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黒羽天 ─愛憎の退魔少女─  作者: 壱原優一
第1章 異界学校迷宮
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長い夜の終わり

 ほたるは小さな悲鳴をあげる。

 雲雀の胴体に、文緒の頭部が埋没している様は、あまりにもショッキングなものだった。


(助けなきゃ!)


 しかし花子さんに腕を掴まれて止められてしまう。


「離してっ、花子さん!」

「落ち着きなよ。どうせ相手は死にかけ、雲雀チャンなら大丈夫」

「でも……!」


 そう言われても、易々と落ち着けるはずがない。

 雲雀は硬直したままであるし、頭の隠れた文緒の方は手足をばたつかせている。

 さながら胃壁に潜り込もうとするアニキサスのように。


 だが忽然と、その動きが止まった。


「ほらね」


 と言って、花子さんがにっこりと微笑む。

 次の瞬間には雲雀の体から文緒がその身を、風にまかれる木の葉が如く、きりもみしながら吐き出されるのだった。


 床に伏した文緒は小さく「ちくしょう」と呟いた。

 何度も何度も、繰り返しそれだけを。

 そのたびに周囲の空間が綻んでいった。

 異界の崩壊がどんどん加速していく。

 本当に死が間近なのだと、ほたるは悟った。 

 あの四人の幽霊は、舞台の上から文緒に対して聞くに堪えない暴言を浴びせている。

 それも僅かなことだ、彼らの体は今度こそ、正真正銘の死の痛みに苛まれなくてはならない。

 実体なき幽霊、妖怪であっても、生きているのだから、死は平等に訪れる。


 ほたるは父の言葉を思い出していた。




   *   *   *




「退魔師という仕事を続けていれば、酷い死に様を迎えることもあるだろう。死ぬよりも辛い目にもあうかもしれない。いや、退魔師じゃなくても、だな。人はいつ、どんな風に死ぬかわからねえ」


 ほたるはその時まだ幼く、退魔師について深く考えていなかった。

 けれど医者の子が医者になるのと同じように「私は退魔師の娘なんだから退魔師になる」と漠然とした意識を持っていた。

 退魔師がどのような仕事か知らないまでも。

 言うなればそれは、子心なのであろう。

 親が退魔師でなかったのなら、彼女は決して退魔師になることはなかったろう。

 その仕事の存在を、何かしらの理由で知っていたとしても。


 だからだろうか、ほたるには今現在も、この仕事の意味だとか、なる上での心構えだとか、覚悟、強い意志、そういうものが欠けている。

 やりがいや、誇りを持ってはいても、特に強いこだわりなく、ほたるは退魔師でいる。


 もしも父であれ母であれ、強く反対されたならば、ほたるはきっと、退魔師になることはなかっただろう。

 また、今からでも辞めろと言われでもしたら、きっとそうするだろう。

 ほたるは何も親に従順なわけではないから、納得のいく理由を求めるだろうが、それこそ酷い死に様を娘に迎えて欲しくないからとでも答えられたら、彼女は辞める。

 退魔師を。

 すっぱりと。

 自らの意志で。

 親を悲しませたくはないから。


 父が更に続けた。


「だからこそ、自分が望む死に方をした時は、最も幸福なんだと俺は思う」


 ほたるは首を傾げた。


「よくわかんない」

「ほたるは今、死にたいと思うか?」

「えー、やだ!」

「そうだな。お父さんも今は嫌だ。大抵の奴はそう答えるさ。人だろうと妖怪だろうと、死ぬ時ってのは嫌なもんだ。納得いかないし、不条理だと思うもんだ。けど、もしも、そう思うことのない死期が自分の中にあって──まぁ寿命ってのが多いかもしれねえが──その時に死ねたなら、納得もいくし道理だとも思える。本望というやつだな。それはこの世で、一番幸せな死だろうよ。……宝くじに当たる以上に、滅多にないことかもしれない」


 やっぱり、ほたるは難しい表情で首を傾げた。


「たからくじ、こんどは当たるといいね?」


 父は豪快に笑って、その小さな頭を撫でた。


「まぁ、今はわからんよな。お前はまだ、死んでも良いと思えるほどに生きちゃいねえ」


 言葉の意味はわからなくとも、何か大事なことを言っているのだと、幼心に感じていた。

 だから今日こんにちまで記憶の片隅に留めておけたのだ。




   *   *   *




(幸せな死。文緒にはせめて迎えて欲しかった)


 床の上でのた打ち回る彼女と、それからとうに消え去ってしまった彼女とを重ね合わせて、ほたるは胸の前でぎゅっと拳を固めて小さく祈る。


 四人の幽霊が苦悶と怨嗟の叫びをあげながら、幽霊としての、妖怪としての死を迎え終えて消え去る頃と、時同じくして、遂に文緒の体も光の粒子らしきものになって天へと昇り始めた。

 既に「ちくしょう」と罵る声は聞こえなくなっている。

 体育館の様子もすっかり変容して、どこかの廊下がうっすらと背景に窺える。


「あっ!」


 ほたるは信じられない光景を目にして、裏返った声をあげる。

 光が再び文緒の姿を形成していくのだ。

 そして、その文緒はほたるらの方に顔を向けて、唇だけで言葉を作る。


「ありがとう」


 と清々しさのある笑顔を添えて。

 それが彼女の遺言となった。

 気付けば、ほたるは下駄箱の並ぶ昇降口に立っていた。

 雲雀と花子さんもいる。

 長い長い夜の戦いは、これにて完全に決着したのだった。

 ほたるは最後に花子さんと言葉を交わす。


「ありがとうございました」


 と頭を下げると、彼女は照れくさそうな笑みを浮かべた。


「いやいや、こっちこそ、ありがとう。助かったよ、学校も元通り……とはいかないけど、わたしの元に戻ってきたし。特に雲雀チャンには、わたしをトイレから出してくれたし、バッジをあげたいくらい」

「フンッ。貴女みたいなのはトイレがお似合いよ」


 雲雀の悪態に花子さんは意地の悪い笑みを浮かべて、


「トイレの花子さんに、それって褒め言葉でしょ」


 と返したが、即座に否定の言葉が飛んできた。

 それから言い合いが始まって、その間ほたるは(仲が良いのか悪いのか)と決して言葉には出さずにいた。

 一段落がついた頃に、ほたるは花子さんに訊ねる。


「それで花子さんは、ずっとここに?」

「うーん……どこか良い感じのトイレに移ろうかな。友達もいなくなっちゃったし」

「そっかぁ」

「どこかに“トイレの花子さん”が出るトイレがあったらよろしくね。まっ、わたしが出るとは限らないけど!」


 今度はからからと笑った。

 よく笑う妖怪である。


「呼びだして、今度こそ退治してやるわ」


 との雲雀の言葉にもやっぱり笑う。

 馬鹿にするように。

 また食ってかかりそうになる雲雀を、ほたるは宥めながら、


「それじゃ、またね」

「ばいばーい、退魔師さんたち。楽しかったよ」


 別れの挨拶を交わして、古めかしい玄関から外へと出ていった。

 二人の姿が見えなくなってから、花子さんは小さく言葉を漏らす。


「……ちぇ。もっと遊びたかったなぁ」


 それはとてもとても寂しそうな声だった。

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