第21話 封鎖線の向こう側
破られた封鎖線は、魔物に裂かれた形ではなかった。
外から押された傷ではない。
内側から、古い膜が浮き上がり、新しい塗料を押し剥がしている。
リセが壁の前で立ち止まった。
封字の端を見ている。
文字ではなく、文字が石を食う跡を見ているようだった。
「迷宮の死ではありません」
「神殿か」
リセはすぐには頷かなかった。
指先が、封字のない石の前で止まる。
「紙を閉じる音がします」
「音?」
「死を読む時に、たまにあります。誰かが、名を閉じる音です」
断言を待つ相手ではない。
塗膜は、待っている間にも浮く。
《封鎖線:定着不良》
《白鐘封字:下地侵食》
白鐘の筆跡は、封鎖線の下に隠れていた。
古い黒が石の目に食い込み、こちらの赤を弾いている。
封鎖線は、塗ったそばから浮いた。
赤を置く。
乾く前に、端が持ち上がる。
石粉を払う。下地を拭く。もう一度置く。やはり浮く。
三度目で、俺は刷毛を止めた。
「失敗ですか」
トマの声が小さい。
「そうだ」
失敗は隠さない。
隠した失敗は、次に踏む者の足を取る。
サシャが驚いた顔をした。
ノルさんでも、と言いかけたのだろう。言わなかっただけ良い。
俺は小刀を深く入れた。
赤の下。古い赤の下。さらに白い補修膜の下。
石の目に食い込んだ黒い字があった。
「封」
一文字だけではない。削るほど、細い線が枝のように出てくる。
迷宮の封鎖線ではない。神殿が迷宮の下地に書いた命令だ。
リセが、封字のない石に手をついた。
「内側から、外へ開く」
「見えたか」
「少しだけ。扉ではありません。線が、逆に読まれています」
逆に読まれる。
悪い言い方ではない。
封鎖するための線を、開くために使われている。
俺は赤壺を閉じた。
「赤では駄目だ」
「封鎖線なのに?」
サシャが言う。
「封鎖線は、止めるための線だ。だが下にある字が、止める線を食っている」
「じゃあ、どうするんですか」
「下地を出す」
俺は削り始めた。
深く。だが深すぎない。石ごと削れば、線は乗らない。黒字だけを切る。刃が震えると、必要な目まで壊す。
リセが俺の手元を見ていた。
「また、自分を削るつもりですか」
「石を削っている」
「そういう意味ではありません」
俺は返事をしなかった。
血を混ぜた白の反動を、リセは見ている。胸の黒も見えている。俺がどこまでなら塗るかを、彼女は測っている。
「ここは血を使わない」
リセの肩が少し下がった。
「なぜですか」
「血は、死に近い表示にだけ噛む。迷宮の下地に使えば、線が俺の方へ戻る」
「戻る?」
「俺ごと剥がれる」
リセは黙った。
その沈黙は、さっきより重い。
俺は聖灰混じりの白を薄く置いた。
白を置いて、すぐ赤を重ねない。乾きを待つ。乾く前に急げば、上だけが強くなり、下がまた浮く。
時間がかかる。
迷宮の奥で、硬い脚音がした。
サシャが剣に手をかける。
「抜くな」
「でも」
「今は線を守る」
サシャの手が止まった。
トマがコレットの横に立つ。
コレットは壁の浮きを見て、半歩下がった。
三人が、戦うより先に線を見た。
それだけで、今日の補修は少し進んだ。
白が乾き始める。
俺は赤を置いた。
今度は浮かなかった。
《封鎖線:仮定着》
仮でいい。
乾くまで見れば、線は仕事をする。
仮定着した封鎖線の前で、俺は一晩番をした。
乾くまでが仕事だ。
塗った直後に離れれば、補修ではなく装飾になる。
夜半、赤の端が一度だけ震えた。
迷宮風ではない。下の黒字が、まだ息をしている。
リセも起きていた。
壁にもたれ、眠ってはいない。顔色は悪いが、視線は線から外れない。
「寝ろ」
「あなたもです」
「俺は番だ」
「私もです」
何の番かは言わなかった。
俺の胸の黒か、リセ自身の封字か、それともこの線か。
たぶん全部だ。
赤がもう一度震える。
俺は指先で空気だけを押さえた。触れない。触れれば表面が破れる。
「乾くまで、何もできない時間がある」
「嫌な時間ですね」
「必要な時間だ」
リセは少し黙った。
「死にも、そういう時間がありますか」
「あるなら、使う」
それ以上は言わなかった。
赤は夜明け前に落ち着いた。
完全ではない。だが、朝の一歩には耐える。
それで、今日の線としては足りた。




