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黒羽天 ─愛憎の退魔少女─  作者: 壱原優一
第1章 異界学校迷宮
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その日、風は花と出会って

 窓から差し込む朝の光に目を細めながら、男が新聞を大きく広げた。

 社会面の片隅に“東風谷こちたに夫妻殺人事件から早六年”との見出しが浮かんでいる。

 それを眺めながら、男はコーヒーカップを傾ける。


 もう、そんなに経つのか。


 地獄のように熱い漆黒を胃に流し込みながら、そんな風に感慨深く思った。

 脳裏に幼子の姿が浮かぶ。

 その事件の唯一の生き残りは、今どのように成長したのだろう。

 男はそれを思えば笑みを零さずにはいられなかった。



   *   *   *



 湿気の香る山道に街灯などあるはずもなく、月影のみが標となっている。

 そこを少女が歩いている。手にはジュラルミンケースをぶら下げて。

 シャツとジーンズという夏の軽装に対して、それは少々厳つく映る。

 緩やかな傾斜に、舗装された道であるため、然程の苦難ではないだろうが、夜の夜更けにまだ十代の頃の少女がてくてくと歩く様は奇異と言えよう。


 少女は名を東風谷こちたに雲雀ひばりと言う。

 すらりとした痩躯に、短く揃えられた黒髪が少年的だ。


 蝉を始めとする数多の虫たちが生む喧騒の中を、淡々と進む雲雀の視線の先に、遂に門の姿が現れた。


 それはかつて小学校の一部として、毎日幾人もの児童を受け入れてきたのだろうが、今では錆びつき赤茶けている上に、鎖で頑強なまでの封印を施されている。

 門柱に書かれた学校名はすっかり消え去り判読することができない。

 とても長い年月が過ぎているらしい。


 山の上にある学校は不便だ、それ故に移転してしまった。

 ただその木造の校舎だけが、人から忘れ去られた今も残されている。


 門柱の傍の人影に気付き、雲雀は軽い会釈をする。


「どうも。退魔師の雲雀です。こちらが免許になります」

「これはこれは、ご丁寧にどうも。名刺をどうぞ」


 その人は一見すると、ただのサラリーマンのようだった。

 高くもなければ安くもないスーツを着る平社員にしか見えない。

 どこにでもいそうで、印象に残らない男だ。

 名前の所にも“田中一郎”と書かれていた。

 雲雀は鈴木や佐藤に以前に会ったことがある。

 名も体も存在感がないという点が共通している。

 そして名刺の端に“異界省”という、通常聞くことのない言葉が記されているのも同じだ。

 そこだけ存在感が段違いだ。


「どうぞこちらへ」


 田中は言うや否や門を飛び越える。

 人の背よりも少しばかり高いそれを、助走もなしに飛び越えたのだ。

 雲雀もその後に続いて、学校の敷地内へと足を踏み入れた。


 門から校舎までの間には、だだっ広い校庭がある。

 その真ん中に、今度は別の人影を発見する。

 田中とは違って、その人物は赤と白という派手な色模様の服を着ていたために、よく目に付いた。

 巫女らしい、けれど肩にギターケースを背負っている。

 歳は雲雀と変わらない。


 それは雲雀らの近づく気配を察知してか、校舎の方をじっと見つめるのをやめて振り返り、その場で会釈をする。

 それから近くまで歩み寄って、肩にかかる栗色の髪をそっとかき上げると、雲雀に向かって手を差し出してきた。


「こんばんは、はじめまして。椿杜つばきもり神社からやってきました、椿坂つばきざかほたるです。よろしくお願いしますね」

「どうも。東風谷です」


 雲雀は簡素な挨拶を返して握手に応じる。


 緊張感のない、ぽやぽやしただ。

 そんな感想を抱いていた。

 一緒に仕事をこなすにあたって大丈夫だろうかと不安が差しこんで、表情かおが微かに曇る。

 それに気付いているのか、いないのか、巫女は変わらずニコニコ笑顔を浮かべている。


「えっと、下の名前をいただいても?」

「雲雀」

「雲雀ちゃん、と呼んでもよろしいですか?」


 椿坂に和やかな笑みで請われ、


「……別に構いませんけど」


 と答えながら、ぷいっと雲雀は視線を外す。

 ちゃん付けで呼ばれたことよりも、やたらに目を覗き込むようにして話してくるのが気に障った。

 目は口ほどに物を言うものらしいから。


「では、ご挨拶も済んだようですので、ご説明に入りたいと思います」


 田中の一拍に促されそちらに向き直ると、今回の仕事の説明が始まった。

 とは言え、前もって書類を受け取ってあるから、雲雀はそれを思い出しつつ齟齬がないかを確かめる。


 依頼内容は至って単純。

 異界と化した学校の正常化である。

 近々、校舎を取り壊すことに決定した為、放っておくわけにいかないらしい。


「事前調査では内部はさながら迷路のようで、たとえばトイレの戸を開けますと音楽室に通じたりするようです。マッピングも意味を成しません。音楽室の戸を開けてもトイレに行けるとは限らないからです。ただし、扉を開けっ放しにしていた場合は、行き来可能のようです。閉じた時のみ出入り口が歪むようですね」


 適当な相槌をしながら雲雀は、ちらりと横目で巫女の様子を窺う。

 彼女は神妙な面持ちで、こくこくと頷いていた。

 真面目である。


「それで、えー、新たな問題が一つだけありまして。どうやら、この異界は十年以上前から発生していたようなのですが……まぁ、それはよくあることなんですが」


 ずっと放置してきたために、廃墟マニアや肝試しにきた怖いもの知らずが、年に二組三組ほど学校に呑まれて消えているとの話も、書類にはなかったが、聞いている。

 学校を移転した際に校舎を撤去しておけばよかったのだろうが、金の掛かることだしと有耶無耶にして今に至る。


 だからと言って同じ公務員である彼を糾弾しても仕方のないことであるし、それで自分に仕事が回ってきたことも事実であるから、雲雀は黙って話を聞き続ける。


「近年になって少しずつですが、異界が広がり出しているようなんですね」

「広がっているとは?」


 椿坂が訊ねた。


「校舎をご覧ください」


 言いながら田中は横長に伸びる三階建ての木造建築を指さす。

 その中央に屋根の付いた玄関があって、薄汚れた木の扉は鎖で硬く閉ざされていた。


「あそこから前後左右に五メートルほど先は、既に異界の一部です。校舎と同じ長方形ですね。そのような様子には見えませんが、足を踏み入れればわかると思います」


 今度は雲雀が口を開く。


「その広がるスピードというのは?」

「一年で校庭全部といったところでしょうか」


 その答えに雲雀は、ほっと胸を撫で下ろす。

 新たな問題という田中の言葉に、もっと危機的な状況を思い浮かべていたのだが、一週間やそこらで山全体や人里に及ぶわけではないと分かり、気が抜けた。

 椿坂も同じ気持ちのようで、見ずとも、隣で肩の力を抜くのが感じ取れる。


 田中が鞄からお札のようなものを二枚取り出した。


「二人には、これを渡しておきますね」

「これは?」


 首を傾げて問う雲雀に、椿坂が男の代わりに答える。


「異界脱出用の呪符ですよ。異界は入るのは簡単ですけど、出るのは難しいので、これを使って空間に穴を開けるんです。ただ異界には元通りに修繕する力がありますから、長時間外への道を作ることはできませんけど」

「詳しいのね」


 へぇ。と雲雀が感心すると、彼女はえへんと胸を張った。


「これでも一応は巫女ですから、符術はよく使うんです。こういうものは初めてですけど」


 雲雀は、見た目や雰囲気から彼女を少々侮っていたことを、密かに恥ずかしく思っていた。


 退魔巫女の多くは神社に所属している。

 対して雲雀のように無所属の退魔師は“根なし草”と呼ばれる。

 両者の間にある大きな差の一つが知識だ。

 “根なし草”が知識や情報を得るためには、一から人脈を築き、金銭を費やさなければならないが、退魔巫女ならば神社がその役目を負ってくれる。

 これに勝ることは至難の業だ。

 特に雲雀の人脈はとても細いのだから。


 田中がもう一つ鞄からなにかを取り出した。 


「あとこれは玄関の鍵です。では、ボクはこの辺りで」


 それで全ての仕事は終わりだと言わんばかりに、彼は椿坂に鍵を手渡すと、すたすた元来た道を戻っていった。


 雲雀は椿坂と顔を見合わせ、互いに呆れた気持ちを露わにすると、玄関へと向かう。

 確かに五メートルの範囲へと足を踏み入れると、ぞわりと背筋を悪寒が駆け上がった。

 そこから一歩戻り、地面にジュラルミンケースを置いて蓋を開く。


「ふへー、銃ですか」


 横から覗き込んで、ほたるが恐々とした声を漏らす。

 本物だと思っているのかもしれない。


「モデルガンです、改造した」


 雲雀は念のため捕捉すると、彼女の表情が少し和らいだような気がした。


 ケースの中には、それが二挺あった。

 無論、ただの玩具ではなく対妖怪武器だ。

 霊力を吸収するプラスチックにも似た材質を用いている為とても軽く扱いやすい。

 その霊力を弾丸型に圧縮する機構が組み込まれている。

 空気銃ならぬ霊気銃というわけだ。

 加えて銃身の内側には経文が刻まれており、それは実銃に施されているライフリングのように霊力弾に転写され、妖怪に対して効果的な結果をもたらすのである。


 今度は雲雀が、ほたるのギターケースを覗き込む。


 反り返った刃と、朱色の柄が収まっていた。

 どうやら薙刀らしい。

 無銘の量産品であり、巫女装束を着た日に与えられたものである、とは持ち主の弁だ。

 刃物として並以上の機能はもたないが、それでも霊力を帯びれば妖怪退治には充分な効力を発揮する。

 退魔巫女の間では日本刀に並ぶ一般的な武器である。

 どこか誇らしげに彼女がそう語っていた。


 取り出した装備を再度確認してから、いよいよもって異界と化した学校へ突入すると、雲雀は呆れるというよりも、感心するように


「本当に滅茶苦茶なのね」


 と呟いた。

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