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第14話 俺の胸にも、死が浮いた

入口基準印の端は、まだ乾いていなかった。


石床に膝をつき、白の膜を指の腹で軽く押す。

押し込まない。

乾きかけの塗膜は、強く触れると表だけ破れる。


「ノルさん」


リセの声が、背中の少し後ろで止まった。


俺は振り向かなかった。

線の端が、わずかに浮いている。

昨日つないだ仮接続だ。人が多く踏めば、もう一度切れる。


「見えます」


「何が」


「あなたの死です」


そこで、俺は手を止めた。


胸元に視線を落とす。

作業服の布の上に、黒いものが薄く浮いていた。

リセに貼りついていた《死亡確定》とは違う。

釘で打ったような硬さはない。

濡れた黒が、下からにじむ前の浮きだった。


《死亡予定:未確定》


乾いていない墨のような表示だった。


「私のものと同じではありません」


リセは近づきすぎなかった。

俺でも信用しない。死にかけたところへ、塗料壺を持った男が近づいてくる。まして、その男の胸にも死が浮いたのなら、なおさらだ。


「死はあるのに、死に方が読めません」


「そうか」


「そうか、ではありません」


声が少し硬かった。

怒っているのか、怖がっているのかは分からない。

ただ、リセの指は俺の胸ではなく、俺の手元を見ていた。

爪の間に残った白。

袖口に乾いた赤。

昨日、血を混ぜた白の名残だ。


「あなたは、人の死には丁寧なのに、自分の死には雑です」


「雑にした覚えはない」


「あります」


短い返事だった。

言い切れるほど俺を知っているわけではないはずだ。

だが、そう見えたのなら、そういう作業をしていたのだろう。


俺は胸の黒に指を近づけた。

塗れるかどうかを見る。

死が印になって浮いている。条件は合う。

だが、下地が薄い。

俺自身の下地だ。ここを深く塗れば、死だけでなく下地ごと持っていかれる。


「まだ乾いていない」


「何がですか」


「俺の下地だ。今、深く塗れば俺ごと剥がれる」


リセが息を呑んだ。


「だから塗らない」


「怖くないんですか」


「怖がる前に、見る」


俺は入口基準印へ視線を戻した。

白い線の端が、靴跡で少し濁っている。

ここが切れれば、今日入る者が迷う。


マノンが台帳を抱えて走ってきた。

息を整えきらないまま、俺たちの前で足を止める。


「ノルさん。支部長からです。第七迷宮の直近三か月分を、全部出せと」


「出ているか」


「はい」


マノンは台帳を開いた。

細い指が数字の上を滑る。

未帰還者欄で、その指だけが止まった。


《第七迷宮:生還率四十二%》


黒い数字が、俺の目に浮いた。


四十二。

低い数字だ。

だが、数字はただ低いだけではない。

線が切れた場所に、人が戻らない空白がある。


リセがまだ俺を見ていた。


「先に休んでください」


「休むほど乾いていない」


俺は刷毛を取った。

入口基準印の端をもう一度削る。


自分の胸元より、目の前の線の方が先に剥がれる。


「先に、こっちを乾かす」


マノンは、俺の胸の表示を見ていなかった。

見えていないのか、見えた上で見ないことにしたのかは分からない。

支部の者は、冒険者の死に慣れすぎている。慣れてはいけないものに慣れると、数字の読み方が変わる。


俺は入口の石を削った。

古い白を一度落とす。新しい塗料を重ねるだけでは、下の濁りが残る。濁りの上に白を置けば、一見きれいに見える。だが、踏まれた時に先に剥がれるのは下だ。


リセは黙って立っていた。

最初に会った時に比べれば、距離は近い。だが、まだ肩が触れるほどではない。信用している距離ではない。逃げるための余地を残した距離だった。


「それは、いつから見えていたんですか」


「さっきだ」


「本当に?」


「隠す意味がない」


リセは返事をしなかった。

視線が、俺の胸から手元に移る。俺が何を塗るかを見ている。俺が何を塗らないかも見ている。


「私の《死亡確定》と違うなら、まだ猶予があるんですね」


「ある。たぶん」


「たぶん、ですか」


「乾き具合で見るなら、そうだ」


確定ではない。

だが、乾く前に触れれば崩れる。

職人の判断としては、それで足りた。


入口に、三人の新人が来た。

サシャが先頭で、トマがその半歩後ろ。コレットは最後にいた。足を挟まれた方を少し庇っている。本人は隠しているつもりかもしれないが、歩幅に出ていた。


三人とも、俺の胸を見なかった。

見えないのだろう。

リセだけが見える死。俺だけが塗れる死。そこに、支部が読める数字が乗る。


三つの見え方が、同じ場所で重なっている。


俺は白を置いた。

細い線を一筋。


「今日から、帰るための仕事を始める」


サシャの顔が上がった。

トマは足元を見た。

コレットは、壁の古い線を見た。


まずは足りる。

見る場所が違う。

違うまま帰れる線を作る。


作業が一段落した時、アルヴァンが入口からこちらを見ていた。

支部長の目は、俺ではなく、俺の胸元で一度止まった。表示が見えたわけではない。リセと俺の間にある沈黙を見たのだろう。


「体調に問題があるなら、日程は調整する」


「線の方が先だ」


「君は、いつもそう答えるのか」


「だいたいは」


アルヴァンは困った顔をした。

この男は、止めるべき相手を止められなかった経験がある顔をしている。支部の棚に並んだ未帰還札は、支部長の顔にも塗膜を残す。


「なら、こちらも条件を出す。倒れる前に申告しろ」


「倒れる前が分かればな」


「リセ殿」


呼ばれたリセが、肩を少し強くした。


「見えたら、私に言ってほしい」


リセは俺を見た。

許可を求める目ではない。断る理由を探す目でもない。どこまで言っていいか、線を測る目だった。


「分かる範囲なら」


「十分だ」


俺は口を挟まなかった。

俺の死が、俺だけの作業ではなくなっていく。面倒だとは思う。だが、線は一人で引いても、踏むのは一人ではない。


リセは胸元から視線を外した。


「今は、遠いです」


「遠いならいい」


「遠いだけです」


その訂正は、乾く前の白に置く小さな印のようだった。

俺は覚えておくことにした。



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