第20話 線を守れない冒険者
第七迷宮の四番分岐で、サシャはまた前に出た。
前よりは遅い。
後ろを見る回数も増えた。だが、危険が近づくと体が先に動く。剣を抜き、線より前へ出る。
「止まれ」
俺の声より、魔物の脚音の方が早かった。
小型の石蜥蜴が、横穴から飛び出す。硬い鱗が灯りを弾く。サシャは剣を構えた。
勝てない相手ではない。
それが悪い。
勝てそうな相手ほど、帰る線を忘れる。
サシャの靴が、白い帰還路印を踏み越えた。
胸の黒が濃くなる。
《死亡予定:接近》
俺のものではない。
サシャの肩の上に、薄い黒が走った。
物理的な危険が近い時だけ出る表示だ。平時の《未確定》とは違う。乾く前に、刃が届く距離まで死が来ている。
「下がれ」
「でも、倒せます!」
「倒しても帰れない」
サシャが迷った。
その迷いの間に、石蜥蜴が低く跳ぶ。
俺は赤ではなく、白を投げた。
刷毛では間に合わない。白壺の縁についた塗料を指で取り、床の古い帰還丸印へ叩きつける。
白が一筋、欠けた丸をつないだ。
サシャの踵が、その白を見つける。
退く場所が一つだけ戻った。
石蜥蜴の爪が、さっきまでサシャのいた石を削る。
魔物を止めたのではない。
サシャが戻れる場所を、乾く前に作っただけだ。
「サシャ!」
トマの声。
今度は届いた。
サシャは後ろへ跳んだ。
剣の切っ先が石蜥蜴の外殻をかすめる。倒せてはいない。だが、白い丸の内側へ戻った。
黒い表示が薄くなる。
《死亡予定:未確定》
息を吐く音が三つ重なった。
「助けてくれたんですか」
サシャが言った。
「助けた」
俺は床を見る。
指でつないだ白は荒い。三歩も踏めば剥がれる。
「だから今、線を見ろ」
サシャは唇を噛んだ。
倒せなかった悔しさではない。戻された悔しさでもない。自分が何を踏み越えたかに気づいた顔だった。
トマは白丸を見ていた。
「これが、戻る場所」
「そうだ」
「怖い時ほど、足元」
「覚えておけ」
コレットは壁を見ていた。
戦いが終わったあとも、魔物ではなく線の端を見ている。
「こっち、赤が浮いてます」
俺はそちらへ向かった。
封鎖線の端に、細かな泡が出ている。迷宮の湿気ではない。下から別の字が押している。
白鐘封字。
記録で見た筆圧と同じ食い方だった。
リセが少し遅れて来た。
彼女の顔色が悪い。
「今のは、迷宮の死だけじゃありません」
「神殿か」
「たぶん」
たぶんで十分だった。
断言できるほど浅い相手ではない。
俺は赤い線を削った。
下から、細い黒字の端が覗く。
塗った線が守れないのではない。
守る線の下に、別の命令がある。
それなら、次は削る深さを変える必要がある。
戻ったあと、サシャはしばらく剣を鞘に入れなかった。
戦い足りないのではない。抜いた剣の置き場が分からない顔だった。
「私は、前に出ない方がいいんですか」
「必要な時は出る」
「今は必要じゃなかった」
「そうだ」
サシャは剣を見た。
「前に出れば、誰も置いていかないと思ってました」
「置いていくこともある」
「……はい」
剣を鞘に戻す音がした。
硬い音だった。自分の間違いをしまう音だ。
トマが白丸を見ながら言った。
「サシャが戻った時、見えました。帰る場所があると、声が出せる」
「なら、次は先に見ろ」
「はい」
コレットは浮いた赤を見ていた。
「線が変だと、魔物より怖いです」
「良い怖がり方だ」
三人はそれぞれ違うものを怖がっている。
前へ出ること。置いていくこと。見落とすこと。
同じに直す必要はない。
違う怖さを、同じ帰り道に乗せればいい。




