琴箭、石胎箴緯にふれること②
琴箭がとおされたのは、意外にも思いえがいていた玉座の鎮座する間ではなく、なんとそこは寝所であった。
薄暗い室のなか、炉のたてるよい香りが鼻をくすぐる。隅にはおおくの侍女と内官が侍立しており、寝台のまわりを、幾人かの老臣が心配げにとりかこんでいた。
柱と天幕をもつ寝台の正面には、ふたりの優美な衣をまとった美人がかしずいている。おそらく皇后・伏妃と側室の董貴人であろう。袖で顔をおおっている、泣いているのだろうか。
であるならば、あの寝台におられるのは──
違和感が虚ろな不安にかわるのを感じながら、琴箭は寝台にむかって拝礼し、床に平伏した。
彼女を案内した内官の耳うちで、ひとり老臣がこちらに顔をむけた。皇后の実父──つまり天子様の岳父たる国丈の伏完だ。
「おお、よく参った。伯昭の娘よ」
「伏様」
琴箭はまた深々と礼をとる。
「帝はそなたへじかに事の進捗を問いたいとの思し召しじゃ。どうかお心を安んじてさし上げてくれ」
「もったいなき御言葉。偽りなくお答えいたします」
こんどは伏完が側にいた内官、穆順に何事か耳うちする。と、穆順は皇后のまえでかしずいて先程の伏完の言葉をつたえた。伏皇后が泣きはらしたのであろう赤味のある目をあげ、潤んだ瞳が琴箭をとらえた。
「陛下」気遣うようしずかに、天幕のかかった寝台の奥に声をかけた。
「お召しになった蔡琴箭がまいっております」
「これに」
澄んではいるが、とても弱々しい声が応えた。
琴箭は伏皇后の手招きに誘われ寝台のまえへ──といってもかなり後ろめに──頭を下げたまま寄ると、ふたたび寝台にむかって拝礼し平伏する。
「皇帝陛下へ拝謁もうしあげます」
「陛下はすこしお疲れである。かまわぬからもそっと前へ」
「はい」琴箭は膝で伏皇后がいいというまでじりじりと進んだ。侍女らが天幕をあけ、寝台のなかが露わとなる。
「蔡琴箭よ」
琴箭はそろそろと袖をくんだまま顔をあげて、おもわずアッとなった。
寝台に横たわったのは一度だけお目にかかった皇帝陛下のお姿。だがそのお顔は見る陰もなくやつれ、青白く、あきらかに病人のそれであった。さすが帝室の血を脈々とうけ継いだ御方、とおもわせた過日の麗しい君とはあきらかに別人である。
皇帝陛下は憂いげにながい睫毛をふせる。
「一別以来であるな、琴箭。朕はそんなに変わったか」
「············」琴箭は黙ってただただ頭をさげる。
「よい、直言をゆるす」
「陛下······私めはこんな············なにも存じ上げず」
とても言葉がつづかない。自分たちが呑気に機会をうかがっている間に、裏ではまさかこんな事になっていようとは。これで董承が事を急ごうとした理由がわかった。
床上の陛下は寝巻のまま、皇后と綿物の布団にささえられ、わずかに上体をあげているのもやっとといった様子である。その白魚のような手が、衣におおわれたうすい胸をおさえる。
「その方と会った頃はまだ旧都(長安)にきたばかりの頃であったな」
いまもはっきりと憶えている。亡き父、伯昭の死の真相をさぐりにきたおり、楊彪から伏完へ、さらに陛下へと話がつたわり、おそれおおくも自分を招いてくださった。そのおり、慰めのとお言葉とともに、先君三代にわたって仕えた亡父にならい、にた境遇の朕に力を貸してくれぬかと仰っていただいたのだ。
ここに、いかな功臣の後継とて、一介の学士にしかすぎぬ女人の琴箭が破格の信用をえた一因が。そして、亡き董卓がどれほど剛腕をふるったのかがわかる証拠がある。
そう、つまり陛下は女君であらせられるのだ。
「陛下」
琴箭はあらため居ずまいをただし、袖をあわせて頭をさげた。
「事は順調にはこんでおります。じつは先頃、もう少々事をはやめてもよいのではないか、との声も上がりました。我ら一同、かならずや陛下と皇族の皆様を都、洛陽へとおつれ遊ばしまする。どうか御身を御大切に、お心安らかにお過ごしくださいますよう」
「そうか」とだけのべ、皇帝はまたすこし顔をゆがめた。皇后とまわりの者があわてて寝具に寝かしつける。
「吉報をまっている」
「ははっ」
次室にさがった琴箭は、伏完とあらためてむきあった。
「董承を急かしたのは私だ。無理な重々承知。だが間に合わなければすべてが水泡に帰す」
「はい。私もなぜ董将軍があれほど頑強に意を通されようとしたのか、よくわかりました」
琴箭は袖をあわせたままうなずく。
「しかし、分からぬこともございます」
「? なんだ?」
「皆様の御言葉を聞いておりますと、まるで陛下がここ、長安の地へきたから御身体を損なわれた、と仰られているような。そして洛陽へお帰りになりさえすれば、万事は解決するのだと仰られているような感がございます」
伏完がジロリと睨むので、おもわず口をつぐんだ。
「······かりに······かりに万が一のことがあったとしてだ。賊に拐かされ、その手中でお隠れになるなどということは、絶対にあってはならぬことだ。それは陛下ご自身のみならず、もはや帝室そのものの滅亡を意味する。これはわかろうな?」
は、と琴箭は頭を下げる。だがまだ得心がいかぬようおし黙っている彼女をみて、伏完は苛立ちげに室内をあるき回っていたが、ふいにフーッと溜め息をついて、「そこへ座れ」と無理やり琴箭を部屋すみの座へと座らせる。
と、脇の書棚から何巻も山積みになった泊書のうちの一巻を机のうえにコトリとおいた。
「これは······?」
「銘して石胎箴緯。漢帝室につたわる幻の書を写したものだ」
「なんと············」
これは言い訳です。
献帝を女性にしてしまったのは、「ぶっちゃけ助けるなら女子のほうがやる気でるよな〜」という安直な理由からでして······
結果的に皇后や貴人も女性となってしまい、こらっ、百合要素はいってんじゃん! という方もおられるかもしれません。ごめんなさい。
皇后や貴人は、あくまでも「お友達」として気があったから傍にはべっている、ということであります。
(まあ、それはそれで残酷ではありますが。伏完も董承もなにやってんの! ってなりますし)
これもすべては董卓さんの剛腕の結果、ということでひとつ······
※董卓さんにもごめんなさい。




