第7話 赤い線を見つけた者
最初に見えたのは、手だった。
迷宮の暗がりから、泥だらけの手が出てきた。
石床に爪を立て、赤い線の横を掴む。
線は踏んでいなかった。
それだけで、この手の持ち主はまだ見えていると分かった。
「触るな。乾いてない」
俺が言うと、手がびくりと止まった。
次に、女の顔が見えた。
短い髪。
頬に擦り傷。
短剣は腰にあるが、抜く力は残っていない。
「サシャ」
マノンが叫びかけて、途中で声を抑えた。
駆け寄ろうとして、赤い線の前で止まる。
いい止まり方だった。
「線の横を歩け」
俺は言った。
サシャは頷こうとして、崩れた。
その後ろから、少年が彼女の肩を支えて出てくる。
背が高い。
肩から血が滲んでいる。
「トマ」
マノンが今度は小さく名前を呼んだ。
二人。
三人目はいない。
俺は迷宮の奥を見た。
赤い線は、そこから先へは届いていない。
マノンが二人を支部の職員と一緒に支えた。
職員はいつの間にか集まっていた。
窓の隙間から見ていた顔も、外に出てきている。
サシャは毛布を掛けられながら、赤い線を見ていた。
「赤い線が入口から伸びていたわけじゃありません」
声はかすれていた。
「でも、壁の丸印が、急に分かるようになったんです。さっきまで同じ染みにしか見えなかったのに、こっちが入口だって」
トマが息を整えながら続けた。
「コレットが先に気づきました。基準が戻ったって。あいつ、印を読むのが少し得意で」
マノンの手が止まる。
「コレットは」
サシャの顔が歪んだ。
「足を挟まれました。避難部屋の手前です。動かせなくて」
トマが唇を噛んだ。
「俺たちだけ戻れって。赤い印の向きが戻ってるうちに、支部まで戻れって。コレットが言いました」
マノンは何も言わなかった。
泣くより先に、台帳を見る目になっていた。
記録係の目だ。
誰が戻り、誰が残ったか。
どの場所か。
どれだけ時間があるか。
「場所は分かるか」
俺は聞いた。
トマは頷きかけて、顔をしかめた。
「たぶん。二つ目の丸印の先です。でも、丸印が半分消えてて、避難部屋か通路か分からなくて」
「見た印は」
「壁に二重丸みたいなのがありました。下半分だけ」
俺はさっき見た表示を思い出す。
《避難丸印:剥離》
《誘導印:逆流》
あそこだ。
人の場所は分からない。
だが、帰れなくなる場所は分かる。
そして今、戻った二人が、その切れ目を指で示した。
線と記録がつながった。
「コレットは生きてるのか」
リセが聞いた。
サシャはすぐには答えられなかった。
「息は、ありました。私たちが離れる時は」
リセは目を閉じた。
胸元の白い塗膜が、薄く軋む。
「……まだ、切れていません」
「読めるのか」
俺が聞くと、リセは首を振った。
「はっきりとは分かりません。でも、今聞いた名前に、死がすぐ重なる感じはありません。たぶん、まだ間に合います」
たぶん。
それで十分だ。
断言より、今は動ける余地がいる。
マノンが台帳を開いた。
「サシャ、トマ、帰還。コレット、未帰還継続。場所、初級区画二つ目の丸印先。足を挟まれ、移動不可」
手が震えている。
だが、字は読める。
「救助隊を出します」
マノンが言った。
「今すぐ?」
支部の男が聞いた。
「今すぐです」
「でも、夜だ。魔物も」
「朝まで待てば、体温が落ちます」
その判断は正しい。
だが、足りない。
「戦える奴はいるか」
俺は聞いた。
マノンは支部の男たちを見た。
「二人います。元冒険者の警備員です。強くはありませんが、初級区画なら」
「俺は戦えない」
俺は先に言った。
「魔物が出たら、前に出るのはそいつらだ」
支部の男たちが俺を見る。
驚いた顔ではない。
少し安心した顔だった。
戦えない者が、戦えるふりをする方が危ない。
「俺が見るのは線だ」
赤い入口を見た。
「救助隊が帰る線を、先に引く」
リセが立ち上がろうとした。
「私も行きます」
「無理だ」
「死の濃い方角が読めます」
「倒れる」
「それでも」
リセの手は震えていた。
怖がっていないわけではない。
ただ、コレットという名前を聞いてから、死を見る目になっている。
自分の死だけを見ていた時とは違う。
俺はリセの胸元を見た。
《死亡■■》
《塗膜残存:五日未満》
減ってはいない。
だが、無理をすれば浮く。
「入口までだ」
リセは俺を見た。
「入口で読む。奥には入るな」
「……分かりました」
納得した顔ではない。
だが、今回は止まった。
マノンが支部へ走る。
警備員を呼ぶ声が聞こえる。
包帯、灯り、予備の縄、担架。
必要なものが、次々と床に置かれていく。
それを見ながら、俺は赤い塗料壺を開けた。
残りは多くない。
本補修には足りない。
救助隊が帰るまでなら、持たせる。
サシャが毛布の中から俺を見た。
「ノルさん」
「なんだ」
「赤い線、コレットのところまでは届いていませんでした」
「そうか」
「でも、途中までは分かりました。だから、私たちは戻れました」
俺は頷いた。
線は、届いたところまで人を戻した。
届かないところには、まだ人が残っている。
なら、やることは決まっている。
俺は刷毛を握った。
「届くところまで引く」
第七迷宮の入口で、赤い線はまだ濡れていた。
乾く前に、次の線を足す必要があった。




