摩奴羅仙人、来客に恐怖すること①
北上をつづけるうち、あれほど変化にとぼしかった風景も、いつしか草原一色となっていた。
季節はそろそろ初夏にはいろうかという頃。北地の草は、今年も順調に若返りをみせているようだ。
「ねー、いいじゃんか」
「嫌なこった。お断りだ」
前を月塊、後を馬二頭をつれた馬弦がすすむ。ふたりはさっきからずっとこんな調子である。
むろん緊張を忘れてはならぬ旅のなかではあるが──獣に妖、鮮卑、そして匈奴の軍勢や護衛の白塗り野郎の来襲など──ずっと張り詰めてもいられまい。
ふたりは退屈まぎれに与太話をつづけ、いつしか話題は昨夜のことになっていた。
「ねー、僕はいいっていってんだからさぁ。一緒に泊まろうよ〜。きっと楽しいよ? 大丈夫だって、もうひとりくらいなら入れるからさ〜」
「いらねーよ。なにが哀しくてガキンチョに添い寝しなきゃなんねーんだ」
これで馬弦は旅慣れている。
彼はいつ発ってもよいようにと、常日の備えを欠かさずしており、だからこそあの夜の出発に短い刻でこれをすませ、月塊に先んじて待ち伏せることができたのだ。
それらは手抜かりなく後にひく馬にまとめて積んである(もちろん危難にそなえて、水と糧だけは半々にわけてある)わけだが、その荷のなかに、工夫した独り用の小型穹廬がある。
「まったく、吃驚したよ。小用に出たら穹廬の陰で蒼い眼がふたつ光ってんだもん。狼かと思っちゃったじゃないか」
「ハッハ。おまえ、間抜けな声上げてやがったもんな」
ククク、と笑う月塊に、馬弦はぶ〜っと頬を膨らませてみせる。
「とにかく、ずーっと外にいることはないだろうって言ってんの。なんか僕だけ特別扱いされてるみたいで嫌なんだよなぁ」
実際、特別あつかいしているし、特別あつかいされても仕方のない身分だろうに。まあ本音のところは、背伸びをしたい頃の男児らしく、ひとりお守りされるのが嫌なのだろうが。
そもそも、まだ寒い高原の夜に人の子が耐えられるわけもないだろう。包なしで寝たからといって、それが強いということの証にはならねえぞ。
月塊はやれやれと、それでもなぜか浮かんでくる滑稽さを隠していう。
「いーんだよ、俺は。夜陰の気は俺達にとって栄養なんだ。それに、ホントに狼なんかに、馬やお前が狙われちゃ目も当てられんだろうが」
反論がみつからず、ふくれっ面をする馬弦の顔を拝んでから、月塊はどうどう、と乗騎をとめた。
「どう? 感じるかい?」
「······駄目だな。消えちまったらしい」
海原にも比する大草原をわたる道標は、あの天主とかいう者の気配だ。
もちろん奴には、生気をふくめあらゆる気配がない。しかしあの決闘の終盤、例の氷の術をつかってしばらくは、どういうわけか強力な仙の気配がした。
そこからアタリをつけ追ってきたのだが、頼みの臭跡も消えてひさしく、もはや推測でおぎなうのも困難らしい。
まったくこの天主という奴の臭跡ときたら、北へ行ったかとおもえば西へ折れたりと、てんで一貫性がなかった。
彼らの狙いは、まずは北地の平定。であるならば、鮮卑だけでなく、烏桓の居地もある東方へと目を向けるのが自然な流れというものだろう。
奴がほんとうに左賢王と動向をともにしているなら、この推測でよいはずである。
まさか追手の目をくらませるためでもあるめぇ。ヤロウ、よほど腹に据えかねてあちこち暴れまわったのかよ。
月塊はしばし馬を留めたまま、過ぎゆく風と雲に意識をただよわせた。
天主か······そもそもアイツは本当に、何なのだろう。なぜ俺はあんなにも異質な感覚をやつに覚えるのか。
あんな奴が天仙境の大仕掛け──おそらく強力な、それこそ天仙大宝のような兵器──の番をしていようとは想定外だった。
ひょっとすると外部からの抵抗。麻姑やら、あるいは盤のような地仙の大立者の介入を見越してのことなのか?
──いや、まさか。
天仙境にかかれば、匈奴はおろか漢を牛耳らんとしている曹操とて、導きの星の下にある赤子も同然。迷惑な贈り物を下賜してしまえばそれで終わりであろう。
では何のために奴がいるのか······
どちらにしても、とにかく奴は強い。
そしておそらく、さらに強くなる。
下手をすると、これまで遭った誰よりも手がつけられなくなるかも知れない。
対するこちらは、いまや術もロクに使えぬガラクタ一匹。
もはや泣き言でしかないが、こうと知っていたら乙越の野郎からでも山海経をガメてくるんだった。奴なら真書の一、二巻は隠しもっていただろうに。
「······すぎたことを言ってもしゃアねェか。なんとかして俺も強くならねぇと······でなきゃ琴箭はとり戻せねえ············」
しかし、針路が定まらないという、これには参った。いっそもう、東へと先を見越してすすむべきだろうか。遅かれ早かれ奴らも来るのだろうし。
「じゃあさ」
馬弦ははしっ、と左手を一点につきつけながらいった。
「ちょっと訊いてみようよ。なにかわかるかもしれないよ?」
月塊がそちらへと眼をこらしてみると、はるか遠く、まばらな家畜をつれ、草原をゆっくりと横切る騎馬の一団がいるとしれた。
さすがは草原の民の子、抜群に遠目がきくではないか。
はじめ、馬弦の匈奴風のナリをみて警戒した鮮卑の一家らは、相手が童であることや、つき添う月塊が自分たちの言葉もすこし解することから、いくぶん気を和らげた。そして彼らに水が少ないことを知ると、そこは遊牧民の精神で、ちかくの水場まで案内しようと申し出てくれた。
ふたりはありがたくそれを受けることにし、いま、こうして共に西へと進んでいる。
「じゃ、アンタらも匈奴連中の焼き討ちに?」
「ああ。私ら一家はたまたま遅れていたんで、害にゃ遭わずにすんだんだが、仲間はみんなとっ捕まったようだ······」
そう、月塊と馬をならべた一家の父長は眉をくもらせる。つづけ様、ったく、なんで今さら匈奴が······とこぼした。
「そこで水の補給がてら、ここはひとつ、仙人様におすがりしてみるべ······ということになってな。ああもちろん、我らの長様には息子をひとり報せにやっとりますがな」
「仙人? この大高原にも仙人がいるのか?」
「そりゃお前さん、おられるとも。ここは天と地の神々のすまう処じゃぞ? まァ、儂も小僧っ子の頃にお目にかかったきりだが。
獣の姿をした御方でな······名を摩奴羅仙様とおっしゃる方でよ」
「仙人様か、いいじゃない」
いつの間に戻っていたか、この一家の童らを手伝って馬をはしらせていた馬弦が口をはさむ。
「仙人様なら、月塊がより強くなる助言をくれるかも」
月塊は眉をしかめて、この誰かさんとよく似た、感に聡い童をしっしと追いやるのだった。
見渡すかぎり、うぶな緑なす草原で変化をしめすものといえば、こんもりとした緩丘の若干の剥げ具合と、ポツポツと点在する赤茶けた岩塊のみだ。
目的の川は、中原のそれとは比べものにもならぬ微々たる流れで、どうやら常在のものではないようである。おそらく、とこぞの湖から流れでる川の支流の最果てか、地中から季節がら湧き出してきたものなのだろう。とにかく、ありがたく使わせてもらおう。
ふたりは馬にも水を飲ませつつ、手持ちの皮袋にたっぷりと水を溜めた。
「月······あれ」
さきに袋を満たした馬弦が、袋を手にしたまますこし先の岩場を指した。なんだと思ってみると、まわりの物よりはすこし高い茶岩のてっぺんに、なにやら黒い影が座っているのがみえる。
それは人の様をして二本の足で立ちあがったが、全高はそれほどでもない。せいぜい月塊とどっこいで、成人の背丈ほどには足りぬ。衣を着けているとみえ、裾が風にひるがえっている。
「おお······! おられなすったぞ、あれぞマヌラ仙さまだ」
「······あれが、そうなのか」
いわれて月塊は神経を集中させる。気配はもちろん抑えているが、それでも独特であることはわかった。いってみれば、獣の生命力と仙気が同居するといったような······。
ピョコリ、となにか長いものが裾からでた。あれは尾っぽか?
「グ······」
「? グ?」
「グゥゥゥゥゥ──────ッッッ!!」
あろうことか、その影はながの跳躍をきめると、一陣の風となってこちらに襲いかかってきたではないか!




