第30話 交渉
その瞬間、闘技場が取り巻く空気は完全に凍り付いていた。あれだけの興奮の渦が嘘であったかのように、罵声の如き声援を送っていた観客も、勝利間際の甘い蜜を吸っていたフミタオシも、自らの哀れな人生に苦悶していたチキンも、その場に居合わせた殆どの者達が唖然としていた。
「次は業火ワインにすべきか、それとも業火芋焼酎にすべきか、これは迷いどころだな……!」
「私も大いに悩みどころです。揚げバターの衝撃をもう一度味わうべきか、それともまだ見ぬ未知へと挑戦するべきか……!」
酔いの影響、美食の追求、それらが影響した為なのか、グラサンとシラスの声量はいつもよりも大きなものへとランクアップしていた。先の侮辱とも取れる発言の事など一切気にしている様子がなく、会場がこれだけ凍結状態にあると言うのに、それにさえも気が付いていない。唯一、それら事情を全て知っている人物がレイコになるのだが、彼女は彼女で必死に笑うのを我慢している様子だった。先の2人の発言は、レイコの爆笑ポイントを見事に射抜いてしまったようだ。
「……あ゛? おい、アンタら今、何て言いやがった?」
当然、その言葉はフミタオシとチキンも耳にしている。そして最初に反応を示したのが、勝利を目前としていたフミタオシであった。彼はグラサン達を睨みつけ、露骨に不快感を表している。
「ん? ああ、俺らに言ってる? いや、ワインか芋焼酎、どっちにするか悩むなって」
「私の腹は今、何を欲しているのかなって」
「そこじゃねぇよ! その前だ、その前ッ!」
「くふふふふっ……!」
ここでレイコのお笑い防波堤が決壊、可能な限り声を殺してはいるが、その笑い声はもう完全に周りに聞こえていた。
「その前? 何か変な事を言ったっけ、俺ら?」
「うーん、そんな記憶はないのですが……あっ、何かしょっぱい試合だなとは思いました。揚げバターはこんなにも濃厚かつリッチなのに、水を差す感じだな~って」
「あー、そんな事を言ったっけ? まあ、何だ……わりぃ、無意識に本音が漏れていたかもしんねぇわ。酔っ払いの戯言だと思って、聞き流してくれや」
「聞き流せるか、素人がッ!」
「グラサン、私は酔っていませんよ?」
「揚げバターに酔ってんじゃねぇか。あれ? つか、アルコールはこの体に普通に効くんだな? 今更だけどよ。ラッキー!」
「私も面倒なカロリー計算をしなくてラッキー! ……太りませんよね、この体?」
「俺様を無視して関係ねぇ話をすんじゃねぇッ!」
大声を上げ続けるも、逆に聞き流されてしまうフミタオシ。彼の怒りは止まる所を知らず、最早今やっているバトルすらも眼中にない。もちろん、それはチキンにとってもそうだった。
(こ、こいつら一体何なんだ……?)
時間が止まっていた観客達も、面白おかしく騒ぎ立て始める。この通り、闘技場内は試合どころではない有り様だ。裏闘技場側もこの状況を面白――否、非常事態と判断したのか、ペナルティのタイマーをストップさせていた。そんな混乱の最中、鶴の一声とばかりにあるアナウンスが会場内に流れ始める。
『――静まりなさい』
「「「「「ッ!」」」」」
美しくも力強い女性の声、それが響くと同時に多くの者達が息を呑んだ。
「んー? レイコ社長、この声ってもしかしてよ……」
「ええ、この業火のオーナー、チマミレの声よ。でも、驚いたわね。彼女がこんな末端も末端な闘技場に来ていたなんて」
グラサンはここで初めてオーナーの名前を耳にする。そして、こう思うのだ。一体どんな経緯で得た名前だよ、と。
『末端とは酷い言い草ですわね、レイコ。ですが、たとえそうであったとしても、この私が運営する業火の一部に違いありません』
「それは失礼したわ。それと、もう1つ謝罪した方が良いかしら? まだうちとスポンサー契約をしていないとはいえ、その候補者であるこの子らが失礼な物言いをしてしまった事を。まあ、事実ではあったけれど」
「じ、事実、だぁ……!? てめ――」
『――ふーん、言うじゃない。なら、少しゲームでもしませんこと?』
「……」
フミタオシが口を挟もうとするも、チマミレに遮られてしまう。
「ゲーム?」
『そう、ゲームです。そこのスポンサー候補者のどちらかと、そこの、ええと……ああ、フミタオシね? そこのフミタオシとバトルをさせませんか? 今この状況の盤面を、可能な限り再現した状態で』
「再現、ね。具体的にはどの程度の?」
『流石に完全に同じ状況とはいきませんから、現在のライフポイント、そしてペナルティ発生回数を維持したままのバトルスタートは如何です? 先の戦い、レベルが低いだのしょっぱいだのと仰っていたようですので、これ程度のハンデは問題ないでしょう?』
チマミレが提案したのはハンデ戦、現在フミタオシのライフポイントが11、ペナルティ回数が0なのに対し、チキンのライフポイントが3、ペナルティ回数も3――この数字のまま最初からゲームをスタートし、戦わせるというものだ。もちろん、グラサン達の数字はチキンのライフとペナルティとなる。ハンデ戦を謳っているとは言え、あまりにも不利でしかない条件だ。
「おい、待て待て、流石に待てよ! 俺様とチキン野郎のバトルはどうなる!? 俺様が勝つ寸前だったんだぞ!?」
が、ここで待ったをかけたのは、フミタオシの方であった。
『あら、不満ですの?』
「当然だろ! みすみす勝てる試合を捨てる奴が居るかよ!?」
『ふーん、勝てる試合を意味もなく長引かせていたようだったので、そういったフリなのかと思ったのですが、違いましたのね。なら、貴方にも相応のメリットを提示すると言ったら、どうです?』
「は? アンタ、何を言って――」
『そこに居る金髪の女、レイコは今最も勢いのある新鋭企業の社長です』
「レイコ? ……まさか、レイコーポレーションの!?」
思い当たるところがあったのか、フミタオシは目を見開いていた。
「ん? レイコ社長んとこの会社って、それなりに有名なのか?」
「まあ、それなりにね」
「あれ、ひょっとして今のうちに媚売っといた方が良いです? 社長、揚げバターをどうぞ」
「要らないわよ」
一方、肝心の2人は全く思い当たるところがなかったようである。急速な勢いでレベルを上げてきた、ある意味の弊害なのかもしれない。
『そして、彼女の下に居る少々口の悪い2人は社長である彼女自身がスカウトした、同じく新鋭のカードマスター……スポンサー契約候補、でしたっけ?』
「ええ、そうね。今日は軽く裏の見学だけさせるつもりだったのだけれど、思いもよらぬ騒ぎになってしまったわ」
「……なるほどな~。チマミレ、その上での俺様のメリットってのは?」
『レベル3への昇格と相手の命に加え、レイコの企業とスポンサー契約を結べる――そういう報酬はどう?』
「乗った!」
かくして、新たなマッチングが決定するので――
「――ちょっと、勝手に決めないでくれる?」
当然の事ながら、レイコから待ったがかかる。しかし。
「まあまあ、レイコ社長よ。俺はそれでも構わないぜ?」
「私もです。実戦試験とやらが少しだけ早まった、それだけの事では?」
裏闘技場に来てから暫く好き勝手をやっていたグラサン達は、意外にも乗り気であった。片やほろ酔い、片や腹八分目の状態であると言うのに。
「で、チマミレさんよ。俺らにはどんなメリットがあるんだい? ハンデを背負うのは良い。勝ったらレベルアップってのはそのままだろう。けど、そっちみたいにプラスアルファがねぇと、条件としてフェアじゃねぇぜ?」
『まあ、確かにそれもそうですわね。なら――』
――かくして、新たなマッチングが決定するのであった。




