たちの声が聞こえた。ミレアはとっさに身を隠し、少し僕の方へ体を寄せた。
「森で……巨大な影を見たぞ!」
「本当かよ? さっき竜を見た、とか言っている奴もいたぞ?」
「本当なんだって……それがよ——」
そのまま話しながら男たちは過ぎていった。
見るとミレアの顔がすぐ横にあり、緑色の瞳と目が合った。よく見ると、顔が赤い気がした。
「ミレア? 顔が少し赤いよ? 熱があるんじゃない?」
「そんなことない! ほら、横になって今日は休んでよ! 私はお使いがあるからもう行くね? 帰りに、もう一度寄るわ」
「え? うん……」
ミレアはさっと立ち上がると、部屋の入口へ向かった。しかし、すぐにユルヴァンの方へ振りかえる。
「ユルヴァンは……きっと変われるわ。他の人と何か違うもの」
「え?」
ミレアは、ユルヴァンの瞳をしばらくじっと見ていた。だけれど、すぐに微笑んで歩き出す。
「何でもない!……それじゃ、ね?」
「……うん。ありがとう。ミレア」
ミレアは、足早に村の中心部へ向かっていった。ユルヴァンはその背中が見えなくなるまで見送った。
ユルヴァンは小屋の中で仰向けに寝転んだ。
売られるのは嫌だ。次の場所では、ミレアもロイクもいない。
そう考えるだけで、胸の奥が重くなった。
このまま年を重ね、いつかどこかへ売られる恐怖に怯える。そんな未来しかないのだろうか。
ユルヴァンは、傷ついた足を見つめた。騎士になれば、何かが変わるのだろうか。
ロイクが話していた、奴隷から成り上がった騎士の伝説が脳裏をよぎる。最後には、王にまでなったという男。
「……王か」
自分には縁のない話だ。そう思いながらも、その言葉が妙に心に残った。
ミレアの言葉が蘇る。
『ユルヴァンは、きっと変われるわ』
そんなはずがない。自分はただの農奴だ。魔法もなければ、何かを変えられる力もない。
それでも、このままでいたくはなかった。
誰かに命じられるまま働き、誰かの都合で売られ、いつか何も残さず死んでいく。
そんな人生だけは、嫌だった。
ユルヴァンは目を閉じて呟いた。
「力が欲しい。何者にもなれなくていい。せめて――自分の生き方くらい、自分で選べるように」
いつか、この生活から抜け出すために——。
ユルヴァンは、その想いを胸に眠りについた。
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