東遷の銅鑼なりて、琴箭、民の声に涙をのむこと
《北面・東面の隠し家はすべて使用不可。やむなく華陰へむかう》
董承よりの急使からそう伝えきいた琴箭は、驚きながらも了承した。
ながらく世話になった邸の庭には、すでに出立の準備をおえた蔡家の家人らが集合しており、その時を待っていた。ついてくる者は梅春ら、郭汜によって与えられた用人以外の、琴箭に直接仕えてきた者たちだ。数はそう多くはないので、馬にのれる者は馬や驢馬にのせ、すこしでも速さを稼ぐ。
「いよいよ長安ともお別れだ。城外には兵も待たせてあるし、楊様らも門へむかっているはず。······いくよ」
「はい!」
琴箭は男装をした梅春を鞍の後ろにひきあげながら、出立をつげた。
「これより長安を離れる、遅れるな!」
琴箭を先頭に蔡家の面々は可能なかぎり落ち着き払って、それでも気だけは急きながら東の大門をめざして足を進めた。
途中、路端にすわる民らはつかの間こちらを見上げたが、将の後に数人がつづく行列をみて、たいした興味を覚えることなく視線をおとした。きっと、また悪役人が罪人とされた連中を刑場へ連行してゆくのだ、とでも思ったのだろう。
自分が悪人と思われることよりも、彼らがそう考えるしかないほどに追いこまれてしまっている事実に、琴箭は胸がいたんだ。
門までは大した障害もないはずだ。郭汜は陛下の密書の件を、おそらくは張済からつたえ聞いたのだろう。おおいに元気をとりもどして、ほぼ毎日のように李傕軍と小競りあいをつづけている。このうえ、朝臣らがこぞってなにやら目論んでいぬかまでは、とても気が回らぬだろう。あとは楊彪らがうまく抜け出してくれることを期待するのみだったのだが──
思いもよらず足を止められたのは琴箭らの方であった。
琴箭らが城門に近づくと、すでにそこは民でいっぱいになっていた。
「これはいったい······」
琴箭は焦りをおぼえて、家人を待たせて馬をおり、民の代表とおぼしき者らと押し合っている郭軍兵のもとへと人波をかきわけた。
「郭軍、蔡忠達である。これはどうしたことだ、何をやっている」
門兵の長らしき男はこちらをみてほっとした顔をして礼をとった。部下どもが槍やら刀やらで近づくなと脅しているが、民のほうが圧倒的に数がおおいので、すっかりとり囲まれてしまっている。おまけにほとんど死物狂いの抗議を挑んでいるのだ。どんな鋭い刃物をちらつかせたとても、いっかな効果なぞあるはずもなく、むしろ下手をすれば逆に叩き殺されかねぬ。
門兵隊長は弱りはてた様子をかくさずにいった。
「それが、先程から門をあけろ、外へ出せときかぬのでございます。畏れおおくも皇帝陛下にお供をするのだなどといい張って」
「なに? 誰です、そんな出鱈目をいう者は」
それまで隊長ともみあっていた民の代表とおぼしき老人が琴箭のほうへ向きなおった。
「上役の御方、彼らにいってください。我々を外にだすようにと」
琴箭は老人をたすけおこしながらたずねる。
「なにゆえ陛下が都を発ったなどというのです。いったい誰がそんなことを貴方に吹き込んだのか」
「確かです、あのお方が嘘をつくはずがない。たしかに楊奉様は」
「楊奉ですと?」
琴箭はギョッとして老人をみつめた。
楊奉! つまりこれを仕組んだのは月塊だというのか?
老人にかわって孫らをしたがえた老婆がこたえる。
「私どもに食糧をお分け下さったさい、楊奉様が仰ったのです。今にきっと脱出の機会がある、おそれながら忠達様のお邸をみはっていればその時がわかるであろうから、と」
何ということをしてくれたのだ。民のために動くとはこういうことだったのか。
きっと彼のことだから、あんなことにさえならなければ自分で護るつもりだったのだろうが、だとしても今となっては救いにはならぬ。
琴箭は苦虫を噛み潰すような想いで立ちあがった。
老婆にまとわりつく孫娘らの訴えるような視線がつき刺さるように感じられる。この子らを見捨てていくとは、つまりかつての己を見捨てていくことと同じだ。
月塊。つまりこれは、アンタが私に突きつけた叱咤なのね。そこまでしてでもやるのかと、そういうことなのでしょう············?
「如何いたしますか。将軍にご報告して──」
「ならぬ」琴箭はあわててピシャリと言った。
「報告は無用。皆さんもどうか聞いてください!」
琴箭は声を張りあげた。
「皆さんの皇帝陛下につき従わんとの想い、都の民としてまこと天晴!
されどこれから陛下が歩まれるのは茨の道! 陛下ご自身も命をかけられる覚悟でありましょう! 戦とてある! これに皆さんを巻きこむことを陛下はお望みにならなかった! それゆえに秘して都を発ったのです! 我々はそのお慈悲をありがたく想い、生き延びねばならぬのです!」
「琴箭様、なぜあのようなことを······」
梅春のつぶやきに、副将が答えるともなしにいう。
「彼らの願いは陛下にお供することではない。この酷い城をでることだからでしょう」
琴箭の言にいちどは気勢をあげた者らも、やがてしなびるように沈黙した。皇帝さえ逃げだしたのに、自分たちには逃げることさえ適わないのか、そんな想いが反抗する気を削いだのかもしれない。
「······どうか······どうか生きてください。私がいえるのはこれだけです」
琴箭はいうと、くるりと民に背をむけた。我ながら、とても顔向けができない。
「あのぅ、皇帝陛下がここを出られたというのは······真に······?」
琴箭はくやしさで泣きそうなところをぐっと堪えて顔をあげた。
「戯けごとを、虚言にすぎぬ。方便でああ申したまで」
「ではこの者らのことは······」
「······出たい者は出してやればよい。貴方がたもこんなことで上から睨まれては詰まらぬ。ここは見ない振りをしていなさい」
隊長はすこし逡巡したが、ではそうします、と感謝の礼をして、部下に大声で開門を命じた。
こうして長安を脱した琴箭一行は、民に紛れて門をでてきた楊彪らと、待機させてあった忠達隊の兵とともに急ぎ董承らの後を追うのであった。
だが──
この、いってみればもたつきが、彼女も思ってもいなかった事態のきっかけとなった。
門での騒ぎは結局、郭汜の耳まで届いた。はじめはまた蔡忠達がうまく事をおさめたとだけ思っていたが、何やらむずむずと引っかかりがあった。
そこで忠達を探させたがどこにもいない。邸も一部の使用人をおいて空になっている。慌てて彼に接待させていた──そもそも朝臣らを懐柔するよう命じたのは郭汜本人だった──楊彪らはと探させると、こちらもすでにもぬけの殻。これは! とピンときた。
「ただちに忠達らを追う! 全軍につたえよ!」
「閣下? いったい」
「陛下じゃ! 皇帝陛下が李傕の檻から出られたのだ! 今こそお身柄を抑える好機!」
「はっ!」
そして、この郭汜軍のうごきをみて不審におもっていた李傕のもとへも、郿宮からの急使が舞いこむ。
「大変でございます! 陛下が──皇帝陛下がどこにもおられません! おそらくお逃げになったかと!」
「何だと!」
李傕は激怒して床几から立ちあがったが、その途端ハッと気づいた。
「いかん、郭汜の奴に気づかれたぞ! ただちに郭汜と陛下を追う! 仕度せよ!」
ありがとうございました!
次部は翌火曜日に投稿いたします。




