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黒羽天 ─愛憎の退魔少女─  作者: 壱原優一
第1章 異界学校迷宮
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奴の名はクロハネ

 数時間ぶりの外では、空がすっかり白み始めている。

 夏の夜明けは間もなくだ。

 雲雀は、今日の天気はとても良さそうだと、微かに空気に混じり込んだ熱気から予想する。

 肺一杯に新鮮な酸素を取り込む。

 異界の空気はどんよりとしていて、埃っぽいものだったから、とても美味しく感じられた。


 校舎を振り返る。

 そこにはもう異質な膜のようなものに包まれた木造建築はない。

 不意に頭をよぎるのは、最後にあれに乗っ取られかけた時のことだ。

 その時にも、声が聞こえた。

 ほたると別れた直後にも耳にした、あの声だ。

 その言葉は果たしてなんであったか……。


「本当はわかっているんだろう?」


 やはり、これだったろうか。

 記憶があやふやで定かではない。

 しばらく校舎を見上げながら考える。

 だが結局、思い出せなかった。


 雲雀は自虐的な笑みを浮かべ「馬鹿馬鹿しい」と独り言を吐く。

 どうせ異界に潜む妖怪か何かの言葉なのだろう。

 そう自分に言い聞かせた。

 それからようやく校庭に向かって歩き出す。

 ほたるは随分と先に行っていた。

 携帯電話を取り出して、どこかへと連絡しようとしている。


(あぁ、異界省にか)


 仕事の片が付いたことを知らせるためか。

 得心がいって、ならば自分はいいかと、取り出しかけていた携帯電話を仕舞った。

 次の瞬間、雲雀は目を大きく見開き、喉から言葉にならぬ叫びをあげる。

 頭の中を渦が激しく掻きまわす。

 泡のように湧いては消える「どうして」の一語。


「どうして!」


 ほたるのすぐ傍に男が立っていた。

 男が身に纏うのは、闇を思わせる漆黒のスーツ。

 その下にあるシャツもまた黒。

 髪をオールバックにするための整髪料の所為か、月光に照らされた黒髪が艶を発している。

 全身は針金細工のようにひょろりとしているが、存在感はあまりにも強い。

 にもかかわらず、男の接近に雲雀はおろか、ほたるさえも気付かなかった。

 神出鬼没。

 その言葉が男にはよく似合う。

 ほたるの体がボールのように跳ねて、ごろごろと校庭の上を転がっていく。

 腹を殴られたのが、雲雀の場所からでも見えた。


「クロハネぇぇぇえええ!!」


 それと同時に雲雀は、再び喉が引き裂けそうな程の怒声を、黒い影へと放つ。

 霊力の弾丸もそれに続いた。

 我を忘れて連射、連射。

 一挺だけでも、普段の二挺分の働きを見せそうな勢いだ。

 引鉄をひく指が攣りそうになる。

 だが例え千切れようとも、雲雀は止めるわけにはいかないのだ、今だけは。


 雲雀は既に地面を転がっていって、そのまま起きる気配のないほたるのことなど、どうでもよくなっていた。

 死んでしまったのかどうかも、疑問にならなかった。


 クロハネ──雲雀がそう呼ぶ彼の者こそ、雲雀の終生の敵なのである。

 家族を奪った許しがたい仇敵なのである。

 必ず殺すと、誰でもない自分に誓った相手なのである。


 その男を弾丸から守ったのは、漆黒の羽根だった。

 鴉のそれによく似ている。

 故に男の名はクロハネ。

 両親の亡骸の傍にも落ちていた、見せつけるかのように。


 無数に散らばる弾丸の一つ一つを、無数に散らばる羽根が遮っていく。

 貫通できない。

 流石に距離が遠すぎるか。


 止まぬ雨を気にする素振りなどまるで見せず、彼は丁寧な様子で振り返り一礼した。


「お久しぶりですね、東風谷」


 と人付き合いのよさそうな声色と、仮面のような笑顔で。

 その紳士然とした態度が、雲雀の神経を逆撫でさせる。


「殺してやる! 殺してやるからな! 逃げるなよ糞野郎!」

「少しは成長したところを、見せてもらいたいものですね」


 雲雀は大地を蹴った。

 連射しながら、クロハネに向かって直進する。

 殺傷距離圏内に至っても、なお羽根が邪魔をした。

 どうしても貫通できない。弾丸の霊力を相殺するように、妖力を宿らせているとしか考えられなかった。


「だったら……!」


 雲雀は更に加速しながら、一直線に男を目指す。

 つまり突貫。

 一見すると、ただの無謀とも思える。

 しかしそれは功を奏した。

 弾丸を阻害する羽根であっても、人ひとりを阻害するには叶わなかったのだ。

 シャツを、頬を、手の甲を、羽根に傷つけられるが、ただそれだけだ。


 クロハネは棒立ちのまま、笑顔を崩さない。

 不愉快なその顔面に雲雀は、


「死ねぇぇええ!!」


 右拳をお見舞いする──ことはできなかった。


「これで殺せるほど、私は弱くありませんよ」


 左手で難なく止められ、手首を捻られてしまう。

 地に足が着かない。

 重力に引っ張られて肩が外れそうになる。

 雲雀は苦悶の表情を浮かべながらも、男の深海ほどに暗い瞳を睨み付ける。


 そして「まだ終わってない!」と吠えると、拳銃を握る左手を振り上げて、男のこめかみに銃口を押し当てた。

 花子さんにもお見舞いした接射である。


 だが、それも叶わなかった。

 寸でのところで、拳銃を奪われてしまう。

 クロハネは雲雀の一挙一動を予見していたのだろう。


 この有様では、雲雀が幾ら血眼になってもう片方の腕や、足で暴れてみたところで無意味だ。


「殺す殺す……!」


 壊れたレコードのように繰り返される一つの言葉。

 それを無視してクロハネが、彼女の首筋にへと鼻を寄せてきて言う。


「何やら臭いますね。薬ですか。だから君は弱い、東風谷」


 弱い。

 雲雀は心のうちでは、それを繰り返し唱えていた。

 男に指摘されるまでもなく、わかっていることだ。

 だから霊薬を服用し続けている、少しでも霊力の総量が増せばと思って、だがそれすらも弱さの象徴のように言われる。

 両親の仇に、仇敵なのに、知った風な口で。


 その彼の言葉に重なるように「手を離せ!」と少女の声が合わさった。


 雲雀の視界の端に、鈍色に輝く刃が映る。

 薙刀の切っ先。

 その行方を知る前に、肉体は宙を舞って肩から大地に落ちた。

 投げ飛ばされたのだ、凶刃から左腕を逃さんとした彼によって。

 果たしてそれは叶ったようで、半身を起こして拳銃を構えた雲雀の目は、やはり五体満足のクロハネを捉えていた。

 その男の手前にある、真っ白な背中を見る。

 それがほたるの背中だと、ややあってから気付いた。




 目の前の男が、果たして雲雀とどのような関係にあるのか。

 そんなことは、ほたるにとっては考えるまでもないことだった。

 必要のないことだった。


 ──敵である。


 腕だけで吊り上げられる姿を見せられて、そう思わぬ者などいないだろう。

 そんな彼女を見た途端に、ほたるは頭に血が昇るのがよくわかった。

 けれど思考は明瞭としていて、まずは雲雀を捕える男の腕を斬り落とさなくてはと、思うや否や体が動いていた。


 ただ、その一刀は男の想定範囲だったようで、余裕綽々な態度で躱されてしまう。

 それでも雲雀が自由になったのならば、ほたるにとってはそれで充分なことだった。

 倒すことは、これからでもできることだと、ほたるならば考える。


「貴方は……何者?」


 ほたるが投げかけた言葉には、表層以上の意味があった。

 彼女は今、雲雀と男の間に割って入って、少しでも雲雀が回復するのを待っている。

 つまり時間稼ぎのためなのである。


 男はその意図を察してなのか、はたまた自身の都合によるものか、雲雀に向かって口を開く。


「東風谷、覚えておくといい」


 喋る男の周囲に、漆黒の羽根が闇から湧いて出る。

 それは男を中心として、漆黒の渦を形成していった。

 羽根はなおも増殖し、遂には全身が隠れてしまうほどになる。

 その向こう側から、声だけがこちら側へと届くのだった。


「君は、そこの巫女よりも弱い」

「雲雀ちゃん、耳を貸すことないからね」

「私を本当に殺したいのならば、まずは薬をやめなさい」

「薬ってなんのこと!?」

「では、またいずれ」


 男の気配がどこかへ遠ざかっていくのを、ほたるは感じ取る。

 あの漆黒の竜巻は消え去って、数枚の羽根だけが後に残されている。

 なにがなんだかわからないが、ひとまず危機を逃れることはできたらしく、ほっと一息吐いた。


 振り返ると、雲雀は立ちあがっていた。

 その背になんと声をかけたらいいか、少しだけ迷う。

 そのうちに彼女は歩き出した。

 ほたるの方を一瞥もせず、すたすたと足早に立ち去ろうとする。


 ほたるは慌てて駆け寄って「ねぇ!」と肩を掴んだ。

 瞬間、心臓を冷たい手に握りしめられたかのような錯覚に陥る。

 首だけ振り返った雲雀と、目が合っていた。

 彼女の瞳はとても暗く、深海の冷たさを思わせるような色をしていた。

 本当に一瞬だけで、彼女はまた前を向く。


 ほたるは何も言えずに、小さくなっていく雲雀の背を見つめ続ける。

 それがやがて完全に見えなくなった頃、彼女は天を仰いでぽつりと


「なんなんだよぅ、もう……」


 と零した。


 太陽はすっかり顔を出していて、朝の挨拶を降り注がせるのに忙しそうである。

 今日も暑くなるのだろう。

 ここのところは、ずっと夏日和だと伝えられてきた。


 しかし夏休みは、まだ始まったばかり。

 本格的な夏には、もう少しだけ間がある。


 今年の夏は……いつもより暑くなりそうだ。


 ほたるは、特徴という特徴のない公務員を待ちながら、そう予感していた。

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