曹操、蔡家の後継を憂うこと②
「もと太常、王文先殿、参りました」
がっしりとした側近のふとい声に、曹操は半身だけを向けてみせた。袖をあわせ、頭をたれて入ってきた男に冷ややかな視線を注ぐ。
それを甘んじてうけ止めながら、楊彪は彼のまえで腰をまげて一礼をする。
「楊文先、大将軍に拝謁いたします」
曹操はこれに手ぶりだけをもって応えた。
顔をあげた楊彪の表情はかたくひき締まり、つねに下目がちなため、両者の視線は交わることはない。
「よく参った。わざわざの足労、大儀である」
「滅相もございませぬ。私のごとき無官の者の拝謁をお許しくだされたこと、お礼申し上げまする」
曹操はかわらず冷笑をもって、もと政敵の敗残者、楊彪をみつめた。
まだ記憶も生々しい、つい昨々年のことだ。この男と周知の董承が、こともあろうに劉備を巻きこんで俺を殺そうと謀った。
その企みはたたき潰してやったが、名門たるこやつらの朝廷における根は深い。帝の東遷もささえ、真の忠臣よと讃える声は俺の配下──荀彧・荀攸や郭嘉からもあがっておる。いざとなればやる、こうるさい男よ······
「で。今日は何用のために参られたのか」
「はっ。将軍は、とある者の消息をお訊ねのとのこと。書状を頂きましたゆえ、これ幸いとまかりこしました」
「ほう?」
はじめて曹操が自分の話に興味をおこしたのを感じ、楊彪はしっかりと目をあげて言った。
「じつは少しでもはやく、なんとか致したいとずっと祈念しておりました。
ただ······当時、朝は混乱の内にあり、大将軍にお力添えを頂いた後も、なかなか奏上することかなわず······」
「······まあ、儂も忙しくしておったからのう。そちらだけを責める気はない。たがい」ここで曹操の瞳がキラリと光った。
「行き違いもあったゆえな」
楊彪は一瞬おし黙ったが、礼をして返す。
「──いえ。それは、私に先人ほどの智慧の持ちあわせがなかったゆえにござりますれば」
「······」
言葉にこそ出さぬが、この楊彪の言に、すこしは曹操の心証もやわらいだ。
「ただ、そのせいでかかる者に苦難を与えつづけて来たのかと思うと······」
「蔡琴箭、か」
曹操は視線のさきの寒々と澄みわたる空と、これを切りとる屋根下の暗がりとをみつめた。
楊彪は淡々と、そしてどこか懐かしむように言葉をついでゆく。知るかぎりの琴箭の働きを。従臣の列の末端にのる「蔡忠達」とあるものこそ、男の恰好をした彼女であること。そして黄河渡河の直後、安邑へといたる中、忽然と行方をくらませたこと············。
「あの者は陛下の旧都出立において、もっとも功に優れたる人物でございます」
「······なんとのぅ、それほどの大功を。あの賈 詡とやりおうたか。昔から聡い娘であったが、それ程のものであったとはな」
賈 詡にしろ張繡にしろ、自分もずいぶんと苦しめられたのだ。多大な犠牲をはらって、ようやくのことあのふたりを手懐けたのだから。
しかし、蔡琴箭。
最後まで身を呈して帝を護りとおしたか。してみると、いま、自分がこの立場にたてたのも、あの者のお陰でもある。父娘ともどもに世話になりながら、これに報えぬようでは一国の大将軍たりえようか。
「なんぞ足がかりは覚えおるか」
「──道中、多数の侍女と郎党の姿が、やはり消えております。南匈奴の族将どもが去ったのと時を同じゅうして······」
「では、胡賊どもがあの娘を?」
「······確証はございませぬ。ですが、いまさらあの者が陛下のお側をだまって離れるとはおもえず、懇意の家人にさえひとことも告げておらぬのです。
私は、そうだとみております」
であれば何としても救ってやらねばならぬ。あたら塵芥の地にわが国の麗人を埋もれさせるなぞ。まして操の理も介さぬ王どもの好きにさせるなど絶対に許せぬ。
それをするには、やはり財貨をもって贖うのが妥当であろう。だが、北はいまだ政情も不穏である。衰えたりとはいえ袁紹も健在。それを降したとしても、平治までは何年とかかるだろう。
たればでかでかと「大漢大将軍遣使」と大書した旗を押したて、おおくの護衛兵をつけるか? いちおうは他国への正式な使節なのだし。
いやいや。たしかにこれで手をだしてくる者はおるまいが、さすがに大仰にすぎるか。ついでのこととはいえ、これがつれ帰るのが女ひとりともなれば尚更。
信用ができ、荷を護りとおすだけの機転がきき、北辺の言語、地理にも明るい······
これら役割は分担させる──財宝の持ち逃げを防ぐため──として、そもそもが琴箭の容貌をしらぬ者がいないと始まらぬか。
「私にひとり、心当たりがございます」
ドキリとした。おもわず口に出していたか?
思慮を言い当てられたことに曹操はいささか機嫌を害したが、とうの楊彪は気づいていない様子で、そのまま続ける。
「その者なれば、信用がおけ、荷を護りとおす実力もあり、なにより蔡琴箭とは旧知の仲。したがって裏切る心配もございませぬ」
「······ほう、それは都合がよい。誰だな、それは」
「楊奉にござる」
「何?」
まったくの埓外な名に、曹操はおのが心中を読みとられた不快さも忘れてとい返した。
「楊奉とは、あの楊奉のことか? お主とともに陛下につき従った、あの?」
フ、とその口許に冷笑がもれた。
「それは無理というものだ。かの者は野盗に逆戻りしたあげく劉備に斬られて死んでおる」
「いえ······それはおそらく紛い者。私自身のしる限り、あの強情者が良民を害するはずはありませぬ」
「お主とおなじように、か?」
「··················」
「戯れだ。
して? 楊奉が死んでいないとして、まさか隠れ場所を教えてくれると申すか?」
「左様で。すぐ目と鼻のさきにおります」
「どこだ」
「許都の地下牢にござる」
「──」
楊彪はひと息ついていう。
「御役を退きまして以来、天下の事物に耳を傾けるを愉しみとして参りました。
じつは楊奉が死んだと聞くすこし前、彼奴がご領内で捕縛された、と耳にしました。いまだ処刑されたとは聞きませぬ。おそらく、まだ牢内にいるのではないかと」
「それではもう死んでいる、どのみちな。あれから何年たっておるとおもうのだ」
「それが······当家の下女──これはもと蔡家につかえていた者ですが、この者が申すには、かの者がそれしきで滅することは絶対にない。
──かの者は、齢数百をいきた妖である、と······」
「············」
曹操はまた、まじまじと楊彪の顔をみつめた。
きゅうに話が胡乱になった。ましてそれを語るのが、かつて妖書の類など云々と断じた男の口であればなおさらである。
だがまた、曹操の脳裏にはべつの思いも浮かんでいた。
あれはもう、とおい昔。
そうだ、くしくもちょうど琴箭の見送りをうけた先に待っていた、あの悪夢のような一夜の光景。
暗がりにうかぶ松明の灯り。そのなかから迫る異形の者ども。飛びかう火矢。焦げる屍肉の悪臭。そして、空から降ってきた謎深き若将······。
「いまにして思えば、合点のゆく所もあるのです。よくよく考えればとても常人の業ではなかった、というようなことが」
楊彪はなぜか独孝にしずむふうな曹操へ、あらためて礼をして請うた。
「お手間はかけませぬ。どうか当家の下女にいちど、首実検をお許しください。さすればはっきりいたしましょう」
「······これ」
曹操はまだどこか思案げな視線のまま、側近をまねいて命じた。
「お主、文先の下女を案内してやれ。しかと確かめてくるのだ。何かあってもお主なら大丈夫であろう」
「はっ」
許褚は、大きな身体をまげて主からの命を拝受したのであった。
不定期更新の不安さに負け、じゃっかん文章が長めになっております。
楊彪のもと役職、「太常」は、九つある公卿のひとつで、おもに礼儀や祭祀、天子のおこなう行事などをつかさどる仕事です。
翌月曜日に、次部を更新予定であります。




