ひばり、11さい
昨日未明、C県Y町二丁目の住宅で、会社員の東風谷昭雄さん(47)、妻の薫子さん(44)の遺体が、匿名の通報を受けて駆け付けた同町交番勤務の巡査により発見された。
二人は両手足及び頭部を鋭利な刃物のようなもので切断された状態で死亡しており、警察は殺人事件とみて捜査している。
なお同居している長女(11)には外傷が見られず無事だった。
現在は検査のために入院中。事件当夜は就寝中だったとみられる。
また現場には鴉のものと思われる羽根が残されており、犯人の遺留品ではないかと──。
* * *
少なくとも表の世界では、後に〝東風谷夫妻殺人事件〟との名で語られることになるこの事件について、解決の兆しを見ることはありえないのだろう。
やがて時の流れの中で風化していくのみだ。
東風谷雲雀──彼女はその事件の唯一の生存者である。
当時まだ十一歳だった。
肉体的には生存したが、しかし、記憶に関しては大きな傷を負ってしまう。
病院のベッドで目覚めた彼女は、父のことも母のことも忘却の彼方へと送り去ってしまっていたのだ。
人にはみな祖先があり起源がある。
両親とは自身に最も近い起源である。
それを忘れるということは、自己の喪失であると断じても過言ではないだろう。
父母なくして己は在らず。
それらがどのような性格や特徴を持っていようとも、最低限、記憶に留めておかなければ、自身の立ち位置というものがわからなくなってしまう。
雲雀はその後、警察の事情聴取や医師との会話の中から、自らに起きたことを少しずつだが把握していった。
血塗れた床、二つの亡骸。涙。黒い羽根。
現実感はなく、知識として積み重なっていく。
一方で両親との思い出は、靄がかかったようになって不鮮明だった。
知識として得る術だってない。
同様に犯人についても、あやふやだ。
黒い服を着ていたことしか覚えていなかった。
「これが君のお母さん。こちらがお父さん」
一枚の写真を提示して、そこに映る男女を指さして、誰かが言った。
雲雀は(ふーん)とだけ思う。
これで両親の顔かたちはわかったが、思い出がなければ感慨もなにもない。
この二人が死んだからといって、それがどうしたというのだろう。
見ず知らずの遺伝子提供者が死んだ、と聞かされたようなものである。
涙もでてこない。
自分のことであるはずなのに、他人事としか感じなかった。
ある人は悲しみを感じることがなく幸いだと言い、また別の人は親の死を悲しむことすらできなくて哀れだと言う。
どちらの台詞を聞かせてみたところで、この時の雲雀は「はあ」としか言わなかっただろう。
やがて病院を去る時が来た。
親戚が遠方にいるらしい。
雲雀は元より両親ですら、一度も会ったことがない、あまりにも遠すぎる親戚。
当然、引き取り手にはならなかった。
結果的には必要のないことであったが、ならないように手を回した者がいる。
後に雲雀の身元引受人となる、篝杜神社の火渡涼二だ。
彼は事件当日に、匿名の男からの連絡を受けて東風谷家へ駆けつけては、交番に匿名で通報をしたのだった。
現場に残されていた一枚の黒い羽根に、微かな妖力の痕跡があることを感受した涼二は、雲雀ただ一人が生き残ったという幸運に、何かしらの意図めいたものがあるような気がしてならず、彼女を手元に置いて保護する道を選んだのだ。
篝杜神社には同様の被害者が暮らしている、孤児院としての機能を持った神社であった。
子供たちに稽古をつけてやることもあるので、涼二は「お師さん」と呼ばれていた。
それに倣って、稽古を受けぬ者であってもそう呼んだ。
雲雀はそのような子供たちと、決定的に違う点があった。
「……あの子には素養がありますね」
雲雀がやって来てから三日が経ち、涼二の右腕がそう言った。
名を雨宮暁という。
涼二よりも二回り若い男だ。
「しかし、やはり妖怪は見えない様子です」
その報告を受けた涼二は、難しい表情で「そうか」とだけ返した。
暁が更に言葉を続ける。
「とりあえず子供たちには、雲雀に対して不用意な言動をしないように、注意しておきました」
「ありがとう。……しかし、どうしたものかな」
涼二が迷うのは、彼女に霊力の存在を教えることだ。
より正確に言うならば、それを作り出す器官を有しているということをだ。
もっとも今はまだ眠っているが、ならば稽古をもって目覚めさせることは容易い。
ただ、それが必要な措置なのか、どうか。
うんうんと唸りながら首を傾げる涼二の様子を、暁が見守る様にしていたが、しばらくして痺れを切らしたように口を開く。
「僕の個人的な意見ですが……」
「おう。言ってみろ」
「教えた方が良いと思います」
「理由は?」
「身の危険を守る術を得るのに、理由などいるのでしょうか」
「それは、まぁ、そうだけどな。しかし、妖怪が見えてないんだろう?」
このような例は篝杜神社において、初めてのことだった。
そしてそれが最大の悩みの種。
彼らが今まで稽古をつけてきた子たちは、いやそうでなくとも、ここにいる子供は妖怪の見える子なのである。
妖怪の被害者になるということは、今までの常識を破壊されるということであり、今の非常識を教え込まれるということでもある。
それは直接的でなく、家族などの親しい者が襲われた瞬間を見るだけでも充分だ。
しかし雲雀には、その時の記憶がない。
妖怪の姿を見たとしても、脳がそれに蓋をしてしまったのだ、非常識になどなりようがない。
「今からでも教えることはできます」
「認識の問題だからな。うちの山にも妖怪はいるから、適当に無害なやつとでも引き合わせてやればいいだろう。けどよ、それはそれで、危険に自ら飛び込むようなものじゃねえか?」
「見える者を襲う妖怪も確かにいます。しかし僕が言うのは、そのような有象無象の雑魚ではなく、下手人のことですよ。また狙われるようなことがあれば、返り討ちにできるかも。それが無理だとしても、抵抗ぐらいはできるようになるかも。力がないよりは、きっと」
「わからないでもないが……俺が思うに、あの子は生餌だ。親を殺されて憎まない奴なんて、よっぽど悪い親でもなかったらいない。そして力があれば、必ず退魔師になる。いい感じに成長して、追ってきたところを食う。そんな風に考えてるとしたら」
「そこそこの知能がありますね。ゲスな精霊ですか。羽根を残したのは印でしょうか?」
「多分な。まぁ、放牧のようなものと言われれば、人間もやることだからな。でも人と動物はちげえから、反吐が出る。俺たちは、あくまで人の味方だからな」
暁は掛けていた眼鏡を外し袖でレンズを拭うと、一言だけ「理解しました」とだけ答えた。
言いたいことは言った、という表情をしている。
互いの間に齟齬がないように、涼二は言葉にしておく。
「雲雀が保存食なら、逆に、成長させない方が安全だと思う。今のままなら本当に普通の人間なんだ」
とは言うものの、暁の意見にも一理あるから、また唸り始めるのだった。
篝杜神社では、退魔師としての稽古をつける子供を決定するにあたって、二段階を踏む。
最初は霊力の有無。
次いで本人の意志だ。
霊力を作り出す器官、いわゆる霊巣を先天的に持っているということは、退魔師にとって大きなアドバンテージとなる。
後天的に、例えば霊薬と呼ばれる秘薬を用いるなどして形成させたそれよりも、やはり本人に馴染んでいるからだろう、と考えられている。
故に妖怪が見えるとしても、強い意志を持っているとしても、霊巣がなければ戦い方を教えることはない。
霊薬を勧めもしない。
それが不満で出ていく者もいる。
次に、本人の意志を欠くようなことはしない。
少なくとも、独立して常識的な社会の中で暮らすようになれば、妖怪を認識できる程度のこと、霊巣を有している程度の非常識さは覆い隠すことが可能となるからだ。
普通に生きたいと本人が願うなら、当然その方が良い。
よって無理強いはしないし、その話をする時の言葉遣いにも細心の注意を払う。
ただこれらは、妖怪が見えることを前提としたルールだ。
霊巣を持ち、非常識でない者のことは考えていない。
妖怪の脅威に晒されて、まっとうな認識を保つ例はとても少ない。
雲雀は運が良かったと言えるだろう。
涼二はそう考える。
「やっぱ隠すか、こちら側のことは。だいたい見えない方が普通なんだ。俺ら人間の味方が、捻じ曲げてやるわけにはいかんだろう」
そう結論付けて、閉廷の挨拶をする裁判長のように、ぱんっと一度の拍手をする。
「そう、普通が一番だ」
「わかりました。では皆にもその旨を伝えておきます」
「おう、悪いな」
「仕事ですから。あと念のため、護符の手配もしておきます」
「そうだな。別の思惑があるかもしれん。予算は……」
こうして東風谷雲雀は、普通の少女として、新たな生活を迎えることとなる。
昼間の世界を生きることになる。
最初の頃は無口で無表情な子であったが、次第に笑顔を見せるようになっていった。
「お師さん、おはようございます」
「おう、雲雀。今日も元気そうだな」
他の子たちを倣って、涼二のことをそう呼ぶようにもなった。
記憶の喪失が、ある意味では、良い方に働いたのかもしれない。
仲の良い友達もできたし、中学校も楽しそうに通うようになっていった。
事件について無神経にも嗅ぎまわろうとする輩、世界の表側しか知らぬマスコミ及び警察などの接近は、篝杜神社が徹底して排除した。
過去をなかったことにはできない、いつかは向き合う時がくる。
しかし今だけは平穏を覚えて欲しい。
そんな思いを、涼二は新たな子供が来るたびに抱くのだ。
酒の席で暁にそう零して「凄いですね」と言われたことがあった。
「僕はいつも、これは仕事なんだ、と自分に言い聞かせてますよ」
ということらしい。
涼二にはその言葉の意味がわからなかった。
それを察してか、彼はもう一言付け加える。
「辛いじゃないですか、そんなにも入れ込んでしまうと」
さもありなん。
退魔師として送り出した子たちの、殉職の報せを聞くのは辛い。
親の仇を取るための力が備わってないと知って、俯く子を見るのだって辛い。
戦いの道に、行かせても行かせなくても、辛く思う。
彼ら彼女らの真の救いはどこにあるのだろうと。
ふと頭に浮かぶのは、新入りの女の子のことだった。
「雲雀は、自分がどんなに辛い目にあってるかも、わかってねえよな」
「そうですね。両親の記憶がないから、最初からいないようなものなんでしょうね、彼女の中では」
「おかげで憎しみを抱かずにいられるのかもしれんが、それもどうなんだろうな」
「僕らが関与すべきではないと思いますよ。雲雀自身が決めることです」
「それもそうなんだが、俺たちが次の家族なんだ。少しは助けてやりたいじゃねえか」
涼二の言葉に、暁がくすりと笑う。
「だから余計に辛くなるんですよ。……まぁ、貴方がそれでいいなら、いいと思いますよ」
神社の長は「生意気な奴だ」と笑って酒を呷った。
東風谷雲雀が篝杜神社に住むようになってから、およそ三年が経とうとしていた。
中学校、卒業間近。
高校受験の結果が出る、緊張すべき日のことである。
雪が降りそうな曇天の中、雲雀は境内へと続く石段を駆けあがっていた。
吐く息が白く染まるほど冷え込んでいる。
けれど気持ちはとても昂ぶっていた。
雲雀は今日、無事に志望校への合格を勝ち取ったのだ。
(みんな褒めてくれるかな)
そのことを考えると自然に顔が緩む。
高揚する気持ちを表すかのように、雲雀は最後の三段をひょいっと、飛び越えた。
真っ赤な鳥居をくぐって、境内を見渡す。
「……え?」
目の前に広がる石畳、それが真っ赤に染まっていた。
その上を点々と転がるは、彼女のよく見知った顔たちだ。
雲雀は思わず目を逸らしたが、彼らの胸には一つの穴が空いている。
(考一、みひろさん、沙綾香、徹くん、正一……そして暁さん)
暁までもが死んでいた。
その光景を前に彼女は膝から崩れ落ちる。
瞳からは自然と涙があふれ出す。
震えだす体を抑えるかのように腕で抱いた。
ぽたり、ぽたりと灰色の地面に黒い染みができあがっていく。
今日はきっと良い日になる、そう思って帰ってきたのだ。
だというのに、突き付けられた現実はあまりにも冷たく暗い。
その時、微かにだが声が聞こえて、雲雀の顔がぱっと上がる。
「お師さん?」
涼二のものらしき声が聞こえたのだ。
だがしかし、濡れた瞳が捉えたものは期待を打ち砕くものだった。
「あ、あぁ……あぁぁ……!」
雲雀の口から漏れ出すのは、風船の口から漏れ出す空気の音によく似ていた。
男が一人、参道の真ん中に立っている。
いつのまにやら、さっきはいなかったはずの男が、目の前に立っている。
喪服のような格好のひょろりと細長いシルエットは、まるで鴉の羽根のようだ。
火渡涼二が男の傍らに立っていた。
その胸からは血塗られた腕が生えている。
そんな有様にも関わらず、彼が最後の力を振り絞って発した言葉は「逃げろ」の一語だ。
それだけを遺言として、前のめり体は倒れる。
その運動を利用し、男は涼二から腕を引き抜いた。
雲雀は動けなかった。
恐怖に身を竦ませていた。
目を逸らすことすらできずにいる。
男は雲雀の傍までやって来て、身を屈めると血生臭い手を頭にぽんと置く。
そして残念そうに
「まだまだ、ですね」
と呟いた。
瞬間、雲雀の脳裏に、あの日のことが蘇る。
あの鮮血の夜のことを、はっきりと思い出す。
両親が与えてくれた思い出の全てを思い出した。
そして二度と忘れることはないだろう。
父の無念、母の愛情、己の無力さを。
「アンタが……アンタが……!」
雲雀の体は震えていた。
最早それは恐怖からではなく、怒りによるもの。
忘れていた、感じることのなかった憎しみが、心の奥底からふつふつと沸き上がってきている。
雲雀はしっかりと男の目を睨み付けた。
「殺してやる!」
十代半ばの少女の出す声音ではない。
大地を踏みしめるかのような力のある声。
か弱かった女の子が鬼気を発する様を見て、男はくつくつと喉で嗤った。
すると、男の身をくらますかのように漆黒の竜巻が現れる。
無数の烏の羽根がびゅうびゅうと風切り音を立てながら、男を中心にして回っている。
それが忽然と収まれば、そこには既に男の姿はない。
ただ声だけが聞こえた。
「今のままでは無理ですね」と。
雲雀の前に姿を現した闇黒の道が、どこへ向かっていようとも、彼女は決して歩みを止めない。
自らの意志で、ただ胸すわって進むのみ。
初雪の日のことだった。
この虐殺そのものは、篝杜神社全滅事件として退魔師たちの間でも有名だ。
ただ、その生き残りがいたことを知る者は、当事者である二人を除いてはいない。
ましてや、東風谷雲雀がその後どのような足跡を辿って、退魔師となり学校の異界の前に姿を現したのかは、誰にわかろうものなのか。




