雪華仙、導きの楔をのこすこと①
「ヌグォォォォォォォッッッッ!」
唐突に地に墜ちた天主は、激痛にのたうち回る。
腹の底が跳ねる。まるで腸の内と外がひっくり返されるかのようだ。
ガリゴリィ、と音がして、天主の顔が不釣り合いに、角張った顎をもつ青年へと変じる。
はじまりはあの日。狼仙を平らげたあの夜から始まった。いらい、獣仙どもを呑むたびに俺は強くなっていく······。
そして決まり事のようにこの激痛がついて回るのだ。
呑めば痛める······。それを解って尚やるのはウツケだ。
だがそれでもいい、強く大きくなること······! それが俺の存在意義なのだから。
ボキボキ······っと身体がさらに音をたてて歪み、蠢き、天主の肉体はより逞しく成ってゆく。
汗と涙にまみれた顔をあげた天主の見目はもう童のものではなかった。成人の──それもより逞しい、剛強さをそなえた戦士のものへと移ろっていた。
「まだ足りない······あとひとり。そしてさらに多くの無念と怨念を······ッ!」
大山脈から吹おろす風に馬弦は身震いをした。あわてて荷中にまとめていた替えの衣をひっぱり出して重ね着る。
眼前には、厳格さを体現するかのような白き霊峰たち。そのはるけき頂は雲にとどき、いまだたっぷりと氷雪をたくわえた姿は、きたらんとする者を拒む意思にすら思える。
みあげる馬弦の顔には疲れの色が濃かった。
環境がただでさえ過酷であるのに、彼はろくに眠れず、食事もそこそこに月塊の背におぶさってきた。疲労・寝不足・欠食と、高原では下がりがちな熱を快復する手段をおおいに損なっていたのでは無理からぬことであったろう。
ほぅ、と馬弦はしろい息をつく。
岩礫地だらけの山中にわけいったとおもったら、その懐はまたしてもだだっ広い平原だった。
これを踏破するうち、いつの間にか足元は丈の短い緑でおおわれるようになり、ついには河へと行きあたった。
川、ではなく、河、である。
高原でみてきたものと比すれば途方もない幅をもっているようにみえる。これほどの水脈がこんな奥地に慎ましくあろうとは。
その河はふたつに割れている。いや、ひとつの流れのなかにふたつの川がながれているというべきか。
こちら側の水は、たしかに滔々(とうとう)とながれる水そのもの色──とても深い青──であるのにたいし、中程を境としたあちら側は、まるで雪がとけ込んだかと思うばかりの白で染め抜かれているのだ。
その青と白が混じることなく、はるか遠く大平原へと流れくだっていく。きっとマヌラ仙のいた小川や、太盆地にある無数の湖へもそそぐのだろう。
「雪華仙の気配はまだある。しずかなモンだし、どうやら天主よか先着できたらしいな」
月塊は周囲を見渡してつげた。
「この際だ。おまえ、さっさと腹ごしらえしとけ。煮炊きしてもいいから、なるだけ温かいやつをな」
「······うん。じゃ、お言葉にあまえて」
正直助かった。さすがにあの銀嶺へ突撃するのに、いまの状態ではでる勇気もでない。
馬弦はのこり少なくなってきた糧食と燃料をもって河辺りへいくと、ちいさな銅器でもって水をくみ、多少の苦戦をしいられつつもやっと火を起こして、石で組んだ即席の炉にこれをかけた。
こちらの岸が青い流れの側でよかった。さすがに白いほうの水を口にいれるのははばかられる。
馬弦はまた、ふうっ、とため息をついて顔をあげる。しゃがんだまま、視線を糧食をおいていた左手にやる。と、
「··················」
「··················」
眼前に、おなじく小腰をかがめた女人がこつぜんとしていた。
ひとつに編まれたながい黒髪は足下のほうまで垂れており、この気温のなか毛氈すらまとっていないその身には、北胡の地で堂々と白い漢の衣装束をまとっている。
そうして両膝に肘をついて、さも興味深そうに彼のほうをのぞきこんでいるのだった。さっきからずっと観られていたらしい。まったく気づかなかった。
え······? なんでこんな処に??
そう頭が追いつくかどうかというところで、その美麗な姉様はにっこりと微笑んだ。
「ッッ······月塊ぃぃぃぃ──────ッッッ!!」
とつぜんあがった奇声に、天主を警戒していた張り詰めていた月塊は仰天してふり返る。
と、なんと、馬弦の衿元を白い獣がくわえ、運び去ってゆくではないか!
「なぁ············ッ!」
虚をつかれて反応するにも遅く。
まるで冗談ごとのようにあっけなく。
馬弦はふとく長い尾と逞しい四肢をもつその獣に、連れ去られてしまうのであった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
どこをどう通ったのかもわからない。
馬弦をくわえた獣は、トーン、トーンと山谷を踏み登りつつ、あっという間に冷山の中程になろう洞穴へ彼を運びこんだ。
「······どうも」
おもいのほか丁重に床へと降ろされた馬弦は、混乱のうちにそんな台詞をはいた。
洞穴は人がたって歩けるほどに充分な高さがあり、奥行きもまずまずひろい。寒いことには寒いが、不思議な明かりがほんのりと熱もともなっているのか、芯から凍えるということはなかった。
雪の吹き込まない岩床には、白い雲のような綿毛が一面に敷きつめられ、冷えから守ってくれている。
馬弦が目をあげると、先客が四本脚ですくっと立ちあがった。
小、豹? なんかすごく興味津々な瞳でみられてるけど。
「ゴハン? 齧っていい?」
平然と匈奴の言葉で口をきいたのも驚きだが、それよりもなによりも、内容に馬弦は顔をひきつらせた。
「駄目よ、かじっちゃ」
ふり向くと、そこには乱れた髪をなでつける、あの白い衣の女人がたっている。
「あ······貴女は······。ひょっとして雪華仙さま、では······?」
女人は一瞬馬弦をみつめてから、小首をかしげて笑む。
「ん? 雪華仙??」
「ぇ············」
「??」
お、終わった──────っっ!!
血の気が一気に引いた。てことは、このヒトはまったく関係ない、妖ってことぉぉぉっ!?
馬弦が絶望的な表情をしているのをみて、その姉様は、とうとう我慢ができなくなったとばかり吹きだした。
「アハハハっ············いや〜、ごめんなさい。貴方が可愛くってつい······。
いかにも。私、雪華仙をなのっております。本性はこの山に棲まう雪豹です」
まだふくみ笑いをされながら、傍にあった敷物をすすめられる。複雑な気分で馬弦は腰を下ろすが、さっきからずっと、爛々とした瞳でこっちを注視する小豹がどうにも気になって仕方がない。
「ああ、それは弟子です。跡を継がせるために養育しているのです。べつに私の子というわけではないので、放っておいてよいですよ」
つれない師匠の言葉に弟子豹はぷるっと頬をならすと、背を向けてふて寝をはじめた。
馬弦はやっとひと息をついた。これで落ちついて話ができる。
「それで······なぜ僕はここへ連れてこられたのでしょう」
そうだろう。こう問うしかないじゃないか。まったく状況がつかめないのだから。
なかばムスリとしてそう訊ねると、おなじく、敷物のうえに腰をおろした雪華仙が、キラキラとした瞳でこちらをのぞきこんでくる。
······そう、さっきの小豹とまったくおなじ瞳で。
「それはですね〜?」
「な、なんでしょう······」
「······最期に人間と話してみたかったからですよ、私が」
『最期に』
その単語に一転、馬弦は腹の底をヒヤリとした手で撫でられた思いがした。
彼の露骨に変化する表情に、雪華仙は満足そうにしながらも、ひとつ寂しそうにまた笑む。
「······解っております。数日来、星がそう告げておりましたから」
われらが護る『おおいなる力』を狙うものがあらわれた。すでに四名の仙が生命ごと鍵を奪われ、今あるは平原の子猫ちゃんと私のみ。
もしも私が鍵をゆずり渡せばその封は解かれ、数多のものが害をこうむる戦がはじまる······
「まあ、まさか二者も同時に現れるとは思ってもいませんでしたが」
とつとつと、まるで他人事のように雪華仙は語る。瞑られた瞼があけられ、澄んだその瞳がふたたび馬弦にすえられた。
「だから知っておきたかった。今をいきる人は、そこまで傲慢になりはてたのか。それとも無駄なあがきをしてまでも、護るに足るものであるのかを······」
つまり、と馬弦は胃に重いものを感じながら黙考する。そのありがたくない、身に過ぎる役目に僕は選ばれたってわけか。
「それは······僕が『力』をねらっている者の片割れだから──ですか」
恐れさせてしまったことを省みたのか、雪華仙はやさしい笑みを面にとり戻して首を横にふる。
「いいえ。はじめに言った通り、これは私の我儘なのですよ。あえていうなれば、それは貴方が匈奴の子、だったからです。
そうですよね?」
コクリと馬弦はうなずきを返す。雪華仙は嬉しそうに両掌をぽんとあわせた。
「じつは私も、幼き日にすこしの間だけ、匈奴の民と暮らしたことがあるのです。この姿も」
と、どこか高揚したように、胸のあたりを押さえながらいう。
「そのとき善くしていただいた方の姿を借りているのです。大切な、寄す処として······」
それは意外だ。雪豹である彼女がどういう経緯でか山を降りて、民のなかで暮らしたことがあるとは。それも匈奴のなかで。
その世話になった方、というのは、漢から連れてこられた奴隷か、後宮入りした王族、またはそのおつきの者。いずれにせよ漢人だった······?
「ええ。その方は妃として入宮してこられた方で······幾度かこんな衣を着てみせてくれたのです。とても綺麗で······いまでも忘れられません」
やはり。ということは攣鞮氏の──つまりはこの馬弦の遠い先祖にあたる方かもしれない。
「その方の、お名前を?」
「ん、と、そうですね。まわりからは、王昭君、と呼ばれていたかしら」
「王昭君!」
王昭君だって!? あの有名な······っ?!
後世、おおくの歌人の憐憫と憧れを掻きたてた、漢のためにその身を捧げたとされる、あの······?
ゴクリ、と馬弦は唾をのんで、不思議そうな顔をする雪華仙をまじまじと見つめた。
では今、僕は、「あの」王昭君の生き姿をみているってこと······!?
その瞬間、かれは、彼自身がさらわれてきたことも、彼を必死に捜しまわっている者のことも、彼女をつけねらう者の存在すらも忘れてしまっていた。
そうしてただ、もしかすると我が先祖かもしれない麗人の、在りし日の姿に見惚れるのであった。
王昭君。
紀元前51年から前15年ごろの漢の人。
なまじ美人であったばっかりに帝室の姫のかわりに、臣従した当時の単于、呼韓邪へ嫁がされた悲劇の人物、であります。
もちろん、帰国することはありませんでした······




