楊奉、李傕の暗政に苦慮すること①
その夜のうち、琴箭はうごいた。
男装になおして郭汜軍が本陣とする長楽宮にとって返すと、兵に命じてひそかに賈 詡の手の者をひきだし、城門まで連行していった。
四人ほどのその者らは、まるで待ってましたといわんばかりのニヤニヤ笑いでこれを迎え、いま、闇の中へ松明をもって去ってゆく。
いったい何のために郭汜を襲った──ほぼ間違いなく李傕側の刺客に彼奴らを潜めていたのか。悔しいけれど見当もつかぬ。
知恵者として賈 詡が一枚も二枚も上手であることを改めてみせつけられているようで、琴箭は唇をかみながら、ただそれを見送るしかなかった。
『本当に宜しいので?』
そうすると告げた際に梅春がこぼした声が、心中に幾度も反響していた。
「仕方ないのよ。いまはひとりでも敵をつくるわけにはいかないもの············」
そう。真の味方なんて、そうたやすく得られるものではないのだから。
長安城は北を黄河、西を黄土高原、南は大秦嶺山脈を頼みに、高祖・劉邦の命によって築かれた険阻鉄壁の都である。
それゆえか、幾度か賊徒によって占拠された過去をももつ。遺憾ながら、今もまさにその最中というわけだ。
本来は皇帝の御座所である未央宮の段を、憂い顔でのぼる者があった。
名を楊奉。李傕軍の将だ。もとは白波谷の賊領のひとりであったが、官軍との追いかけっこに嫌気がさして涼州軍にくわわった男である。
武将らしく厳しい具足を欠かさぬところは、つねに戦にそなえた心構えを現すものだろうか。歩くたび、つむじの後ろあたりでまとめた黒鉄の髪束がゆれる。
勇猛と評判のその名をきけば、誰もが壮健な男をおもい描くだろう。だがその姿は、どうかすると少年のように華奢にもみえた。
宮殿の扉のまえにたった楊奉は、その前に誰もたっていないのをいいことに、ズカズカとそのまま入っていった。門衛なぞいないのも無理はない。いまこの都に彼らの敵はいない。上司の相伴に預かって、下っ端もぐでんぐでんになっているだろう。
楊奉は宮内の酔態ぶりに眉をひそめながら、中央で高々と大笑した男に礼をとった。
「李将軍」
「おう、楊塊ではないか。よくきたな」
この男が李傕、字を稚然。涼州兵十万の実質的な首領にして、現在の長安の主。
武将だけに体格はよく、背も人並みには優れ、みてくれは中々の部類に入るのではなかろうか。腰に剣を佩き、奢侈な衣を着込んだところは朝廷の大臣といった風情である。が、粗野にはやした濃い頬髭が自身の出自を露わにもして滑稽ともみえなくもない。
李傕はせっかくの酒宴に無粋な鎧姿であらわれた楊奉にすこし眉をひそめながら、それでも鷹揚にむかえた。
「なんだ、えらく難しい顔をしよって。まあ一杯やれ」
だが楊奉は、いらん、と一蹴して自身の用事を口にする。
「城の門だが、いつまでああしておくつもりだ。盗賊どもが好き放題にしているぞ」
首領に対してえらくぞんざいな口ぶりにも思えるが、彼らはすべて、そもそもが亡き董卓の配下である。いまや一番手となったとて、李傕とほかの将とは、最近やっと主従の関係となってきたところだ。この楊奉もくわわってから日はまだ浅いが、実力があるだけに李傕もあえて咎めることはしなかった。
「なんだ、またそれか。前もいったろう。そんなにやりたければお前の手下だけで好きにやれ。儂に断らずともよい」
「それだけでは足りぬから言っているのだ。市の様子をあんた、最近見たことがあるか」
李傕の傍にいた将が呵呵と笑っていう。
「市なぞと。商家の連中にはすきに商えと将軍も仰ったではないか。連中も喜んでいたぞ?」
「そのせいで食い物の値がつり上がっているのだぞ。民は飢えている。このままでは誰も助からぬぞ」
「おお、それは大変だ。逃げ出さぬよう門を閉めてしまわねばな」
李傕が意地悪く笑いをとる。酒気くさい笑いがあちこちからおこった。
「いなければ連れてくれば良い。なにせ、ここは天子様のおられる都! 募れば誰もが喜んで列をなそうぞ!」
別の将がいうと、「皇帝陛下万歳! 李将軍万歳!」と一斉に声があがった。
楊奉は不快そうに舌うちする。
「では、民が薪をとりに出ることは許してもらいたい。そのさい護衛につくことも」
御免、といいのこして場を後にした。李傕は諸将と冷笑をかわす。
宮殿の欄干にもたれ、月塊はハアと溜め息をつき、頭をガシガシとかいた。西方の空は鈍い色の雲に占められている。
「楊塊」
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